1 アインクラッド

19 ②

 俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。そのままくるりと後ろを向き、だつごとく駆け出す。背後の巨大魚はとどろくようなほうこうを上げると、当然のように地響きを立てながら俺を追ってきた。

 びんしよう全開で宙を飛ぶようにダッシュした俺は、数秒でアスナのそばまで達すると猛然と抗議した。


「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」

「わぁ、そんなこと言ってる場合じゃないよキリト君!」


 振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。


「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」

「キリトさん、のんなこと言っとる場合じゃないですよ!! 早く逃げんと!!」


 今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリーたちも余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだままぼうぜんとするだけの者も少なくない。


「キリト君、武器持ってる?」


 俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが──。


「スマン、持ってない……」

「しょうがないなぁもう」


 アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。

 ニシダやほかの見物人たちがぼうぜんと見守る中、こちらに背を向けてすっくと立ったアスナは両手でスカーフと分厚いオーバーを同時にぎ取った。陽光を反射してきらきらかがやくりいろの髪が、風の中でれいに舞った。

 オーバーの下は草色のロングスカートとり麻のシャツの地味な格好だが、その左腰には銀鏡仕上げの細剣のさやがまばゆく光っている。右手で音高く剣を抜き放ち、ひびきを上げて殺到する巨大魚を悠然と待ち構える。

 おれの横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子で俺の腕をつかむと大声で叫んだ。


「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」

「いや、任せておけばだいじようです」

「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が…」


 かたわらの仲間から釣り竿ざおをひったくり、それを悲壮な表情で構えてアスナのほうに駆け出そうとする老釣り師を、俺は慌てて制した。

 巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数のきばが並ぶ口を大きく開けるとアスナを一飲みにする勢いで身をおどらせた。その口に向かって、体を半身に引いたアスナの右手が白銀のこうぼうを引いて突き込まれた。

 爆発じみたしようげきおんと共に、巨大魚の口中でまばゆいエフェクトフラッシュがさくれつした。魚は宙高く吹き飛ばされたが、アスナの両足の位置はわずかも変わっていない。

 モンスターの図体にはかなりしんたん寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうと俺は予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからにはじんに強敵であるはずがないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。

 地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、《せんこう》の異名に恥じない連続攻撃がようしやなく加えられた。

 華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々をり出すアスナの姿を、ニシダや他の参加者たちはほうけたような顔で見つめていた。彼らはアスナの美しさと強さのどちらに見とれているのだろうか。多分両方だ。

 周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んできよを取り、着地と同時に突進攻撃を敢行した。すいせいのように全身から光の尾を引きながら、正面から巨大魚に突っ込んでいく。最上位細剣技の一つ、《フラッシング・ペネトレイター》だ。

 ソニックブームに似た衝撃音と共に彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長いかつそうを経てアスナが停止した直後、敵の巨体がぼうだいな光の欠片かけらとなって四散した。いつしゆん遅れて巨大な破砕音がとどろき、湖の水面に大きな波紋を作り出した。

 チン、と音を立ててアスナが細剣をさやに収め、すたすたとこちらに歩み寄ってきても、ニシダたちは口を開けたままじろぎひとつしなかった。


「よ、お疲れ」

「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」

「もう財布も共通データじゃないか」

「う、そうか……」


 おれとアスナがきんちようかんのないやり取りをしていると、ようやくニシダが目をパチパチさせながら口を開いた。


「……いや、これはおどろいた……。奥さん、ず、ずいぶんお強いんですな。失礼ですがレベルはほど……?」


 俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。


「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」


 アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀にかがやく一本の釣り竿ざおが出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。


「お、おお、これは!?」


 ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまくせたかな…と思った時。


「あ……あなた、血盟だんのアスナさん……?」


 一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。


「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」

「う……」


 アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先ほどに倍するどよめきが周囲から沸き起こった。


「か、感激だなぁ! アスナさんのせんとうをこんな間近で見られるなんて……。そうだ、サ、サインお願いしていいで……」


 若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。ぼうぜんとした表情でつぶやく。


「け……結婚、したんすか……」


 今度は俺がこわった笑いを浮べる番だった。二人並んで不自然に笑う俺たちの周りで、悲嘆に満ちた叫びが一斉に上がった。ニシダだけは何のことやらわからないといった様子で目をぱちくりさせていたが。


 おれとアスナのひそやかなみつげつは、このようにしてわずか二週間で終わりを迎えることとなった。だが、結局のところ、最後に愉快なイベントに参加できたのは幸運だったのかも知れなかった。

 その日の夜、俺たちの元に、七十五層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。

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