上巻
プロローグ/一話 空とワンダー①
序章
トんでいた意識が再び灯って感じたのは、全身に受ける突風と薄寒さ。次第に耳の奥へと入り込んでくる、ジェット機が真横を飛んでいるかのような轟音。身体中の肝という肝がギンギンに冷えていて、喉は焼けるぐらいカラカラで、だけどちょっとだけ心地がいい。
あれ。
私って今までどこで何をしてたんだっけ?
霞がかっていた頭の中が鮮明になるにつれ、今がどういう状況なのかがわかってくる。わかってくるからこそ、グッと唇を噛み締める。
そして、覚悟して目を開ける。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
絶叫。
一面の、ベタ塗りの青。
頭の遥か上にある大地。
そう。私はその時、地上四〇〇〇メートルの天空を、逆さまに落ちていた。
“君、今マジでやばいよ”
と、目線の高さにある雲がのうのうと告げる。
“おいなんか人間が落ちてきてるぞ?”
と、下方を飛ぶ鳥たちの群れも噂して笑っている。
いやいや!
少しも笑いごとじゃないんだわ!
「本当に本当に本当に本当にこんなのって」
背中が受ける凄まじい風圧がジャケットをもみくちゃにし、ジタバタもがいてみたところで取りつく島もない。
それにスカートが完全に捲れ上がっている。
女子高生のスカートが完全に捲れ上がるなんてことは、たとえどんな場面だろうとあっちゃいけないコトなのに!
「こんなのって、マジで、ありえない……ッ!」
髪の毛はもうめちゃめちゃで、息もなんか苦しくて、涙と冷や汗は流したそばから空に置き去りになる。泣きたくて、さもなくば笑い出しそうで、心がぐちゃぐちゃになるけれど、落ち着け。
落ち着くことなんてムリだけど、落ち着け!
ただの女子高生の私が一体全体なぜ、このトンデモない異常事態に陥ったのか。
人生がゲームオーバーする前に、覚悟ぐらいはしておきたい。
一話 空とワンダー
ある日、あなたは王様に命じられる。
お前は勇者になるのだ! って。
村人たちに見送られて、最初の村を出発する。
ボロボロのマントと錆びた剣を持って、世界の秘密を探す旅に出るのだ。
モンスターを倒して経験値を獲得して、洞窟で宝箱を探して泥まみれになりながらアイテムを発見。でも発見しただけじゃダメで、ちゃんと装備しないと効果が発揮できなかったりして。
途中、
だけど何度やられても立ち上がって、あなたは戦い続ける。
すべてはラスボスを倒して、世界を救って、ウチュウの秘密を
あなたは何度も挫けそうになるだろう。
何度もコントローラーを投げ捨てたくなるだろう。
でも、怖がる必要はないよ。
だってこれはゲームだから。
ゲームは、何度だってやり直しができるんだから。
人生とは、違うんだから――。
1
「――人生は、ゲームとは違いますよ」
面談室の、四人掛けテーブルを挟んで座る担任のセンセーが、柔らかな口調でそう告げた。
「先生いっつも同じこと言うから、飽きちゃったよ私」
太々しくついた頬杖と、尖らせた口、膨らませた頬、それが私にできる数少ない反撃だった。
ポケットが熱かった。何かと思えばアプリ《モルモル》が起動しっぱなしになっていた。スマホを机の上に出して、スカートをバサバサと払う。それでもしばらくはじっとりとした熱が、太ももに居座っている。
あ〜。
早く終わらんかな、この時間。
「セーブもできませんし、やり直しもできません。貴重な高校生活を後からプレイしたいと思っても、もうその時にはあなたは高校生ではないかもしれない」
百八十センチの身長と安っぽいジャケット、分厚い紺縁の目鏡と、教師陣御用達のサンダルを身につけた担任の物理教師は、さも心配だという感じで告げた。
センセーはそして机に載ったB6サイズの紙切れと私とを、交互に見た。始業式の日に配られ、最初の授業日で提出を求められた進路希望用紙だった。
「教えてください。あなたの未来は空っぽですか?」
進路希望用紙は白紙だった。
私は反論した。
「こんなコピー用紙一枚で何がわかるっていうんですか。私は、未来なんかいらない。今が欲しいんです。こうしているうちにも中庭に隕石が落ちてきたり、職員室をテロリストが占拠したり、何かトンデモないことが起こっちゃったりしないかな、って――」
パシパシと、机に載った進路希望用紙を叩いてやった。
「……でもそういうこと書いたらさ、センセーきっと怒るじゃん」
「怒りませんけど、指導室行きは変わりません」
センセーの苦笑いがうっとうしくて、窓の外に視線を逃した。
コピー・アンド・ペーストされたみたいな街並みの中心には、
だって、傾いているのだ。
手抜き工事か、設計ミスか知らんけど、僅かに、でも、明らかに、傾いている。
だからクラスではこう呼ばれている。
――
「大人になってから選択を間違えた、と後悔したくないでしょう?」
よく言うよ。
建設途中から傾いてて、それで工事中止にもならないなんて。
大人の仕事だって、たいがい間違いだらけじゃんか。
「私も一個だけ聞いていいっすか。センセーは、なんでセンセーになろうと思ったんですか」
自白しよう。今私は、ちょっとだけ意地悪を働いた。
柄のないネクタイと怖いぐらいピンと伸びた姿勢、そんな『ザ・教育者』って感じのセンセーに、少しだけ困った顔をして欲しかったのだ。
「中学生の時、私は心臓の病気で入院していたことがあって、当時の国語の担任教師が、お見舞いに来てくれました」
けれど、想定外。
センセーは誇らしそうに語り始めちゃった。
「毎週末、彼は必ず紙の本を持参しました。瑞々しくも鮮烈な海外児童文学に、難解な純文学、単巻完結の傑作ライトノベル。私は当時、格闘ゲームにはまっていて、読書は退屈だと思っていました。でも担任は、紙の本の魅力を丁寧に教えてくれました。指先に触れる紙の感覚や、ページを自らめくることで流れる時間感覚、その得難さ。私は彼から、退屈との戦い方が一つじゃないと教えてくれました。だから私も、誰かを救う教師になりたいと志したわけです」
「うわぁマジか」
と、思わず私は呟いていた。
この人、どこまでいっても正しいなぁ。
ツラい過去があって、恩師との思い出があって、そんなに幼い頃からもう将来像が固まっていて。そんなトロフィーみたいな動機を背負ってるセンセーは、ほんと先生として大正解の人なんだね、って――。
ため息を吐こうとしたのも、束の間だ。
換気のために開けっぱなしになっていた高窓から、何か、白くて細長いものがスゥーっと入り込んで来て、室内を漂い始めたのである。
それは、ラムネぐらいの透明さと平べったい体を持ち、ゆっくりと宙を泳ぐ、不思議なイキモノだった。
「わっ、あれ、センセーっ!」
「なんですか」
「なんですか、じゃなくて。ほら、ワンダーです、ワンダー」
私の昂った態度に、先生はようやく視線を持ち上げる。
透き通ったウミウシのような姿をしたイキモノは、全身のひだのような部分をうねうねと動かしながら、空を飛んでいた。
翼で羽ばたいているわけでもなく、風船で浮いているわけでもない。このイキモノ――《ワンダー》の体は、まるで物理法則を嘲笑うかのように、理由なく宙に浮いているのである。
イキモノはゆっくりと高度を落とし、やがて先生の右手へとまとわりついた。
けれど、センセーは虫を払いのけるように手をひらひらと振った。
「あっ、センセーひどい」
すげない態度をとられたそのイキモノは、センセーの右手から渋々離れた。
「虫が苦手なんです」
「虫じゃなくて、ウミウシのワンダーです。ほら、ちゃんと見てください。足も六本じゃないし!」
「なぜウミウシだと? 私にはナメクジにも見えますが」
「あーもう、私が決めたからウミウシなんです。確定なんです!」
ワンダー。
それはこの街に現れる《教科書に載らないイキモノ》の総称だ。
普通の生物と違ってワンダーは、空に浮いていたり、体が透明だったりと、何かしらオカシなところを持っている。けれどそれ以外の一貫性は全然ない。形も大きさもまちまちで、ああいういかにもイキモノらしいやつから、植物にきのこ、筆記用具に家電、果てはロボットまでと――外見はなんでもありなのである。
「出席番号十五番、テラさん」
センセーは諭すように告げた。
「今話すべきことを、話しましょうよ」
薄っぺらく透明なイキモノは、この部屋にいても何の得もないと悟ったらしい。再び空中へと昇り始め、中庭に通じる窓ガラスの前まで行くと、弱々しい音を立てながらガラスに体当たりを始めた。
「なにも、今から働いているところを想像しなくたっていいのです。ささいなことでいいんですよ。本を読むことが好きだとか、人と話すのが楽しいだとか。それに、打ち込めることがあったほうが、人生、何かと楽ですよ?」
センセーは立ち上がって、窓ガラスを解放した。イキモノは青空に向かって勢いよく羽ばたいていった。
いいなあ、お前は飛べて。
「ゆっくりとでいいので、あなたらしさというものについて、考えていきましょうよ」
スマホが鈍い音を立てて震える。
《モルモル》のスタミナが満タンになった通知だった。
「未来を見据えて。ね」
どこまでも正しいセンセーの捻りのない励ましが、春なのにもう蒸し暑い。