上巻
一話 空とワンダー ⑦
5
背中を反らせると、背骨が一丁前にパキパキと鳴った。
チャイムが鳴るのと同時に、いっせいに動き始めるクラスメイトたち。私は机の隅へと視線を下ろす。そこには百均で買った透明な工具箱が置かれている。
その箱が、がたり、がたり、とひとりでに動いた。
授業中に捕獲したウミヘビのワンダーが中に入っていて、無慈悲なプラスチックの檻から出ようと必死にもがいているのだった。
「相変わらずワンダーをいじめてるようだね、スットンキョウ君」
声に、私は頭を上げた。
そう告げたのは、二本の三つ編みおさげを尻尾のように揺らす女の子だった。
丈長めのチェックスカートに、校章の刺繍されたカーディガンを羽織り、黒縁の眼鏡をかけている。私服高校のくせに、わざわざ制服みたいな服装をしている変わり者の彼女の手には、これまたなぜか、神社の
委員長だった。
「スットンキョウ君、あんまり触らないほうがいいよ。毒があるかもしれないしさ」
彼女はなぜか私を変なあだ名で呼ぶ。
「毒があるかもしれないから箱に入れたんだよ――って痛っ!」
委員長は有無を言わさず杓子を振り下ろし、私の頭をコツンと叩いた。
ちゃんと底ではなく、硬い角をぶつけに来ている。
「狭い、辛い、人間怖い〜っていうワンダーの声、聞こえない?」
委員長が工具箱を開いた。私のタイクツしのぎの犠牲になっていたウミヘビは、監獄生活がよほど苦しかったらしい。
勢いよく飛び立ち、窓から一目散に逃げ去った。
「聞こえるわけないじゃん。ワンダーは喋んないんだし。それとも何? 神社の娘だとワンダーの声が聞こえるようになるわけ?」
「ワンダーの声は聞こえないけど、不良生徒を杓子で叩く権利はもらえるよ」
「そんな職権濫用聞いたことないわ」
実家から持ち出してきたらしい古びた杓子を振るいながら、委員長がにししと笑う。
「まあ、とにかくワンダーで遊ばないであげてよ。こいつらもこいつらで、色々頑張ってるんだから」
その論理はよくわからないが、流石に原理不明のイキモノだとしても、ちょっとやりすぎだったかもしれない。
でも、と私は心の中で湿った言い訳を並べ立てる。
あの日――。
私の人生に、確かにトンデモない非日常が舞い込んだ。それは間違いなく、手の届くところで起こっていた。
あと一歩踏み出せたら、掴み取れたかもしれなかった。
のに。
あの時、男の子の放った虹の槍によって、魚群は跡形もなく消え去った。あとに残ったのは破壊された街並みと、変わらず屹立する斜塔と、私一人だけ。私が光に目をくらませている間に、男の子は姿を消していた。
帰るしかなかった。
駅へ向かう途中、いつの間にか人通りが戻っていて、私は無事家に帰り着くことができた。
無事でよかったね、私。
命あってのものだねだね、私。
ハッピーエンドだね、私。
翌朝ニュースをつけた。生放送だった。スーツで固めたリポーター女性がハローズの屋上遊園地を平然と歩いているのを見て、私は盛大に牛乳をぶちまけた。
学校に来ても、空飛ぶ魚に襲われたとか、観覧車が倒壊したとか、そういう噂は一切耳にしない。何もかもが嘘だったみたいに、日常が再開されていた。
だけど。
私は頭の後ろに手を持ってきて、腫れて熱を持った部分をさすってやる。
いまでも少しだけ痛む後頭部の傷口だけは、あの出来事が嘘じゃなかったと証言している。
すると委員長は、私の席から四つ離れた空席を、杓子で指した。
「暇そうにしている君に、はい」
空席の引き出し部分には、具材を挟みすぎたサンドイッチみたいに、紙の束が詰め込まれている。
首を傾げる私に、委員長が説明する。
「そこの席に座っていた、いや座るはずだった出席番号十一番の子、覚えてる? カラスって名前なんだけど。見ての通り始業式以来、始まってから一回も学校に来ていないんだよね」
もうすぐ、桜の花が散って二週間になる。
年度の初めは特に配るものが多いし、進路選択とかに関わる大事なプリントもある。それを一度も取りに来ていないだなんて。
なかなかパンクな生き方をしている生徒もいたもんだ。
「ちょっと届けてきてよ」
あっけからんと委員長が言った。
「はぁ? なんで私が」
「僕はこの後ちょっと重要な会議に出なくちゃいけなくてね。いろんな人に訊いて回ってて、ちょうどいいところにいたから。実際暇そうじゃん」
いや、暇なのは暇だけどさ。
自分の価値を見くびられているような気がして、私は食い下がった。
「だいたいそのカラスってやつ、私、見たことすらないんですけど」
「こういう顔」
委員長はスマホをスワイプして適当な写真を探し当てると、私の眼前に突きつけた。
私は画面に釘付けになった。
「嘘」
そこに写っていたのは、真っ白でくたくたな生地の服を着た少年の仏頂面。あの時は確か黒いケープのようなものを羽織っていて、だいぶ雰囲気も違っているが、同じ顔だった。
落ち着いた顔つきと優しげなまなじり。
それと対照的な、どこか暗さのある面影。
「この男の子だ!」
カラス。
それが虹の槍で魚群を穿ち、細い四肢で空を飛んでみせた男の子の名。
「どういうことだい。知り合いなのかい……?」
訝しげな顔を向ける委員長へ、私はあたふたと両手を振ってみせる。
「いやっ、知り合いっていうか。知り合いではない、けど……」
お姫様抱っこされて、空を飛んで、虹の爆発を一緒に見た。
とは、流石に言えないよなぁ。
「……けど?」
こちらを覗き込むように見る委員長に向け、私ははっきりとした言葉を返した。
「行くよ。行かせて」
「いい返事だ、スットンキョウ君」
待ってましたと言わんばかりに委員長が足元からだいぶ大きなマチのある紙袋を取り、両手でぐわっと押し広げる。詰め込まれていくおびただしい数のプリントたち。気づくと委員長は両手を合わせ頭を深く下げている。
さてはこの委員長、最初から暇そうな私に狙いを定めてたな……?
睨む私に、てへぺろと舌を出す周到ぶり。
でも許す。
この話をふってくれたのだから、なんだっていい。
私はパンパンになった紙袋を持ち上げて、扉へと歩きだす。
どうやらツキはまだこの手にあるらしい。
別れ際に、とってつけたように委員長が言った。
「今日のワンダー予報は、晴れのち魚。いつもより気性が荒いみたい。くれぐれも、空に気をつけてね」