下巻
4話 世界解体 ④
3
鼓膜の内側で、爆竹が爆ぜるような鋭い痛みが走り、僕はよろめいた。
少なくとも、よろめく体はそこにあった。
足元は車道で、空はほとんど闇に近い紫。暴れ出しそうな心臓を抑え込んで、思考を整理する。
「い、今のは……!」
流れ込んできたのは、膨大な量の見知らぬ男の子の記憶。父親らしき人物と、二人暮らしだった。厳しくて怖い、絶対的な、父親像。やけにくっきりと像を結ぶ、精神科医というキーワード……。
ボンヤリとした思考を裂くように、甲高いクラクションの音が響いた。
急接近するヘッドライトの光が見えて、僕は慌てて路肩へと飛び退いた。走り去る車の助手席から「あぶねえだろうが!」という声が飛んでくる。
僕は困惑して周囲を見渡した。
イドとシャーデンフロイデの姿はなかった。空の色も、さっきはこんなじゃなかった。あれから、どれだけの時間が経ったのか。
1分? 1時間?
その間僕はずっと、車道に立ち尽くしていたってことか……?
街ゆく人の、不審がる視線を全身に受けながら僕は、崩れるようにビルの壁にもたれかかった。
「僕の……記憶? あの男の子が……?」
流れ込んできたのは膨大な情報量だった。砂場で遊ぶような年齢から、中学2年に至るまでの、少なくとも7年あまりの記憶。
普通に生きていたら、そんな膨大な量の情報を一気に脳に注ぎ込まれることなんて、まずない。
「僕は……」
右手を見る。
掌が、恐怖を思い出したかのように震え始める。手の震えは右半身から全身へと広がり、背筋を走る怖気へと変わった。
そうか。
通じているんだ、あの記憶と、この体は。
僕はかつて、あの少年だった。
そしてあの男の子が僕自身だとするなら、ハルミツというのは——僕の父。
(くそっ。頭の痛みが、ひどすぎる)
壁に背を預けたまましゃがみ込んで、立てた膝の間に顔を埋める。
頭蓋骨が割れそうなこの痛み。
何かに似ていると思ったら、そう。ハチに刺されて、アナフィラキシーをやった時の尋常じゃない苦痛と似ている。まるで体が記憶に拒絶反応を起こしているみたいな……。
仮説を立てる。
(まだ完全に、ハマってないってことか? 記憶が、体に)
イドは、僕のアカウントをクラックして、記憶の消しゴムを解くと言っていた。細かな単語の意味はわからないが、今は認めるしかなかった。僕はなんらかの技術によって、記憶を消されたのだ。
そしてその状態異常は、いまだ完全には解けきっていない。
僕は、もう一度痺れの残る右手を見下ろす。
こうなったら、記憶を、全て取り戻さなければならない。けれど完全に思い出すためには、まだ何かキッカケが足りていない。
その時。
天啓のように頭に浮かんだ言葉を、僕は手繰り寄せた。
「東棟1023……」
出会ってすぐにイドが言ったことだ。
東棟1023の坊ちゃん、と。
1023という数字だけでは、正直役立たずだった。けれど東棟という言葉は、少なくともいくつかの建物が集まった施設を示している。そして1000番台というナンバリングは、10階に割り振られた部屋番号である可能性が高い。
それに、僕の父は精神科医だ。
「病院、ってことか……?」
それは、確かな根拠もない、思いつきの推理だった。
けれど、口に出してみると奇妙なくらい違和感がない。
当てずっぽうで動くのは迂闊すぎか? とか、朝になってからの方がいいのでは? とか——。
胸に渦巻く逡巡を、いつでも突っ走るアイツが一蹴する。
「今は、考えるより動け。テラだったらきっとそうする……!」
自分を知るのは恐ろしい。
知らないままでいるのは、もっと恐ろしい。
思えば、僕はこの街で病院にかかった覚えがない。
いかにもワンダーの出現場所になりそうなくせに、クエスト地点になった記憶もなかった。
空は完全に漆黒に染まっている。この時間で開いているのは救急外来ぐらいだろう、という常識をかなぐり捨てて、僕は最寄りの病院へと走った。
その病院は、僕の知る限り街唯一の総合病院であり、確かに10階以上はありそうな建物を、同一敷地内に少なくとも3棟持っていた。
僕はメニューから魔除けのバット《
巡回する守衛の目を潜り抜け、裏口の施錠をバットで叩き壊し、中に侵入する。メニューの明かりを頼りに館内表示を確認し、東棟への経路を把握した。
非常口の表示だけがぼんやりと照らすエントランスは静まり返っていて、どことなく冷たい雰囲気が漂う。
肝試し以外で夜の病院に侵入するなんてこと、あるんだな。
というか、普通に怖い。
エレベーターは動いていなかった。それに、今更なことだが、クエスト外でする露骨な不法侵入は良心が咎める。
けれどこの、階段を1段上がるごとに高まっていく胸騒ぎが、目的地を示す羅針盤のようだった。
そうして僕は、その病室の前に来る。
「東棟、1023号室。本当に、あったのか——」
10階のエレベーターホールに書かれていたのは『精神一般』という文字。
それが意味するところは、精神科一般病棟。
身構えていたから、それほど驚きはなかった。
環状の通路とその外周を固める病室の中心で、光を放つナースステーション。入院病棟なのだ、夜勤の看護師がいて然るべきなのに全くと言っていいほど人影はない。
それがまた根拠のない確信を裏付ける。
「ここに、
どのみちここに来たのもダメもとだ。僕は取っ手を握り、分厚い遮音性の引き戸を、ひと思いに開けた。
びゅう、と、一陣の風がケープの裾を揺らした。見ると、開け放たれた窓から吹き込む風が、カーテンを躍らせていた。
誰もいない。
心音を強調するかのような、無音。
それならばなぜ窓が開いている?
僕はベッドへと意識を移す。真っ白な清潔そうな寝具が奇妙な形に盛り上がっている。
僕は恐る恐るベッドへと近づいた。
その時。
視線を感じて振り返った。
開けっぱなしの引き戸から見える人気のない廊下。窓の外の
それでも、確かに視線を感じるのだった。
「テラ……?」
名を呼んでみる。
呼んでみて、違う、とわかった。
記憶はまだ戻らない。けれどなぜだかはっきりと、これはテラの視線じゃないとわかる。テラは、こんな目で僕を見なかった。
そうだ。
これは背中に突き刺さって脊椎を穿つ、刃の視線だった。
聞こえてくるのは嘲笑、ヒソヒソとした噂話。僕のことを、下等な生き物のように見下す、無数の恐ろしい瞳。
まさか、これは……
僕の、心を殺した……視線……?
掛け布団をひっぺがした。
そこにあったのは、奇妙な物体だった。一言で言い表すならば、ほとんど全体が鉄でできたミシンのような機械。ずしりとした鉄の台座とコの字形の支柱、そして支柱から下に向かって据え付けられた細長いノコギリのようなもの。
けれど、異様に思えるその物体を一目見ただけで、これこそが、記憶の消しゴムを解く鍵なのだとわかった。
この世界で使ったことがない道具であるはずなのに、僕はそれが何かを、はっきりと知っている。
「これは、この道具は……糸ノコギリだ」
まるで覚えがない。
カラスはこれを知らない。
けれど体はこれを知っている。
天島月彦はこの道具の使い方も、それにまつわる出来事も、ちゃんと覚えている。
僕はそして、その冷たい鉄の道具へと——記憶の奥底へと、手を伸ばす。