上巻

一話 空とワンダー ②

        2


 鞄を取りに戻った頃には、教室にとっくに人影はなかった。

 廊下に出るとホルンの低い音とソプラノ帯を走る歌声が聞こえてきて、私はあくびを一つした。窓から覗くグラウンドからはサッカー部の人たちの勇ましい声かけが響いてくるし、自習室からは受験を控えた上級生のシャープペンシルで机を叩く音が漏れ聞こえてくる。

 無軌道な足取りで下駄箱に行き、靴を履き替える。

 グランドでは打ち上がったフライを空飛ぶクラゲが飲み込んで飛び去っていくし、園芸部の花壇には食虫植物が植っていて、たまに花壇を抜け出して虫を捕まえて食べたりしていた。

 ああ、もう。

 別に、珍しいものでもなんでもないのに、空飛ぶクラゲを見つけたぐらいで、一体何をはしゃいでたんだろうな私。


「ワンダーとか斜塔とか、この社会にはおかしなことがいっぱいあるのに。私が進路希望出さないことが、そんなに大きな問題なのかな……」


 誰に向けるでもなく呟く午後4時39分。

 進路希望用紙の紙切れ一枚が加わっただけなのに、行きの倍くらいリュックが重い。クラスメイトは帰ってしまったし、打ち込んでいる部活もない。やることもないし一番街に行って本屋にでも寄っていこう。

 そんなことを考えながら、駅の方まで歩き始める。

 歩きながら、ふと思う。

 足りてないんだ。

 私の人生には、何かが、欠けている。

 打ち込める趣味? 青春を謳歌したいっていう熱意? それとも、センセーの言うような未来の目標……? 

 空は晴れているのに心の中が曇ってきて、私は街路樹の根元に転がっていた小石をポーンを蹴飛ばす。私の高校生活って、一体、何なんだろう。そんなお腹の足しにもならないことを考えて歩いていると、


「そのジャケットとツインテールは」


 声が聞こえた。男の子の声だった。私はとっさに振り向く。


「やっぱり。テラじゃん」


 見知った顔の男の子が、胸の前で控えめにひらひらと手を振っていた。


「ナルコ!」


 私は彼の名前を一旦呼んで、そして、彼の背後に立つ、同じく見知った顔の女の子にも声をかけた。


「それに、レムも! めっちゃ奇遇じゃん!」


 私はブンブンと手を振った。

 すると二人は思い出したように、指を絡ませて繋いでいた手をぱっと離した。


        3


 ポテトをつまんだレムはその長めの一本を注視すると、隣の席に座るナルコの口に突っ込んだ。

 そしてもう一本つまんできて、吟味しながら言った。


「あたし、ハローのポテトはさ、フニャッとしてる方が好きなんだよね」


 レムはそう言って、ようやく見つけた油で絶妙にふにゃふにゃになった一本を口に運ぶ。


「邪道だなお前。カリカリこそ正義だろ」


 すかさず言い返すナルコ。レムはキッとまなじりを引き絞り反論した。


「上訴します。法廷で会おう」


 私は、ふにゃふにゃなポテトを探してきて、レムの口へと突っ込んでやった。


「はい。これで示談成立」

「テラありがとう〜好き〜」


 抱きついてくるレムの体を支えながら、私もナゲットを一個口に突っ込んだ。

 ナルコとレム。

 去年同じクラスだった二人は、今はどちらも別クラスだが、正直に言って今のクラスメイトよりも仲がいい気がする。


「っていうか、なんかごめんね」


 私がそう言うと、レムが不思議そうに首を傾げる。


「いや、二人の時間に割って入ったみたいになってさ。マンホール通りの方に行ってたんでしょ? デート……とか、してたんでしょ」


 途切れ途切れに言うと、二人は顔を見合わせて苦笑いを漏らした。


「いーなー。私も青春したぁい」

「やめなって。FPSゲーム無理やりやらされるはめになるよ」

「やめとけ。バイト先の愚痴を明け方まで聴かされるはめになる」


 二人の口から声が飛び出したのは、ほとんど同時だった。

 なんだこのカップル。これからかけがえのない恋をするかもしれない私への配慮ゼロか……?

 私は何の気なしに、窓の外を眺めた。

 そこにもまたワンダーの姿がある。


「魚だ」


 遠目に見えたのは、空を泳ぐ魚のワンダーだった。

 でも、ただの魚ではない。マントを着た魚である。ちょうどエラの部分に大きな花柄の布を巻きつけていて、裾を風にはためかせている。

 斜塔の高さがおおよそ四百メートルなので、その位置と比べると高度三百メートルぐらいを飛んでいるってことになる。あれ、どうやって浮いてんだろう、とか。あのマントをひっぺがして地面に敷いたらどれぐらいの広さになるんだろう、とか。

 ぼんやりと考え、私は店内に視線を戻した。


「ワンダーってさ、いつからいるんだっけ」


 私が言うと、レムが頭を起こして短く相槌を打つ。


「考えたこともないなあ」


 レムはそう言うと、スマホを取り出し《モルモル》を立ち上げた。

 上から落ちてくる《モルモル》というキャラクターを“盛って”いくパズルゲーム。

 最近のアップデートで、課金アイテムの効果時間が短くなるらしいのだ。ナーフされる前になるべくアイテムを使い切っておきたい、とナギは意気込んでいた。


「テラはワンダーのこと好きだもんな」


 ゲームに没入していくナギに代わって会話を引き取るように、ナルコが言った。


「別に好きってわけじゃないけど。変じゃん、フツーに」

「人に害を及ぼすわけでもないし、解剖しようとしても消えちゃうから調べることもできない。いるのに慣れちまったんだよ、きっと」


 誰も私の質問に答えていない。

 けど、それもあたりまえの話なのだ。大人でさえあやふやにしていることを、子供の私たちが知るはずもない。

 この街には、ワンダーがいる。

 教科書に載らない謎のイキモノが、ただ、いるってだけの話で。

 足のぐらついたテーブルの上にナゲット二つとポテト特大一つ、ソースは季節限定のやつを優先で。シェイクはお腹が冷えるから三人で回し飲み。――そんな高校生の当たり前すぎる日常と、変なイキモノが空を飛んでいることは、別に《対立》しない。

 何か、トンデモない非日常が起こるわけでも、決してない。


「お前こそどうしたよ? なんか先生に呼び出しくらったみたいな顔してるぞ」


 ナルコが顔を上げ訊ねる。


「シンロソーダン」


 一瞬、しんと、空気がいだ。

 笑ってくれると思った。けれど違った。二人のやけに真剣な目つきが、耳障りな静けさになって私を包む。

 ナルコが小刻みに頷き始めると、私は慌てて言い加えていた。


「いや普通にさ、何もないじゃん? やりたいことなんて。かと言って思ってもないこと書くのも嫌だし。強いて言うならこうして放課後に集まってハローセット囲むのが一番楽しいっていうか――」

「でも、あたし家業あるわ」


 スマホから顔を上げたレムが、そう言った。

 レムの実家は和菓子店だ。それは知っている。

 けど、レム。

 あんた前に言ってたじゃん。

 作りたいお菓子はどっちかというとマドレーヌとかティラミスなんだ、って……。


「ナルコは? 将来の話とか全然してなかったじゃん」

「うん」


 私はその頷き一つに、どれぐらい救われたか。

 そして続く言葉に、どれほど突き放されたか。


「俺もまだやりたいことがわからないから、だから進学って書いたよ。とりあえず経営系を学べば、いつかレムのサポートができるかもしれないしな」


 さらりとそう言ってのけるナルコに、頬をちょっと朱に染めたレムがどつきを入れた。「重いんですけど」「俺の勝手だろ?」口を尖らせて叩き合う軽口。二人の体が、揃って揺れる。

 二人と出会ったのはいつだったろう。よく覚えていないけれど、少なくとも高校一年来の仲だ。ナルコは少し勉強ができて、レムは少し音楽ができて、私は少し運動ができる。そんな感じで、割と、私たちは横並びだったはずだ。

 そんな二人が去年の冬、付き合った。

 どっちから告白したのなんて私、訊けなかった。


「で、なんて言われたん?」


 レムがスマホから顔を上げ、訊いた。

 私はシェイクをずずっと啜って答えた。


「未来を見据えて、人生、打ち込めること、etc……」

「大人ってさ、未来って言葉すげー好きだよね」


 ナルコがからからと笑って言った。そして、レムもそこに乗っかった。


「わかる〜! 未来がない人ほど未来って言いたがるよね」


 笑う。

 二人の表情に合わせて、私の顔もほとんど自動的に笑顔を作る。

 会話に取り残されないように、場を繋ぐ。言葉が出ないときは、空白を埋めるようにシェイクを啜る。笑う。繕う。啜る。距離感を測りながら、立ち位置を確認しながら、お腹を冷やしながら、その場の空気にしがみつく。

 その繰り返しの果てに待っていたのは――。


 うっ。


 下腹部に走った刺すような痛みに、私は背を丸めた。シェイクの大量摂取がたたったらしい。なんとなく、こうなるんじゃないかってわかってたはずなのに、できないんだよなあ、学習。

 私は席を立った。

 背中に感じる二人の笑い声が、遠かった。

刊行シリーズ

トンデモワンダーズ 下 〈カラス編〉の書影
トンデモワンダーズ 上 〈テラ編〉の書影