俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。そのままくるりと後ろを向き、脱兎の如く駆け出す。背後の巨大魚は轟くような咆哮を上げると、当然のように地響きを立てながら俺を追ってきた。
敏捷度全開で宙を飛ぶようにダッシュした俺は、数秒でアスナの傍まで達すると猛然と抗議した。
「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」
「わぁ、そんなこと言ってる場合じゃないよキリト君!」
振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。
「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」
「キリトさん、吞気なこと言っとる場合じゃないですよ!! 早く逃げんと!!」
今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリーたちも余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだまま呆然とするだけの者も少なくない。
「キリト君、武器持ってる?」
俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが──。
「スマン、持ってない……」
「しょうがないなぁもう」
アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。
ニシダや他の見物人たちが呆然と見守る中、こちらに背を向けてすっくと立ったアスナは両手でスカーフと分厚いオーバーを同時に剝ぎ取った。陽光を反射してきらきら輝く栗色の髪が、風の中で華麗に舞った。
オーバーの下は草色のロングスカートと生成り麻のシャツの地味な格好だが、その左腰には銀鏡仕上げの細剣の鞘がまばゆく光っている。右手で音高く剣を抜き放ち、地響きを上げて殺到する巨大魚を悠然と待ち構える。
俺の横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子で俺の腕を摑むと大声で叫んだ。
「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」
「いや、任せておけば大丈夫です」
「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が…」
傍らの仲間から釣り竿をひったくり、それを悲壮な表情で構えてアスナのほうに駆け出そうとする老釣り師を、俺は慌てて制した。
巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数の牙が並ぶ口を大きく開けるとアスナを一飲みにする勢いで身を躍らせた。その口に向かって、体を半身に引いたアスナの右手が白銀の光芒を引いて突き込まれた。
爆発じみた衝撃音と共に、巨大魚の口中でまばゆいエフェクトフラッシュが炸裂した。魚は宙高く吹き飛ばされたが、アスナの両足の位置はわずかも変わっていない。
モンスターの図体にはかなり心胆寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうと俺は予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからには理不尽に強敵である筈がないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。
地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、《閃光》の異名に恥じない連続攻撃が容赦なく加えられた。
華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々を繰り出すアスナの姿を、ニシダや他の参加者たちは呆けたような顔で見つめていた。彼らはアスナの美しさと強さのどちらに見とれているのだろうか。多分両方だ。
周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んで距離を取り、着地と同時に突進攻撃を敢行した。彗星のように全身から光の尾を引きながら、正面から巨大魚に突っ込んでいく。最上位細剣技の一つ、《フラッシング・ペネトレイター》だ。
ソニックブームに似た衝撃音と共に彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長い滑走を経てアスナが停止した直後、敵の巨体が膨大な光の欠片となって四散した。一瞬遅れて巨大な破砕音が轟き、湖の水面に大きな波紋を作り出した。
チン、と音を立ててアスナが細剣を鞘に収め、すたすたとこちらに歩み寄ってきても、ニシダたちは口を開けたまま身動ぎひとつしなかった。
「よ、お疲れ」
「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」
「もう財布も共通データじゃないか」
「う、そうか……」
俺とアスナが緊張感のないやり取りをしていると、ようやくニシダが目をパチパチさせながら口を開いた。
「……いや、これは驚いた……。奥さん、ず、ずいぶんお強いんですな。失礼ですがレベルは如何ほど……?」
俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。
「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」
アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀に輝く一本の釣り竿が出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。
「お、おお、これは!?」
ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまく誤魔化せたかな…と思った時。
「あ……あなた、血盟騎士団のアスナさん……?」
一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。
「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」
「う……」
アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先ほどに倍するどよめきが周囲から沸き起こった。
「か、感激だなぁ! アスナさんの戦闘をこんな間近で見られるなんて……。そうだ、サ、サインお願いしていいで……」
若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。呆然とした表情で呟く。
「け……結婚、したんすか……」
今度は俺が強張った笑いを浮べる番だった。二人並んで不自然に笑う俺たちの周りで、悲嘆に満ちた叫びが一斉に上がった。ニシダだけは何のことやら解らないといった様子で目をぱちくりさせていたが。
俺とアスナのひそやかな蜜月は、このようにしてわずか二週間で終わりを迎えることとなった。だが、結局のところ、最後に愉快なイベントに参加できたのは幸運だったのかも知れなかった。
その日の夜、俺たちの元に、七十五層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。