声優ラジオのウラオモテ DJCD
『ティアラ☆スターズライブ 〝オリオン〟VS〝アルフェッカ〟』当日。
加賀崎は由美子を、家まで迎えに行っていた。
ライブは夕方からだが、集合は早朝。
これから会場で念入りに準備をして本番に挑むので、朝から大忙しだ。
「おはよう、加賀崎さん」
「あぁ、おはよう」
由美子は普段どおり、助手席に乗り込んだ。
数年前から変わらない、彼女が座る席。
ライブ前であっても由美子は変わらず、むしろテンションが高いくらいで、「うわぁ、緊張するなあ」「もう本番だなんて信じらんないよ」「楽しみだなぁ」と繰り返し、加賀崎は苦笑しながら聞くのが定番だった。
しかし、今日の由美子は違う。
「――――――――――――」
無言で、前に視線を向けている。
楽しそうに話す、普段の由美子の姿はなかった。
あぁきたか、と加賀崎は思う。
歌種やすみは時折、信じられないほどの集中力を発揮する。
周りが見えない、聞こえないくらいに入り込み、実力以上のパフォーマンスを見せる。
『幻影機兵ファントム』で魅せた逸脱した演技は、その集中力から生み出されたものだ。
……理想を言えば、これを意図的に出せればいいのだが。
本人でもコントロールが効かないうえに、何より当人に自覚がなかった。
彼女がこの状態ならば、今日のライブは安心して見られる。
邪魔をせず、加賀崎は黙って運転していた。
普段のふたりを知る人からすれば、「歌種さん、また加賀崎さんが怒るようなことした?」と思われそうな空気ではあったけれど。
会場入りしたあと、挨拶をしながら楽屋に向かう。
楽屋前では、千佳と成瀬のコンビと鉢合わせになった。
「あ! おはようございます、加賀崎さん!」
「おはようございます、成瀬さん」
成瀬のぴょんと跳ねるような挨拶に、加賀崎はにっこりと愛想よく挨拶を返す。
由美子と千佳は、顎を上げる、小首を傾げる、という互いに挨拶とも言えない挨拶をしてから、楽屋に入っていった。
その挨拶自体は、いつもどおりだが……、雰囲気は違う。
ピリッとした空気の中に、違和感が滲み出ていた。
由美子があれほど自主練に励んでいるのも、集中力を発揮しているのも、夕暮夕陽が関係しているからだろう。
成瀬と加賀崎は楽屋の外で、顔を寄せ合って言葉を交わした。
「歌種さん、随分と集中してますね。目つきが違います」
「えぇ、かなり気合入ってるみたいで。たぶん、夕暮絡みだと思うんですが」
そう答えると、成瀬は苦笑いをこぼした。
「そうだと思います。夕陽ちゃんも、涼しい顔をして闘志メラメラって感じで。気合が伝わってきます」
どうやら、あちらも同じような状況らしい。
ふたり並んで、その関係にしみじみと思いを馳せる。
「あのふたりは、すっかりライバル関係が根付きましたね」
「はい。ありがたいことです。毎回、仕事がいっしょになってほしいくらいです」
本人たちが聞いたら、本気で嫌がりそうなことを口にする。
だが、マネージャーとしてはこれ以上ないくらい嬉しい状況だ。
互いに意識し、高め合い、実力以上の力を発揮する。
そこで得た評価は、それぞれ本人たちのものになる。
特に由美子は、自分ではあの集中力をコントロールできないのだから。
意識する相手というのは、つくづくありがたいと思う。
そこでスマホに連絡が入ったので、成瀬と別れて電話ができる場所に向かった。
廊下を進んでいると、やけにキラキラした女性が前から歩いてくる。
彼女は加賀崎に気が付くと、パッと笑顔を浮かべた。
「あ。おはようございます、加賀崎さん」
「おはよう、桜並木」
ここ最近、さらに輝きを増した桜並木乙女だった。
加賀崎と乙女は現場で何度も顔を合わせているし、由美子を交えて三人で食事に行ったこともあるくらい、気安い関係だ。
電話を掛ける用もあるし、ここで別れてもよかったのだが、聞きたいことがあった。
少し雑談をこなしてから、大袈裟にならないように尋ねる。
「そういえば桜並木。カラメルに引き抜かれそうになったんだって?」
何か一言言っておけば、乙女のマネージャーである水戸への心証もよくなるだろう。
そんな思惑があっての質問だったが、乙女は意外そうに目を見開いた。
照れくさそうに頬を掻く。
「あ、まぁ、はい……。なんだか、いろんな人に聞かれてる気がします。そんなに噂になってるんですか?」
「まぁ。今をときめく人気声優、桜並木乙女が声掛けられた、って聞いたらな。多少ざわつくのもしょうがないだろ」
そこは本音で答える。
数年前までかわいいだけの小娘だったのに、その数年で彼女はメキメキと頭角を現した。
この世代の中では、間違いなくトップ声優だ。
少し前まで脆さや甘さがあったのに、それも今は消えている。
そのためか、乙女の輝きはより強くなっていた。
だからこそ、由美子たちはこのライブで、「こんな人相手にどう戦えばいい?」と頭を抱えていたのだ。
そして、乙女は意外にも己の評価を間違えない。
加賀崎の言葉に謙遜を挟むことなく、「そういうものですか」と笑った。
水戸のことを考えれば、ここで「育ててくれた事務所は、大事にしたほうがいいぞ」とでも言い含んでおくべきなんだろうが。
つい、カラメルへの興味が勝ってしまった。
「……なんで、カラメルを蹴ったんだ?」
その問いに、乙女は意外そうに首を傾げる。
他事務所のマネージャーとしては、踏み込んだ質問だったかもしれない。
取り繕うつもりはなかったが、加賀崎は言葉を繋げていった。
「カラメルは、トリニティよりいい条件を提示したんじゃないか。移籍すれば、ガンガン推してもくれただろう。上を目指しているのなら、移籍は悪い選択じゃない、と思ってな」
これはあらかじめ、水戸から話を聞いていたから言えたことだ。
実際に加賀崎は、乙女は事務所への義理で残ったと思っていた。
それだけに、上、という言葉を出したのは乙女も驚いたらしい。
「わかるものなんですね」と乙女が感心したように言うので、加賀崎は「見ていれば大体な」としれっと答える。
乙女は深く頷いたあと、さらりと口にした。
「うーん、そうですね。声を掛けてくれたのがブルークラウンや習志野だったら、わたしも行っちゃったかもしれないです」
あまりにあっさり言うものだから、加賀崎のほうが冷や汗をかいた。
そんなこと言っていたら、本気で引き抜きに来るぞ。
水戸が頭を抱える姿が想像できる。
けれど乙女には、事務所を変えてもいいと思えるくらいの、何かができたようだ。
トリニティへの恩義はあるだろうが、案外「その恩は返しただろう」くらいに考えているのかもしれない。それは事実でもあった。
乙女はしばらく考え込んでから、己の気持ちを口に出す。
「カラメルは――、そうですね……。曖昧な表現になるんですけど、『違う』って思ったんです。上手く、言葉にできないんですけど」
「違う? 胡散臭い、じゃなくて?」
加賀崎の言葉に、乙女は苦笑いする。
「最初はちょっぴり怪しいな~、って思っちゃいましたけど。でも、社長さんと話してたら、誠実な人だなぁって思いましたよ。声優への愛が強いな~って。きっとあの事務所の子たちは、大事にしてもらえるでしょうねぇ」
乙女は朗らかに笑っているが、加賀崎は内心で動揺を抑えていた。
南雲本人が声を掛けているとは思っていなかったのだ。
南雲から直接話を聞いているのなら、そのまっすぐすぎる思いや、理想は乙女にも届いたかもしれない。
だからこそ、思う。
「なら、なんで断ったんだ? よさそうだったんだろ?」
「うーん……。繰り返しになって申し訳ないんですけど、『違う』って思っちゃったんですよね……。上手く説明できない、感覚的な話なんですけど……」
乙女は申し訳なさそうに言う。
加賀崎は軽く詫びてから、乙女と別れた。
ひとりになると、乙女と南雲の話が頭の中で混じっていく。
「………………」
乙女の感覚は、正しい。
言葉にできないだけで、直感的にカラメルに違和感を持っているのだろう。
だがおそらく、以前の乙女なら違和感に気付かなかったように思う。
水戸が言うように、今の乙女は目がギラついて見える。以前のような、のほほんとした印象は薄くなっていた。
だから、『違う』と感じたのではないか。
加賀崎はスマホで連絡を返し、ついでに煙草の一本を吸ってから、楽屋に戻った。
「加賀崎さん」
戻る途中で声を掛けられる。
やけに愛想のいい笑顔をした、柚日咲めくるだった。
ただ、普段よりも笑みが若干ぎこちない。
常に完璧な仮面をかぶっているだけに、珍しい。
「どうも、柚日咲さん。どうかしましたか?」
加賀崎も笑顔で挨拶を返した。
乙女や千佳は特別だが、基本的に加賀崎は他事務所の声優に対して、仕事先の人間として接する。
それは、めくるも同じ。
一部の声優を除いて、彼女は基本的に他人行儀な対応をする。
愛想がいいので、嫌な感じはしないが。
「はい。加賀崎さんに、お聞きしたいことがあって。歌種さんのことです」
「歌種が、どうかしましたか?」
少し身構える。
めくるは以前、加賀崎の前で由美子をボコボコにこき下ろしたことがあった。
柚日咲めくるは、後輩が仕事に対して甘えた態度を見せると、厳しい言葉を掛ける。
その話は知っていたが、まさか由美子がその対象になる日がくるとは思っていなかった。
あのときのめくるには、理があったと思うけれど。
だからこそ、また由美子が何かやったのか、と不安を覚えたのだ。
しかしめくるは、困ったように笑う。
「どうかした、という話ではないんです。ただ――、歌種さんがやけに張り詰めているので。彼女とわたしは違うユニットですが、前回はいっしょでしたし……。あっちでは多少のごたつきもありました。今回も何かあったのなら心配だな、と思いまして」
ふむ。
まぁ確かに、今の由美子は平常ではない。
前回ライブをともにしているなら、由美子がいかに楽しそうにライブをするか知っているだろうし、今の姿に違和感を持つのもおかしくはなかった。
ただ、加賀崎から話せることはほとんどない。
「あたしも気に掛けているのですが……、すみません、詳細まではわからなくて。でも、問題が起きたわけではないと思いますよ」
そう答えると、めくるは小さく笑う。
「そうですか。すみません、変なことを言って」
花のような笑顔を残し、彼女はそのまま踵を返そうとした。
わざわざ言うことではないかもしれないが、興味本位で声を掛けてみる。
「ありがとうございます、柚日咲さん。歌種を気に掛けてもらっているみたいで」
その言葉に、めくるの笑顔がほんのわずかに固まる。
けれどすぐに、ふわっとしたやわらかさが戻った。
「いえ。事務所は違えど、後輩ですから。特別なことはしてないですよ」
静かに答えると、めくるは今度こそ立ち去って行った。
淡泊で事務的で、ビジネスライクな態度を一貫する姿は好感が持てるけれど。
めくるの小さな背中を見送ってから、加賀崎は息を吐く。
「よくもまぁ、あの柚日咲相手に距離を詰められるもんだ……」
由美子たちは最近、めくるとも仲良くしているらしい。
あの壁をどうやって壊したのか、聞いてみたいものだ。
ライブは進んでいく。
加賀崎は、舞台裏のモニターで彼女の姿を見守っていた。
歌種やすみは今、レオンとしてステージ上で『歌声は届く、たとえ海を越えてでも』を歌っている。
その姿に、加賀崎は心底見惚れていた。
夕暮夕陽はステージに出ない、という話を聞いたときは心配になったし、彼女が袖から叫んだときには驚かされたけれど、由美子はまるでそうなるのが当然だとばかりに、マイクに歌を吹き込んでいた。
レオンを降ろした由美子を前に、だれもが息を呑んでいる。
あぁ、これこそが歌種やすみの真骨頂。
声優だけが、到達できる領域。
それを目の当たりにして、加賀崎の肌は粟立っていた。
歌種やすみから目が離せず、心の奥から強い感情が湧き立ってくる。
由美子ひとりでは、そこに届いたとは思えない。
むしろ本人は無我夢中なだけで、何がなんだかわかっていないだろう。
この状況に至ったのは、周りの力があったから。
歌種やすみを強く意識し、時には手を貸し、時には敵対しながらも、その奥に彼女への信頼を持った人たちがいたから。
加賀崎だって、そのひとりだ。
そして、由美子自身も。
彼女が歩んできた険しい道が、ボロボロになりながら歩き続けた経験が、彼女の今までのすべてがあるから、この結果がある。
由美子なら、やってくれると思っていた。
あぁ本当に。
立派になって。
少し前まで、まるきり子供みたいな顔をしていたくせに。
加賀崎りんごは、声優事務所のマネージャーという仕事が、性に合っていると思っている。
自身が優秀だと知っているし、それだけの働きを今までしてきた。
時折、どうしようもなく嫌になることもあるけれど。
こうして――、どうしようもなく愛しくなる瞬間もあるのだ。
「あたしは――、声優が好きだよ、先輩」
加賀崎の前で、声優のよさを熱弁していた彼女を思い出す。
当時は聞き流していたし、もし面と向かって訊かれても、「どうだろうね」とはぐらかしていただろうけど。
今ははっきりと、そう言える気がした。
夜の街を加賀崎はひとり歩いていく。
鬱陶しい雨が降りしきるので、傘をきゅっと握っていた。
傘を忘れたサラリーマンが慌てて駆けていったが、それ以外に通行人はいない。
耳障りな雨音を聞きながら、加賀崎は目的の場所に辿り着く。
店の前は喫煙所らしく、そっけなく灰皿が設置されていた。
「やっほー、りんご」
南雲は、以前と変わらぬやわらかな笑みを浮かべていた。
手をひらひら振る彼女以外に、人影はない。
店も明かりはついているが、中の様子までは見えなかった。
まるで世界にふたりしかいないような錯覚に陥りながら、加賀崎は傘を閉じる。
店の軒下に入って、彼女を見た。
「入ろっか」
南雲が笑顔を浮かべたまま、店を指差す。
それに加賀崎は首を振った。
それだけで、今日の目的は果たされる。
南雲はまさかそこまで、簡潔に返事されるとは思ってなかったらしい。
固まった笑顔のまま、加賀崎を見つめる。
だから加賀崎は、はっきりと答えた。
「南雲先輩。あのときの返事をするよ。あたしは、南雲先輩のところには行けない」
「………………」
南雲は、笑みを浮かべたままだった。
視線を加賀崎から決して外さず、ずっと見つめている。
やがて、ゆっくりと問いかけてきた。
「……理由を、聞いていい? 言ってはなんだけど、りんごにとってもお気に入りの子にとっても、いい転職になると思うわよ? それとも、その子に断られた?」
南雲の問いに、加賀崎は再び首を振った。
会社の条件を見れば、カラメルはチョコブラウニーよりも恵まれている。
南雲の理想を否定するつもりもない。
加賀崎だって、そこに強い魅力を感じたのは事実だった。
「南雲先輩の会社、いいとは思います。あたしだって、志半ばで去った声優をたくさん見てきた。これ以上、あんな思いをしなくていいのなら、そのほうがいい。大事に育てて、綺麗に花開いて、大人たちが一生懸命守る。……本来なら、そうあるべきなんじゃ、とも思うよ」
「なら」
「でもね、先輩」
加賀崎が南雲の声を遮ると、彼女は寂しそうな顔をする。
それを見ないふりをして、加賀崎は過去に思いを馳せた。
南雲に誘われてチョコブラウニーに入って、ひとりになっても歩き続けて、担当の声優たちと出会って。
その先に、あのライブの光景があった。
「大切にされて、花開く――、そんな環境だからこそ輝く子はいると思います。苦労なんて知らない、って顔をして、無敵のような自信を持って。自身が特別だと自覚できるから、人を惹き付ける。本物のスター。きっと南雲先輩の事務所は、そんな子が集うんでしょう」
それが間違いだとは思わない。
ピカピカに輝いて、自信満々に胸を張って、周りからしっかりと背中を押されて。
強い輝きだからこそ、目を奪われる。
余計な苦労を背負い込むことなく、ただまっすぐに前を向く。
それはきっと、素晴らしいことだ。
由美子みたいに仕事がないと鬱々とすることなく、進路に悩んだりせず、先輩に泣かされることなく、だれかに嫉妬することなく。
事務所からの戦力外通告を恐れなくてもいい。
南雲が作ったその世界は魅力的に見えたし、由美子を連れて行きたい、とも一時は考えたけれど。
でも。
「あたしはもう、見てしまったんだよ。泣きながら、ボロボロになりながら、悩みながら、だれかに嫉妬しながら。そんな今までがあるからこそ――、到達できる演技があるってことを」
もし由美子が、順風満帆な声優人生を送っていたら、どうだろう。
由美子が悩みから解放されて、わはは、と楽しそうに笑っていれば、加賀崎は心から穏やかな気持ちになれたと思う。
とても幸せな光景だ。
由美子が辛そうに歯を食いしばる姿を見て、加賀崎だって苦しくなった。
でも、今までのことがあったから。
夕暮夕陽に負けたくない、という想いから始まり、様々な想いが彼女の中に渦巻き、満たされないからこそ、必死に手を伸ばしたからこそ、ファントムやティアラであれほどの力を発揮した。
だれもが、目を奪われたあの演技。
あの熱。
夕暮夕陽も桜並木乙女でさえも嫉妬させた、あの演技。
それは、決して南雲の事務所では培えないもの。
もしふたりで移籍すれば、南雲は約束どおりに由美子を守ってくれるだろう。
無理やりに仕事をねじ込んでくれるかもしれない。
由美子は喜ぶかもしれないが――、それでは、きっと彼女のためにならないし、どこかで本人も疑問に感じるのではないだろうか。
しかし、もちろん南雲は納得しない。
するわけがない。
「苦労することがいいこと、だなんて。りんごには珍しい、前時代的な考えじゃない? 本気で言ってる?」
南雲は、少しだけ失望したような目を向けてくる。
加賀崎は、それに手を振って答えた。
「いや。単に、あたしの担当には水が合わないって話です。声優は苦労すべき、なんて思っちゃいない。これは本当に。南雲先輩の理想は、立派だと思っていますよ」
苦労してきたからこそ力を発揮する声優もいれば、そうでない子もいる。
由美子が見せた輝きは、凄まじい感情のエネルギーがあったからこそ。
それはきっと、カラメルのような環境では発揮されない。
由美子がこれから先も、夢を追いかけるのであれば。
『魔法使いプリティア』を目指すのであれば。
彼女が魅せる圧倒的な感情の爆発、だからこそ辿り着けるあの領域。
それが、必要なのだ。
……油断すると、本当にそうか? と疑念が頭をもたげる。
由美子から苦労を取り除けるのならば、そのほうがいいのではないか、と。
つい、そんなことを考えてしまう。
担当を守ってやりたい、と思っているのは、何も南雲だけではないのだ。
南雲は軽く首を振り、怪訝そうな目を向けた。
「ひとりの声優のために、りんごは諦めるの? りんごにとって、絶対いい環境になるのに。その子がうちに合わないかどうかなんて、わからないのに。かもしれない、ひとりの子のために、環境を変えることを諦めちゃうの?」
「あたしは、マネージャーだからな。声優を支えるのが仕事なんですよ。主役は声優であって、あたしじゃない。あたしの都合で環境を変えろ、なんて言い出したら本末転倒だ」
そこは決して間違えてはいけない、と加賀崎は思う。
自身の力を疑いはしないけれど、矢面に立つのはあくまで声優自身。
それを支えるのが、自分たちマネージャーのはずだ。
きっと由美子は、「いっしょに事務所を移籍しないか」と誘えば、「加賀崎さんが言うのなら」とついてくる。
しかし、由美子にいい影響を与えると断言できないのなら。
その懸念だけで、移籍しない理由としては十分だ。
南雲は、不愉快そうに鼻にしわを寄せた。
「今の事務所に残って、それで、その子が潰れちゃったら? 立ち上がれなくなったら? それで声優を辞めちゃったとしても、りんごはそれでも、その環境がいいって言えるの?」
「それはあたしがさせない」
はっきりと断言する。
南雲の心配はもっともだ。
チョコブラウニーに居続けるのが由美子にとって最善か、と言われれば、話はまた別。
このまま苦労し続け、最終的に潰れる可能性も十分にある。
南雲はそれが辛くて、チョコブラウニーから離れた。
ほかの事務所に行くことなく、すがるように自分の理想を立ち上げている。
でも加賀崎は、チョコブラウニーに残った。
時折嫌になるほど、痛みを覚える。
これから先も傷は増えていくだろう。
それでも逃げ出さず、その痛みをずっと覚えていることが、加賀崎なりの彼女たちへの敬意でもあった。
環境のせいだ、事務所のせいだ、と諦めず、自分ができる精いっぱいを注いで、彼女たちを支える。
それこそがマネージャーの本懐だ、と加賀崎は思う。
『声優が好きだ』と思わせてくれた、今までの担当のためにも。
それに。
加賀崎りんごは――、歌種やすみの演技に惚れ込み、成功を信じている。
絶対に、潰れさせたりはしない。
ただ、この話を断ったのは、それだけが理由ではなかった。
南雲の事務所には、懸念点がある。
「カラメルが、『商売だから』と開き直って、強引なことも、多少汚いことでも実行するのは、潔いと思いますよ。理想だけの甘ちゃんよりも、あたし好みだ。ただな」
加賀崎は胸ポケットから煙草を取り出し、火を付ける。
煙草の先端から煙が立つのを見ながら、続けた。
「南雲先輩は『そんなことまでは知らない』と切って捨てていたが。それでも、松井綾乃のことは擁護できない。踏み越えすぎだ。あんなやり方をしていれば、いつか孤立しかねない。横の繋がりがなくなってもおかしくない」
乙女がカラメルに覚えた違和感も、そこにあるんだと思う。
今の桜並木乙女は後輩の歌種やすみにも張り合い、「悔しい!」と人目を憚らず悔しがり、新たな目標に向かって闘志を燃やしている。
競い合うだれかがいるから。
ともに歩く仲間がいるから。
松井と井村も、かつてそんな関係だったのに。
カラメルがそれを断ち切ってしまった。
そんなことを続けていれば、南雲たちの周りにはいずれだれもいなくなる。
南雲は言葉を突き付けられた途端、瞳が揺れた。
一度、深呼吸するように目を瞑ったあと、絞り出すように答える。
「……覚悟の上よ。周りがどう思うと、どうなろうと知らない。わたしたちは自分たちを守るので精いっぱいだし、周りがすべて敵になったとしても構わない。ほかを全部潰してでも、生き残る覚悟をしているの」
果たして、それは本心だろうか。
彼女の不安そうな表情は、自分に言い聞かせているように感じた。
それでも彼女は、その道を進んでいくんだろう。
あるいは、それも可能かもしれない。
声優は、孤独だ。
ひとつの役に、たったひとりしか座れない。オーディションでは全員がライバルになる。
手に入れるためには、互いに蹴落とし、引き剥がし、実力で勝ち取るしかない。
だから南雲の言うように、ほかを全部潰してでも自分たちが生き残る、という考え方は的外れではない。
けれど。
「そうじゃないんだよ、先輩」
加賀崎は知っている。
彼女たちは、それだけではないのだ。
時には信頼できる友人として、信愛なる姉貴分や妹分として。
尊敬する先輩として、負けられない後輩として。
互いに高め合うライバルとして、手を取る仲間として。
その姿をいろんなものに変えていき、意識し、そうしてさらなる輝きを放つ。
加賀崎は、その先にあるものを見た。
ただのひとりでは、到達できない領域があることを知った。
それは決して、南雲の事務所には生み出せないもの。
きっと彼女は、それでもいいと思っているだろうけど。
加賀崎は、吸い終えた煙草を灰皿に押し付ける。
黒ずんだ吸い殻を、ぼんやりと見つめた。
南雲は覚悟がある、と宣言した。
きっと今の彼女は、なんだってやってしまうんだろう。
だから。
だからこそ、だ。
「あたしはね、先輩。今の南雲先輩を信じ切れない。似合わないことすんなよ、って思います。グレーゾーンに手を染めるのはあたしらみたいな輩であって、先輩みたいな人じゃない。先輩には合ってない。だから、容易に踏み越える。やりすぎてしまう。だから、不安なんです」
このまま進んでいれば、彼女はいずれどこかで道を大きく踏み外すのではないか。
それが結局、南雲の理想を奪い取ってしまうのではないか。
どうしても、ビジネスとして信じ切れない。
そんな不安定な船に、由美子を連れて行くわけにはいかない。
それが断った理由のひとつでもあった。
「………………」
南雲の視線に耐えられなくなって、加賀崎は雨を見つめる。
喉まで出かかった言葉を、どうにか堪えていた。
『そういうことは、あたしみたいなのに任せればいいんだよ』。
南雲の会社に行って、引き抜きみたいなことは全部加賀崎が引き継ぐ。
加賀崎ならもっと上手くやる自信があるし、そのほうが南雲にとっても絶対にいい。
南雲は以前と変わらず、普通のマネージャーをやればいい。
『先輩は、声優と仲良く笑い合ってればいいんだよ』。
そう言いたくなるのを懸命に抑えて、無理やりに別の言葉を吐き出した。
「個人的なことを言うよ」
まるで独り言のように、続ける。
「あたしが好きな南雲先輩は、バカみたいにまっすぐで、声優が好きで、友達みたいに担当といっしょに笑っていて、ふたりで頑張ろう! ってはしゃぐ先輩だった。不器用に裏で画策して、一丁前にライン踏み越えて、汚いことに手を染める先輩じゃない。あたしは」
はあ、と息が漏れた瞬間、頭の中に今までの思い出が雪崩れ込んでくる。
さっきは、『理想だけの甘ちゃんよりも、あたし好みだ』と言ったけれど、それはきっと、嘘だ。
南雲沙樹には、理想だけの甘ちゃんであってほしかった。
そんな先輩が好きだった。
思い出を振り払うように、南雲にはっきりと答える。
「今の南雲先輩とは、いっしょにいたくない」
「………………………………」
そのときの――、南雲の顔と言ったら、なかった。
南雲は抜けているところもあるし、妙に子供っぽい部分もあるけれど。
それでも、加賀崎にとってはずっと年上のお姉さんだったし、先輩だった。
その認識が変わったことはない。
でも、このときの南雲の表情は、まるで幼い子供のようで。
行かないで、と泣き出してしまいそうだった。
しかし、それはまるで錯覚だったかのように、南雲からは表情が消えてしまう。
ふっと、諦めるように口にした。
「そっか」
「はい」
感情を乗せないように返事をして、ごまかすように次の煙草に火を付ける。
南雲は、はぁ~……、と大きなため息を吐いて、そばに寄ってきた。
「りんご。煙草、一本ちょうだい?」
「お生憎。これが最後の一本だ」
空き箱をくしゃりと潰す。
すると、加賀崎の唇に挟まれていた煙草を、南雲はするりと奪い取ってしまう。
おい、という制止も聞かずに、南雲のなめらかな指は彼女の唇に向かった。
咥えると先端の火が強くなり、ふう~……、と煙を吐き出す。
相変わらず。
煙草を吸う姿が、似合わない人だ。
彼女はしとしとと降る雨に目を向けて、煙をそこに吐き出していた。
普段よりも煙が長く残って、雨に混ざって消えていく。
それを見つめながら、南雲はそっと口を開いた。
「りんご。ひとつだけ言っておくね。うちが引き抜いた、松井綾乃ちゃんのこと。りんごは、うちが引き抜いたせいで関係が壊れたって言ってたけど。そうじゃないんだ」
南雲は煙を吐きながら、静かに続ける。
「彼女はね、自分から移籍を申し出たのよ。ティーカップから離れることを望んだ。なんでかわかる?」
その問いに、加賀崎は首を振る。
南雲はおかしそうに笑ってから、ゆっくりと答えた。
「あの子の活躍は、りんごも知っているでしょう? 器用な子でね、どんな役でもこなしちゃう。だから、どんどんオーディションも受かって、引っ張りだこになっちゃった。するとね、事務所に来たオーディションの話を、軒並みあの子が持って行っちゃうのよ」
そういった声優は、いる。
なまじ様々な役をこなせるだけに、「この子にしておけば間違いない」という具合に、安牌として使われる声優が。
それで役が増えれば人気声優の印象が強くなり、さらに仕事が増えていく。
そうなってしまえば、本人はしばらく安泰だ。
けれど、周りの声優にとっては。
事務所に来たオーディションの話を、彼女ばかり持って行ってしまうとすれば。
割を喰うのは、同じ事務所の声優だ。
「――わかった? あの子が移籍したがった理由。年齢も芸歴も同じ、声質も大きく変わらない井村渚ちゃんは、綾乃ちゃんが同じ事務所にいる限り、ずっと役を取られ続ける。それが嫌だったんだと思うよ。裏切り者扱いされようとも、コンビじゃなくなっても。綾乃ちゃんにとって、それくらい渚ちゃんが大切だったんだよ」
「……………………」
加賀崎は、それに何も答えられなかった。
黙っていると、南雲は雨に目を向ける。
自分のふわふわの髪に触れながら、口を開きかけて、閉じた。
そうしてから、まるで諦めたようにゆっくりと呟く。
「またりんごといっしょに、働きたかったな」
あたしもだよ。
その言葉を飲み込んで、加賀崎はただ黙ってその横顔を見つめていた。
後日。
加賀崎は仕事で通りかかったので、数年ぶりに大学近くのカフェに訪れていた。
昔、南雲とよくいっしょに来たカフェだ。
加賀崎がチョコブラウニーに入社してからは、すっかり立ち寄ることもなくなった。
ブレンドを頼み、ぼうっと店の中を見る。
店の中は以前と変わらず、大学生がかなりの席を埋めていた。
この店で、南雲とはいろんな話をしてきた。
しょうもない話も、もう覚えていないような話も。
ここで過ごした日々はきっと忘れないだろう。
今となっては大して旨くも感じない、コーヒーを口にする。
ただ黙ってそうしていると、近くの女子大生の声が聞こえてきた。
「ここってプリンが名物なんでしょ? 頼む?」
「あ、あたし食べたことあるよ。かなり硬めでカラメルがほろ苦いんだけど、おいしいよ。頼もう頼もう」
その話を聞いて、ふっと笑ってしまう。
加賀崎と南雲は数え切れないほどこの店に来たけれど、ふたりで名物のプリンを頼んだのはたった一度だけだった。
理由は簡単。
『プリンはやわらかめで、あま~くないと認められない!』と南雲が訴えたからだ。
加賀崎はあのほろ苦さや、甘すぎないところ、固い食感も好きだったので、ひとりで来たときにはこっそり注文していたのだが。
久しぶりに、頼んでみてもいいかもしれない。
メニューを手に取ると、表紙には店名がオシャレなロゴで描かれていた。
ここは、『カフェ・カラメル』。
こだわりプリンが名物の、居心地の良いカフェテリアだ。