たとえ、このあと何もできず、遺品の一つも救い出せず、手をつけないまま教室を封鎖することになったとしても。何も得られず逃げ出す羽目になったとしても。それでも、何もしないではいられなかったのだ。
「…………」
やがて二人は、教室の前方の入り口に辿りつく。
離れたところで、みんなが緊張の面持ちでこちらを見守っている中、華菜は再び息をひそめて、中の音に耳をそばだてる。
やはり。音は聞こえない。気配はしない。
華菜は湧汰と、もう一度目を合わせてうなずき合うと、これから見るであろうモノへの覚悟を決めて、がばっ、と二人で立ち上がり、消していたライトを点けて────それでもこの期におよんでも覚悟を決めきれない、腰の引けた怯えで強く眉を寄せながら、窓ごしの教室の暗闇へと光を向けた。
そこには。
何もなかった。
えっ。と思わず小さな声がもれた。動きが止まった。
覚悟をしてライトを向けた、血と人間の部品が散らばっていた、そのはずの床。そこには、何も存在していなかった。
春人の遺体どころか、その一部も、あれほど広がっていた大量の血も。
ない。何もかも。ただ綺麗な教室の床が、二つのライトが作り出した光の輪の中に、照らし出されただけだった。
そして、
じわあ、
と教室に、天井の明かりが灯る。
明滅する電灯が、ゆっくりと明かりを強くして、ほどなく教室の様子が、全て明るく照らし出される。
何もなかった。
本当に何もない。
先週、たしかにあった惨劇の現場が、ない。そこにあったのは二年二組の、まるでつい先ほど掃除をしたばかりのような、綺麗な教室の床だった。
「!?」
「……!?」
二人とも言葉を失って、固まった。
そして────
教室の真ん中で、人形頭の化け物が、そんな二人を、じっと見ていた。
ぞ、と背筋が冷たくなる。それは音も、気配もなく、そこに立っていた。
ずっといた。ほんの少しの身じろぎもせず、置物のように。それこそ正しく人形のように、それはじっと、そこにいたのだ。
「…………!」
目が合う。だが、何の反応もない。
意思も意図も感じられない。あまりにも気配がない。それが、かえって怖い。
と、そこで、
ふ、
と明かりが、力つきたように消える。
明かりが消えると、その化け物の姿は、教室を満たした闇の中に消えた。全く気配のないそれは、姿が見えなくなると、本当に消えてなくなる。本当にそこにいないかのように、存在が完全に隠されてしまった。
「……っ!」
湧汰が、慌てて鉄パイプを持ったままの手で、頭のヘッドランプをつかんだ。
真っ暗になった部屋に光を向けた。化け物の、子供の手の形をした足と、プラスチックの質感をした頭部が、光に照らされて暗闇に浮かんだ。
「えっ、な、なんでだ……?」
だが、そこに春人の痕跡はない。光で床をなぞり、記憶にあった場所の、どこを照らしてみても、なんの変哲もない教室の床があるばかり。何も見つけることができない。華菜もそれに続いて慌てて同じようにライトを向けて探ったが、先週たしかに見たはずの惨劇は、やはり床から跡形もなくなっていたのだ。
「……!?」
ない。
なくなっている。
何よりも春人がいない。春人の死体がない。
弔うべき仲間の死体が、遺品が、惨劇が、幻だったかのように消えている。
なくなっていた。驚きに目を見開いて、表情を引きつらせて、思わず顔を見合わせた。
そして、抑えるのを忘れた声で、お互いに言葉をかけた。
「……どうする?」
「どうしよう?」
「入って探すか?」
「危ないよ」
「だよな……」
湧汰が悩ましそうに窓に顔を近づける。
想定していないことが起こっていた。
何が起こっているのか分からなかった。そんなことをしていると、離れたところで待っているみんなも、二人の様子がおかしいことを、さすがに察しはじめた。
「……」
そのかすかな動揺が伝わる中、華菜は頭が真っ白のまま、必死で考える。
どうなってるの?
何が起こったの?
越智くんはどうなったの?
志場くんが言うように、入って調べた方がいい?
結論。ううん、絶対やめた方がいい。越智くんには、本当に悪いけど。
撤収するか、できれば封鎖した方がいい。申し訳ないけど、そこまでの危険は冒せない。
華菜は決めた。口を開いた。
「…………ねえ、志場くん」
そしてその決定を、湧汰に伝えようとした時だった。
じわ、
とそのとき教室に、また照明が灯った。
にじむように、教室の中でだんだんと強くなってゆく光。湧汰は、それによって照らされた教室の様子を、あらためて食い入るように見つめたが────窓から顔を離していた華菜は気がついた。いま、教室に光が灯ったのと同時に、視界の端の廊下の向こうが、同時に明るくなったのだ。
「……?」
華菜たちがいる廊下の向こう。
廊下の奥。そこには曲がり角があって、階段がある。
階段を沈めるように隠している暗闇が、そこには満ちていた。
そしてそんな暗闇が、まるで教室の明かりと連動するように、じわあ、と明かりが灯って照らされて──────
ほんの一秒ほどの光。
その光の下に、人形の顔があった。
「!!」
息を吞んだ。
光の下で、実物の子供の頭と変わらない大きさをした青白い人形の頭が、ほっそりと長い三本の手を生やして立ち、ガラスの目でこっちを見ていた。
首の断面に、赤いリボン。そして。
その人形の頭は────春人の顔をしていた。
見た。
理解した。
瞬間。
ぞっ、
と一瞬で、頭から血の気が引いた。
全身の毛が逆立った。
血が凍る感覚。
その恐怖に襲われた瞬間、明かりが消えて暗くなった廊下の端で、シルエットになったそれが、こちらへ向けて、ひた、と動いた。
「逃げてっ!!」
絶叫した。
湧汰の背を叩いた。
窓を見ていた湧汰が驚いて振り返り、そしてそれに気づいて、「うわあ!!」と叫び声を上げて、慌てて駆け出した。
「みんなも逃げて!! 早く!!」
「………………!!」
たちまち全員がパニックになる。悲鳴が上がって、逃げ出す。混乱が廊下を埋めつくし、叫びと足音が雪崩をうつ。そんな中で、持っている鉄パイプの重さと長さにまごついている海深に、華菜は追いついて、パイプを取り上げ放り捨てる。
「そんなのいいから! 早く!」
「ひっ……!」
引きつった顔でうなずく海深の手を引いて、逃げた。
走る。湧汰に追い抜かれる。最後尾。後ろが気になるが、見ない。
振り返らずに、ただ遅れた海深だけを気にかけながら、走って、走る。走って逃げることだけに専念する。みんなの持つライトが滅茶苦茶に振り回されて、暗い廊下の景色の中で、光と影が錯乱したように回る。
そんな光と影と、恐怖と焦りとパニックで、目が回りそうな中を。
走って、走って、階段を駆け下りた。そして廊下に飛び出し、さらに走る。
そして、
「早く!」
「…………っ!!」
バリケードの前で二人を待っていた湧汰のところへ、息を切らせて駆けつけた。
走り、辿りつくと同時に、急いで抜け穴に海深を押し込んで、自分も中に潜りこむ。
「……っ!!」