ほうかごがかり 2
五話 ⑩
4
十一回目の『ほうかごがかり』。
「……じゃ、始めるか」
イルマの『お願い』を引き受けた啓は、絵具で汚れた帆布のリュックを床に下ろし、同じく汚れたイーゼルにスケッチブックを立てると、布製ペンケースから鉛筆を抜き出しながら、おもむろに言った。
この日、啓はイルマの担当する家庭科室に、約束した通りやってきた。完全に絵を描く準備を整えて。そして一人ではなく、もう一人、菊をともなって。
教卓の前に立てられた小型のイーゼルは、二人のイメージでは、砦だ。
敵との間に立てられた砦。対する先にあるのは家庭科室の教卓と、その上に置かれた、楕円形をして金属の台座を持った、それなりの大きさをした例の『鏡』だ。
こうして見る限りでは雰囲気はあるものの、ただの古い鏡で、怪しい現象はもちろん、紫と名前がつく要素すらどこにもない。啓は、そして菊は、イーゼル越しにそれと向き合った。天井に明かりがついていて、それなのになお薄暗い部屋。しゃ――――っ、と天井のスピーカーから漏れて空気を満たしている、微かなノイズ。
その中で啓は、イーゼルの前まで丸椅子を一つ動かして座った。
そしてしばらく、『鏡』を観察したあと、鉛筆を一本小指に挟んだまま両手でピストルの形を作って、それを組み合わせた四角の中に、『鏡』の全体を構図として収めた。
「……よし」
そしてつぶやいて、始める。
指に挟んでいた最も芯の硬い鉛筆を握り直すと、まだ何も描かれていない真っ白なスケッチブックに、全ての基準になる最初の線を引いた。
「…………」
ここに来ることは、惺には最後まで渋られた。
惺は苦言を呈した。「啓は『無名不思議』を甘く見ている」と。
啓自身としては甘く見ているつもりはない。もちろん危険は認識してるが、それにもかかわらずイルマのお願いを引き受けることにした。だが理由については惺には言っていない。言えば余計に渋られるだろうことが、目に見えていたからだ。
ただ、菊が啓に同行したこと。これは惺にとって意外で、いくらか衝撃だったらしい。
菊は、啓の『目』の代わりとしてここに来ていた。
期待しているのは、あの『狐の窓』だ。啓が『まっかっかさん』を完成させた時の経験を踏まえて、駄目元で頼んだところ、菊は同行を承諾したのだ。
菊は惺にとって、共に去年の『かかり』を生き残った、経験者であり仲間でもある。
惺と同じ経験と認識があるはずの菊が、啓の『暴挙』に付き合うことを決めたのは、惺としては想定していないことだったようで――――しかしそれが最終的には、この『暴挙』を啓が実行することを渋々ながら認めさせる、決め手になった。
「……堂島さん。危なそうなら、止めてやって」
菊がお目付役を兼ねることで、なんとか引き下がったのだ。そうして啓は、望み通りここにいる。本来の担当であるイルマは来ていない。関わらない、関わりたくないという態度を、徹底していた。
そのことを啓は何とも思っていないが、惺にひとつ釘を刺された。
「啓。君はそんなことをしない奴だと思ってるけど、念のため。瀬戸さんは怖がりで、『しごと』にも協力的ではないけども、それを『逃げてる』とか『無責任だ』とか言って、非難しないであげてほしい」
イルマが啓に『しごと』を押しつけようとしたことは非難した惺だったが、啓を止めることを諦めた後は、そう言ってイルマの非協力的な態度については非難はしないようにと、わざわざ啓に頼んだのだ。
思ってもみなかった釘を刺されて、思わず聞き返した。
「そんなつもりないけど、なんでわざわざそんな注意なんかするんだ?」
「過去に、そういう例がいくつもあったからだよ」
啓の問いに、惺はそう答えた。
「でもそれをやると、地獄が始まるんだ」
「地獄?」
「うん。僕や啓は、ある程度だけど『ほうかご』を受け入れてて、それから『かかり』として協力し合うことは『ほうかご』を乗り切るのに必要なことだってことも、何となく理解できると思う。でも、そうなると人間は、つい『必要なこと』は『正しいこと』だと考えてしまいがちだ。それでそこからさらに進むと、受け入れないことや協力しないことは『悪いことだ』と考えてしまう。だけど、啓が僕に言ったみたいに、みんながこんな異常事態を受け入れられるわけじゃないし、耐えられるわけじゃない。
それができるのは、はっきり言って普通じゃない。でも『正しいこと』だから、普通じゃない僕らが普通の子を非難してしまうということが、どうしても起こってしまう。でもそれをやると、協力とは真逆の地獄が出来上がるんだ。啓も想像できるだろう? それで内側から崩壊した『かかり』の代がいくつもあったって『太郎さん』が言ってたんだ。
その代の記録を、僕も読んだよ。みんな認知バイアスと自己保身で正しいことを書いてないから読み解くのが大変だったけど、事実だけ拾い上げても酷いものだったよ。だから一応、注意しとこうと思ってね。でもこれは啓よりも、僕の方が気をつけなきゃいけないことなんだろうね」
そう言って惺は、苦く笑う。なるほど、ありそうなことだと啓も思った。惺の自虐には触れずにおいた。イルマを咎めた時に、うっかり口が過ぎたことを気に病んでいるようだと、啓は把握していた。