「準備はいい?」
問いかける。
「戸のストッパーと、つっかえ棒になるやつ、持った?」
「ああ。ばっちりだ」
これから行動する、その準備。応えたのは湧汰だ。その手には武器がわりとして持っている金属バットの他に、細身の鉄パイプが握られていて、二刀流のようになっていた。
同じ鉄パイプをもう一本、海深も、両手で重そうに持っている。戸のつっかえ棒だ。それから陸久の方が、楔形をしたゴム製のドアストッパーのようなものを、胸に抱くようにして二つ抱えて持っている。
これは引き戸の間に差しこむことで、開かなくなるというストッパーだ。
これを戸に差しこみ、さらに鉄パイプをつっかえ棒にすることで、化け物のいる教室の戸を封鎖してしまう計画だった。こんなストッパーがあると、見つけてきて、用意したのは春人だ。いつか必要になるかもしれないからと持ってきてホールに置いていたのだが、それを初めて使うのが、当人である春人が死んだ教室というのがあまりにも皮肉だった。
「海深ちゃんと陸久ちゃんは、大丈夫? いける?」
「……うん」
「……うん、いける」
そんな道具を抱えた二人は、華菜が確認すると、同時に答えてうなずいた。先週は、惨劇を目の当たりにして息も絶え絶えだった二人だが、一週間でなんとか持ち直した。顔色はよくないが、それでも勇気をもって参加を決めた。
教室の封鎖は、人手はあったほうが当然早いので、助かる。
今まで通りの感じを取り戻してきたと、華菜は思う。華菜たちは今まで、こうしてみんな一丸となって、『ほうかご』に対応してきた。
いつもの調子。一人、欠けてしまっているけれど。
「よし、行こ!」
華菜は、去来したそんな思いを振り切るように、バールを振り上げて、例の教室の方を指し示した。そして、今まで通りの変わらないリーダーとして。強く振る舞いながら、みんなを率いて、先頭に立って歩き出した。
5
ホール北側の通路を塞いだバリケードの、子供だけが潜りこめる机ひとつぶんの抜け道をくぐって北校舎の廊下に侵入すると、外と繫がっている玄関とは明らかに違う、閉塞した静けさが満ちていた。
時間が止まったような閉塞。静止した空気。白黒写真のような暗闇と光。そんな廊下の静謐を、かすかなノイズだけが、ただ静かに攪拌している。
光が射しこむ外の窓と、真っ黒な教室の窓。
それらに挟まれた、真っ直ぐで無機質な通路に、五人は立って、しばしのあいだ躊躇し、それからやがて互いにうなずき合って、先に進みはじめる。
「…………」
緊張した沈黙の中、ばらばらと、五人の足音が廊下に響く。
みんな、先を見たまま、あまり視線を動かさない。
歩いている自分たち。それからそのすぐ隣に、外からの明かりによって、教室側の黒い窓に映っている、うっすらとかすれた自分たちの鏡像。
その中にいるだけで、異様な緊迫感がある。心が縮むが、ここで場を和ませたり、鼓舞したりする子はさすがにいない。声を出すのも、音を出すのも怖いのだ。口をつぐみ、歩く足音も、動作の衣ずれも、呼吸の音も、『何か』に聞こえてしまいそうで、みんな気にして、潜めているのだ。
「………………」
みんなの、自分の、足音と、呼吸の音。
それから心臓の音。空気に混じったノイズのほかに、聞こえるのは、それらの音だけ。
歩き進むごとに、ひしひしと緊張が高まってゆくが、それは各々の心の中で押し殺し、乗りこなしてゆくしかない。進めば進むほど、戻るために同じだけの歩数、同じだけの距離がかかるという事実が、その一歩ごとに、心の上に乗せられていった。
廊下の景色を、各々の持っているライトの光が、それぞれの胸の中で乱れる心のように、眩むように、ゆれる。
そんな思いを心の中で押し殺し、沈黙とともに、廊下を進む。
やがて、窓がないせいで本当に真っ暗な、口を開けた洞穴のような階段に辿りつき、不安とともに上って、二階の廊下に出る。そしてまた静かな廊下を、二年生の教室が並んでいる廊下を不安と共に進んでゆくが、だんだんと進む先から強い圧力がかかっているかのように、歩幅と速度が減ってゆく。誰一人として自覚がないまま。
そして────
ぴた。
と、ある教室に辿りつく一歩手前で、一同は、足を止めた。
二年二組。
廊下の真ん中あたりにある教室。
その入り口と、窓。それが、みんなの見ている前で、じわあ、と中から光って、そして、ふつっ、と、力つきたように消えた。
ここが、春人の担当していた教室だ。
つまり、『あれ』がいる教室。春人が死んだ教室。それを前にして足が止まった。覚悟をしてここまで来たはずだったが、自然と足が動かなくなって、心臓がばくばくと、大きな音を立てた。
みんな黙っていたが、心の中は同じだった。
ついた。
ついてしまった。
ちゃんと覚悟して来たが、それなのに不安で、怖くて仕方がない。
みんな踏みとどまるように動きを止めていたが、この静止の中に、一滴の水でも落として均衡が壊れれば、がたがたと震えだすに違いない。だが、それでも。それでも、いつまでもこうしているわけにはいかない。
華菜は、この危うい空気の中で、頑張って心を落ちつける。
お腹の底から息を吐いて、みんなを振り返り、慎重にひそめた声で、言葉をかけた。
「…………まず、わたしが行くね」
「……」
「先に確認してくる。化け物と────それから越智くんが、どうなってるか」
「……」
みんな、真剣な目で華菜を見て、うなずいた。そんな中から一人、湧汰が前に進み出て、同じくひそめた声で言った。
「俺も行く」
「おっけ。助かる」
華菜は答え、そのまま湧汰の後ろに目を向けて、手を差し出す。その先にいる陸久から、戸のストッパーを一つ受け取り、それから湧汰と二人で、窓の高さよりも頭を下げて、そろりそろりと教室に近づいていった。
「…………」
ぐっ、と胸の中で、重い塊のように緊張が増した。
この教室の中には、春人を殺した化け物と、春人の死体がある。今からそれを、見なければならない。
耳をそばだてた。教室の中の、音を探る。
化け物の様子を探る。見つかれば自分も春人のように、手足をちぎられて殺されてしまうかもしれない、そんな恐ろしい相手の動向を、必死になって耳をすませて、全身全霊で把握しようとする。だが、
しん、
と。
教室の中の音は静まり返っていて、何も聞こえない。
先週、ここで同じように身をひそめた時には、ぺたぺたと聞こえていた足音と、大きなものが動いていた気配が、感じられない。
ただ、
どっ、どっ、どっ、
という自分の胸の中の心臓の音が、いやに大きく聞こえるばかり。
動いていない。少なくとも近くにはいない。それを長い時間をかけて嚙みしめるように確認して、後ろに目を向けて、湧汰と視線を交わす。
そしてうなずき合い、動き出し、窓の下を抜けて、教室の前方へ。
教卓のある方へ────床に血の海が広がり、もぎ取られた手足が散乱し、死んだ春人の胴体が転がっていたのを窓ごしに見たあの場所の方へ────近づいてゆく。
脳裏に、あの光景が浮かぶ。
怖い。酷い。二度と見たくない。
思い出すのも恐ろしい、あの血生臭い、無惨な光景。
嫌だ。だが、だからこそ、華菜は思うのだ。
だからこそ、春人をあのままにはしておけないと。