下巻

4話 世界解体 ⑤

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 おがくずの埃っぽさと塗料の匂いが充満する技術室には、角が削れて丸くなったボロボロの木の作業机が5、6台ほど置かれていて、教室に入るとすぐ技術の先生がやたらと大きな声で告げた。


「各自1台糸ノコ盤を取って、どの作業机でも自由に使ってください」


 僕はしばらく、ぞろぞろと指示に従うクラスメイトたちの動きに気を配っていた。机は、糸ノコ盤が置かれた道具倉庫に近いものから順に埋まっていく。

 僕は糸ノコ盤を取ってきて、一番離れた机に置いた。

 授業の内容は、木彫りを作ることだった。

 頭の中にあるのは、これだというただ一つの完璧な図面と、その完成予想図。けれど僕はここ数年で学んでいた。

 これだという作品を作ったところで、評価にはつながらない。

 先生のプライドを傷つけず、かつクラスメイトよりも少しだけ勝る作品に仕上げること、これこそが実習でのキモになるのだ。

 糸ノコ盤の台座に載せた厚さ15ミリの木の板を、下描きの線に沿って切り出している時だった。作業机にどん、と衝撃が走り、僕は目をやった。

 占有していたはずの机に、もう一つ、置かれた糸ノコ盤。

 揺れるツインテールの横顔が見え、僕は思った。他人の使う糸ノコ盤の振動を避けて、わざわざ一番遠い机で作業していたっていうのに……僕以外にも偏屈なやつがいるもんだ。

 僕はその女子の名前さえ知らない。

 面倒だなと思った。

 けれど席の選択の自由は誰にでもある。咎める道理がないので、板に視線を落として作業を再開する。

 けれど、それからも僕は快適に作業を行うことができた。一向に、隣から振動が伝わってくることはなかったのだ。


「キミ、真面目にやってんだね」


 しばらくして、そう声が聞こえ、僕は再び一瞥をくれた。

 例のツインテールの女子が、大きな黒い瞳を見開いて、こっちを見ていた。

 彼女は糸ノコ盤の電源を入れていなかった。それどころか、下描きすら描いていない板をうちわのように使って、結わえた黒い髪をばさばさと扇いでいた。


「てかさ、暑くないこの部屋? クーラー代ケチってんのかなあ。こっちの方がまだ涼しいかも。倉庫に近い机はセンセーの見回りも厳しいから、移ってきて良かったわ。あー、でも、邪魔だったら言ってね? みんなの方戻るからさ」

「いいよ、席は自由だし」


 最低限の言葉で返し、僕は板に視線を戻して作業を再開した。

 そのまま黙々と板を切り出していると、またもや、その声がもっと近い位置から発せられた。


「ねえ」


 見ると、その女子は僕の椅子の横にしゃがみ込んでいた。

 上目遣いのその視線と、僕の困惑しきった視線が、床から70センチ上の空間で交錯した。


「このご時世3Dプリンターとかもあるのにさ。こんなことするのって、馬鹿げてると思わない?」


 糸ノコ盤のスイッチを切り、僕は椅子を引いて女の子から距離を取る。

 少し考えてから答えた。


「《ものづくり大国日本再興のための12方針第7項、ものづくりとまなびについての有機的アジェンダ》」


 唖然としてこちらを見つめる女の子に、僕は補足をしてあげた。


「一昨年、内閣に提出された意見書」


 全くピンときていない様子の女子は、首を傾け、言った。


「え。うん。つまり?」

「つまり……」


 僕はしばし頭の中で言葉を吟味した。どうやったらこの女子に伝わるだろう。この、僕と同じ知識量を持っているようにはとうてい見えないこの女子に。

 そんなことを考えたのは、生まれて初めてのことだった。

 そうして、真っ当に頭を捻って、僕は答えた。


「つまり……文句言っても仕方ない、ってこと」


 スイッチを入れる。激しい振動と共に下描き線を進んでいく糸ノコが、切り始めの地点と繋がり、パキン、と音を立てる。糸ノコを外して、切り出した木片を取り出す。


「すごい」


 水風船が弾けるような一声だった。


「いちいちそんなめんどくさいこと考えて生きてるんだね!」


 僕は驚いた。

 彼女が本気で驚いていることに驚いた。

 彼女の発言は、嫌みじゃなかった。全然。それが衝撃的で、新鮮な気がして、その風通しが良すぎる感じが、どこか恐ろしくもあって。

 けれど、不思議と嫌じゃない。


「うん。……悪い?」

「いいと思う。めっちゃ面白いよキミ」


 サムズアップを作った女子は、跳ねるように立ち上がって自分の椅子を僕の横に引っ張ってくると、どっかりと腰を下ろして告げた。


「天島月彦くん、でしょ。多分覚えてくれてないと思うから言っとくと、私の名前はね——」


 それが玉依たまより日向ひなたとの出会いだった。

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