文句を言いながら、鍋をオーブンの中に入れて、メニューから調理開始ボタンを押す。三百秒と表示された待ち時間にも彼女はてきぱきと動き回り、無数にストックしてあるらしい食材アイテムを次々とオブジェクト化しては、淀みない作業で付け合わせを作っていく。実際の作業とメニュー操作を一回のミスも無くこなしていくその動きに、俺はついつい見とれてしまう。
わずか五分で豪華な食卓が整えられ、俺とアスナは向かい合わせで席についた。眼前の大皿には湯気を上げるブラウンシチューがたっぷりと盛り付けられ、鼻腔を刺激する芳香を伴った蒸気が立ち上っている。照りのある濃密なソースに覆われた大ぶりな肉がごろごろと転がり、クリームの白い筋が描くマーブル模様が実に魅惑的だ。
俺たちはいただきますを言うのももどかしくスプーンを取ると、SAO内で存在し得る最上級の食い物であるはずのそれをあんぐりと頰張った。口中に充満する熱と香りをたっぷり味わってから、柔らかい肉に歯を立てると、溢れるように肉汁が迸る。
SAOにおける食事は、オブジェクトを歯が嚙み砕く感触をいちいち演算でシミュレートしているわけではなく、アーガスと提携していた環境プログラム設計会社の開発した《味覚再生エンジン》を使用している。
これはあらかじめプリセットされた、様々な《物を食う》感覚を脳に送り込むことで使用者に現実の食事と同じ体験をさせることができるというものだ。もとはダイエットや食事制限が必要な人のために開発されたものらしいが、要は味、匂い、熱等を感じる脳の各部位に偽の信号を送り込んで錯覚させるわけだ。つまり俺たちの現実の肉体はこの瞬間も何を食べているわけでもなく、ただシステムが脳の感覚野を盛大に刺激しているだけにすぎない。
だが、この際そんなことを考えるのは野暮というものだ。今俺が感じている、ログインして以来最高の美味は間違いなく本物だ。俺とアスナは一言も発することなく、ただ大皿にスプーンを突っ込んでは口に運ぶという作業を黙々と繰り返した。
やがて、きれいに──文字通りシチューが存在した痕跡もなく──食い尽くされた皿と鍋を前に、アスナは深く長いため息をついた。
「ああ……いままでがんばって生き残っててよかった……」
まったく同感だった。俺は久々に原始的欲求を心ゆくまで満たした充足感に浸りながら、不思議な香りのするお茶を啜った。さっき食べた肉やこの茶は、実際に現実世界に存在する食材の味を記録したものなのか、それともパラメータを操作して作り出した架空の味だろうか。そんなことをぼんやり考える。
饗宴の余韻に満ちた数分の沈黙を、俺の向かいでお茶のカップを両手で抱えたアスナがぽつりと破った。
「不思議ね……。なんだか、この世界で生まれて今までずっと暮らしてきたみたいな、そんな気がする」
「……俺も最近、あっちの世界のことをまるで思い出さない日がある。俺だけじゃないな……この頃は、クリアだ脱出だって血眼になる奴が少なくなった」
「攻略のペース自体落ちてるわ。今最前線で戦ってるプレイヤーなんて、五百人いないでしょう。危険度のせいだけじゃない……みんな、馴染んできてる。この世界に……」
俺は橙色のランプの明かりに照らされた、物思いにふけるアスナの美しい顔をそっと見つめた。
確かにその顔は、生物としての人間のものではない。なめらかな肌、艶やかな髪、生き物としては美しすぎる。しかし、今の俺にはその顔がポリゴンの作り物には最早見えない。そういう生きた存在として素直に納得することができる。多分、今もとの世界に帰還して本物の人間を見たら、俺は激しい違和感を抱くだろう。
俺は本当に帰りたいと思っているんだろうか……あの世界に……?
ふと浮かんできたそんな思考に戸惑う。毎日朝早く起き出して危険な迷宮区に潜り、未踏破区域をマッピングしつつ経験値を稼いでいるのは、本当にこのゲームを脱出したいからなのだろうか。
昔はたしかにそうだったはずだ。いつ死ぬとも知れないデスゲームから早く抜け出したかった。しかし、この世界での生き方に慣れてしまった今は──。
「でも、わたしは帰りたい」
俺の内心の迷いを見透かすような、歯切れのいいアスナの言葉が響いた。ハッとして顔を上げる。
アスナは、珍しく俺に微笑みを見せると、続けて言った。
「だって、あっちでやり残したこと、いっぱいあるから」
その言葉に、俺は素直に頷いていた。
「そうだな。俺たちががんばらなきゃ、サポートしてくれる職人クラスの連中に申し訳が立たないもんな……」
消えない迷いを一緒に飲み下すように、俺はお茶のカップを大きく傾けた。まだまだ最上階は遠い。その時が来てから考えればいいことだ。
珍しく素直な気分で、俺はどう感謝の念を伝えようかと言葉を探しながらアスナを見つめた。すると、アスナは顔をしかめながら目の前で手を振り、
「あ……あ、やめて」
などと言う。
「な、なんだよ」
「今までそういうカオした男プレイヤーから、何度か結婚を申し込まれたわ」
「なっ……」
悔しいかな、戦闘スキルには熟達してもこういう場面に経験の浅い俺は、言葉を返すこともできず口をぱくぱくさせた。さぞや間抜けな顔をしていることだろう。
そんな俺を見て、アスナはにまっと笑った。
「その様子じゃ、他に仲のいい子とかいないでしょ君」
「悪かったな……いいんだよソロなんだから」
「せっかくMMORPGやってるんだから、もっと友達作ればいいのに」
アスナは笑みを消すと、どことなく姉か先生のような口調で問いかけてきた。
「君は、ギルドに入る気はないの?」
「え……」
「ベータ出身者が集団に馴染まないのは解ってる。でもね」
表情が更に真剣味を帯びる。
「七十層を超えたあたりから、モンスターのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてるような気がするんだ」
それは俺も感じてはいた。CPUの戦術が読みにくくなってきたのは、当初からの設計なのか、それともシステム自体の学習の結果なのか。後者だったら、今後どんどん厄介なことになりそうだ。
「ソロだと、想定外の事態に対処できないことがあるわ。いつでも緊急脱出できるわけじゃないのよ。パーティーを組んでいれば安全性がずいぶん違う」
「安全マージンは十分取ってるよ。忠告は有り難く頂いておくけど……ギルドはちょっとな。それに……」
ここでよせばいいのに強がって、俺は余計なことを言った。
「パーティーメンバーってのは、助けよりも邪魔になることのほうが多いし、俺の場合」
「あら」
ちかっ、と目の前を銀色の閃光がよぎった。
と思った時には、アスナの右手に握られたナイフがピタリと俺の鼻先に据えられていた。
細剣術の基本技《リニアー》だ。基本とは言え、圧倒的な敏捷度パラメータ補正のせいで凄まじいスピードである。正直なところ、技の軌道はまったく見えなかった。
ひきつった笑いとともに、俺は両手を軽く上げて降参のポーズを取った。
「……解ったよ。あんたは例外だ」
「そ」
面白くもなさそうな顔でナイフを戻し、それを指の上でくるくる回しながら、アスナはとんでもないことを口にした。
「なら、しばらくわたしとコンビ組みなさい。ボス攻略パーティーの編成責任者として、君がウワサほど強いヒトなのか確かめたいと思ってたとこだし。わたしの実力もちゃんと教えて差し上げたいし。あと今週のラッキーカラー黒だし」
「な、なんだそりゃ!」