上巻

一話 空とワンダー ③

        4


 うまく笑えているかわからなくなって、洗面所の鏡に向かってはにかんでみる。引き攣って見えるので、右の口角を少し緩める。

……これでよし。

 それから表情筋を一旦全部放棄して、ため息を吐いた。

 みんな答えを出していく。自分が何者かを見つけていく。学生としての《正解》になっていく。

 なのに。


(私って、なんなんだろう)


 授業でわからないところがあれば、勉強を教えてくれる友達がいる。人生相談とかしたらセンセーも、案外親身になって聞いてくれる。でも、自分が何者でなぜ生きているかだけは、誰も教えてくれない。

 悩みも、焦りも、モヤモヤも、全部トイレに流せてしまえればよかった。

 私は練習した通りの笑顔を貼り付け、席まで早足で戻った。


「あれ」


 ナルコとレムがいなかった。

 ポテトとナゲットをそのままにして、荷物もろとも消えていた。そういえば、二人ともこの後予定があるって言ってたっけ。


「逢引きすんならそう言ってくれればいいのに。……無言で帰られんのは、流石に傷つくって」


 私はため息を吐いて、ナゲットをテキトーに口に突っ込んで、足早に席を立った。

 本当なら、そこでもっと不思議がるべきだったのだ。けれど私はつとめて下を向いていて、忌まわしい進路相談と、友人のちょっとした裏切りのせいで、心もいっぱいいっぱいだった。

 だからフロアからまるっきり人がいなくなっていることに、その時は全然、気づけなかったのだ。



 ハローバーガーは、ハローズというモールのプライベートチェーンである。そしてハローズは、一番街と双璧をなす駅近のオアシスだ。

 エレベーターでモールの最上階に出ると、すぐに突風が頭上をさらった。

 うわっ。という私の慌て声を塗りつぶすように、何か甲高い鳴き声のような音が響いた、かと思えば。

 頭上を、巨大な影が覆った。

 そこに見えたのは、悠然と飛ぶ一羽の鳥。

 否――巨大鳥である。


(何あれ)


 炎のような赤々とした翼を広げ、まるで自らの存在を誇示するように飛んでいく。

 前髪に残る風圧の名残り。


(不死鳥……?)


 コピー&ペーストしたような街と斜塔。ただ青いだけの空。

 いつも通りの景色のはずなのに、なぜか違って見える。

 根拠はないけれど、今日こそ何かトンデモないことが起こるような気がして、そして、そんなお気楽な自分へと言い聞かせる。


(まてまてまて! 私は冷静になりたくて、ここに来たんでしょ)


 意識を目線の高さに戻す。そこは昔懐かしの屋上遊園地だった。

 錆びた線路の上に乗っかった、色のはげた真っ赤な汽車。クマやパンダを模した謎の乗り物。馬の四頭しかいないメリーゴーランド。

 私は首をもたげ、観覧車を見上げた。


 頭、冷やさないと。


 二十基に満たない青いゴンドラを、ところどころのくすんだ鉄柱が支える冴えない観覧車。こんな寂れた遊具でも高いところから街を眺めるというのは、何か、この世界と距離を置けるような気がして、都合が良かった。

 係員さえいない観覧車に飛び乗って、窓枠に腕をもたれさせる。

 上昇する身体。

 開けてくる視界。

 そこでふと、気づく。ああ、でも、そうか。

 そういうことか。

 ナルコとレムは、突然大人びてしまったわけじゃない。恋をしたから。自分以外の誰かのことを、真剣に考えるようになったから。変化したんだ。

――教えてください。あなたの未来は空っぽですか?

 頭の中にこびりついたセンセーの言葉。未来なんて考えようがないと思っていた。そして実際、誰しも未来なんて空っぽなのだ。でもあの二人は手に入れた。あの二人だったから、手に入れた。

 出会うべき人と、出会ったから。


「やっぱり私も、したほうがいいのかなあ。恋ってやつを」


 ぼんやりとそんなことを呟く。情けない。呟くんじゃなくて、せっかくだから大空に向けて大声でぶちまけてやろう。

 誰か私のこと、好きになっていいですよ〜。

 只今絶賛セール中りですよ〜、って――。

 そんな馬鹿げたことを考えながら、窓の外へと目を向ける。

 そこでようやく私は街の異変に気づく。

 見下ろすスクランブル交差点に、人の気配が全くと言っていいほど見当たらないのだ。

 今は、午後三時。

 控えめに言っても一番の賑わい時のはず。

 やっと頭がはっきりと動き始める。さっきのハローバーガーの店舗内も、何かおかしくなかったか? ナルコとレムはどっちも我をいく人間だから、いなくなったのは百歩譲ってわかる。友達としてはどうかと思うけど、一旦まあ許そう。

 けれど。

 トレーの上に食べかけのポテトや結露したドリンクを残したまま、全員が、一時離席することなんてあり得るだろうか……?

 私はガラスに顔を押し付け、力の限り目を見開く。

 無人。

 何かの撮影? にしては、撮影陣の姿がない。

 動いているものは信号機と、駅ビルの壁に嵌め込まれたアニメーション広告だけ。


「何これ。どゆこと……?」


 たとえば突然の豪雨に見舞われるとか、地震が起こったとかなら、まだわかる。困るし、嫌だけど、どういう異常が起こっているかが明らかだから。

 でも、これはなんだ。


 街から人が突然消える。

 それって……どういうタイプの異常なんだ?

刊行シリーズ

トンデモワンダーズ 下 〈カラス編〉の書影
トンデモワンダーズ 上 〈テラ編〉の書影