翌朝。
ベッドの端に腰掛けてがっくりとうなだれていると、支度を済ませたアスナが鋲付きブーツを音高く鳴らしながら目の前までやってきて言った。
「ほら、いつまでもくよくよしてない!」
「だってまだ二週間なんだぜ」
子供のように口答えをしながら顔を上げる。しかし実際のところ、久しぶりに白と赤の騎士装を身に着けたアスナは非常に魅力的に見えたことは否定できない。
ギルドを仮にせよ脱退するに至った経緯を考えれば、今回の要請を断ることもできただろう。だが、メッセージの末尾にあった
「すでに被害が出ている」という一文が俺たちに重くのしかかっていた。
「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」
背中を叩かれてしぶしぶ腰を上げ、装備画面を開く。ギルドは一時脱退中なので、馴染んだ黒のレザーコートと最小限の防具類を身につけ、最後に二本の愛剣を背中に交差して吊った。その重みは、長らくアイテム欄に放置しっぱなしだったことに対して無言の抗議をしているかのようだ。俺は剣たちをなだめるように少しだけ抜き出し、同時に勢い良く鞘に収めた。高く澄んだ金属音が部屋中に響いた。
「うん、やっぱりキリト君はその格好のほうが似合うよ」
アスナがにこにこしながら右腕に飛びついてくる。俺は首をぐるりと回してしばしの別れとなる新居を見渡した。
「……さっさと片付けて戻ってこよう」
「そうだね!」
頷きあうと、俺たちはドアを開け、冬の気配が色濃くなった冷たい朝の空気の中へと足を踏み出した。
二十二層の転移門広場では、釣り竿を抱えたお馴染みの姿でニシダが俺たちを待っていた。彼だけには出発の時刻を伝えておいたのだ。
ちょっとお話よろしいですか、という彼の言葉に頷いて、俺たちは三人並んで広場のベンチに腰掛けた。上層の底部を見上げながら、ニシダはゆっくりと話し始めた。
「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるということがどこか別世界の話のように思えておりました。……内心ではもうここからの脱出を諦めていたのかもしれませんなぁ」
俺とアスナは無言で彼の言葉を聞いていた。
「ご存知でしょうが電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若い頃から相当いじってきたクチですから今まで何とか技術の進歩に食らいついて来ましたが、二年も現場から離れちゃもう無理ですわ。どうせ帰っても会社に戻れるか判らない、厄介払いされて惨めな思いをするくらいなら、ここでのんびり竿を振ってたほうがマシだ、と……」
言葉を切り、深い年輪の刻まれた顔に小さい笑みを浮べる。俺は掛ける言葉が見つからなかった。SAOの囚人となったことによってこの男が失った物は、俺などに想像できる範疇のものではないだろう。
「わたしも──」
アスナがぽつりと言った。
「わたしも、半年くらい前までは同じことを考えて毎晩独りで泣いていました。この世界で一日過ぎる度に、家族のこととか、友達とか、進学とか、わたしの現実がどんどん壊れていっちゃう気がして、気が狂いそうだった。寝てる時も元の世界の夢ばっかり見て……。少しでも強くなって早くゲームクリアするしかない、って武器のスキル上げばっかりしてたんです」
俺は驚いて傍らのアスナの顔を見詰めた。俺と出会った頃はそんな様子はまるで見えなかった。他人のことをろくに見ていないのは今に始まったことではないが……。
アスナは俺に視線を送るとかすかに微笑んで、言葉を続けた。
「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の芝生で昼寝してる人がいるんです。レベルも相当高そうだったし、わたし頭に来ちゃって、その人に『こんなとこで時間を無駄にする暇があったらすこしでも迷宮を攻略してください』って……」
片手を口に当ててクスクスと笑う。
「そしたらその人、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない』って言って、横の芝生を指して『お前も寝ていけ』なんて。失礼しちゃいますよね」
笑いを収め、視線を遠くへと向けてアスナは続けた。
「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人はこの世界でちゃんと生きてるんだ、って思って。現実世界で一日無くすんじゃなくて、この世界で一日積み重ねてる、こんな人もいたのか──って……。ギルドの人を先に行かせて、わたし、その人の隣で横になってみました。そしたらほんとに風が気持ちよくて……ぽかぽかあったかくて、そのまま寝ちゃったんです。怖い夢も見ないで、多分この世界に来て初めて本当にぐっすり寝ました。起きたらもう夕方で、その人が横で呆れた顔してました。……それがこの人です」
言葉を切ると、アスナは俺の手をぎゅっと握った。俺は内心で激しく狼狽していた。確かにその日のことはなんとなく覚えているが……。
「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」
「解ってるわよ。言わなくていいのそんなこと!」
アスナは唇を尖らせる仕草をすると、にこにこしながら話を聞いているニシダに向き直った。
「……わたし、その日から、毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたら嫌な夢も見なくなった。がんばって彼のホーム調べて、時間作っては会いに行って……。だんだん、明日がくるのが楽しみになって……恋してるんだって思うとすっごく嬉しくて、この気持ちだけは大切にしようって。初めて、ここに来てよかった、って思いました……」
アスナは俯くと白手袋をはめた手で両目をごしごし擦り、大きく息を吸って続けた。
「キリト君はわたしにとって、ここで過ごした二年間の意味であり、生きた証であり、明日への希望そのものです。わたしはこの人に出会う為に、あの日ナーヴギアを被ってここに来たんです。……ニシダさん、生意気なことかもしれませんけど、ニシダさんがこの世界で手に入れたものだってきっとあるはずです。確かにここは仮想の世界で、目に見えるものはみんなデータの偽物かもしれない。でも、わたしたちは、わたしたちの心だけは本物です。なら、わたしたちが経験し、得たものだってみんな本物なんです」
ニシダは盛んに目をしばたかせながら何度も頷いていた。眼鏡の奥で光るものがあった。俺も目頭が熱くなるのを必死にこらえた。
俺だ、と思った。救われたのは俺だ。現実世界でも、ここに囚われてからも生きる意味を見つけられなかった俺こそが救われたのだ。
「……そうですなぁ、本当にそうだ……」
ニシダはふたたび空を見上げながら言った。
「今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな。……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」
大きくひとつ頷くと、ニシダは立ち上がった。
「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなたたちのような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私にできることは何もありませんが、──がんばってください。がんばってください」
ニシダは俺たちの手を握ると、何度も上下に振った。
「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」
俺が右手の人差し指を動かすと、ニシダは顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。
俺たちは固く握手を交わし、転移ゲートへと足を向けた。蜃気楼のように揺れる空間に踏み込み、アスナと顔を見合わせると、二人同時に口を開いた。
「転移──グランザム!」
視界に広がる青い光が、いつまでも手を振るニシダの姿を徐々にかき消していった。