下巻
4話 世界解体 ③
それから父は週3回の飲み会を全てやめ、学会関係者とチームを作っていた週末のフットサルにも顔を出さなくなった。
父は母のしていた家事を、完璧にこなすようになった。
その日の献立は焼き魚とひじきの煮物。焼き魚は鰯で、大根おろしとレモンが添えられていた。
鰯は苦手だった。
お腹に詰まっている黒っぽいものの、なんとも言えない苦み。食べ物が、生き物の死体であるということを思い出させる、生気のない瞳。そして火を通しても微かに残る、あのどうしようもない生臭さ。
箸の先で皮を破り、身をつついてみる。薄々無理だとわかっていたけれど、奇跡を信じて一口食べてみる。
奇跡など起きなかった。
吐き出した。
生温かいほぐし身がティッシュに染みて、唾液の湿り気が掌に伝わった。
心の底で身構え、僕は恐る恐る顔を上げた。
けれど、父は声を荒らげたりはしなかった。一瞬、悲しそうな顔を向けるだけで、箸を動かすのをやめもしない。
「ごめんなさい。あの……。怒ってますか?」
「いいや、怒ってはいない」
父は大根おろしに少しだけ卓上醤油を垂らし、レモンを絞る。それから鰯の身に大根おろしを載せて口に運ぶと、なんでもないことのように告げた。
「ただ、全部食べるまで、ご飯の時間が終わらないだけだ」
その時の、出来損ないを見るような冷ややかな視線を、僕はその先ずっと、引きずることになる。
僕は再び、じっと青魚を見下ろす。
小指の先ほどの一切れを口に含むのでさえ、難題だった。
「好き嫌いなんてみっともない。躾を
どんどん温度を失っていく魚はタイムリミットで、料理が冷め切ってしまえばいよいよゲームオーバーだとわかっていた。小指ほどの身を意を決して口に運ぶ。込み上がる吐き気と嗚咽を堪え、ご飯をかき込む。それでもなお口の中に居座る風味を、無理やりお茶で洗い流す。
胃に溜まった水がたぷたぷと揺れるのがわかった。
僕はまるで水筒だった。
けれど、父をこれ以上失望させたくない。
結局、食事の時間は午前2時まで続いた。
つらかったし、なんでこんなにうちだけ厳しいのか、という不満もあった。けれど僕は、精神科医として尊敬され、どんな質問にでも答えてくれる博学な父のことを、世界で一番かっこいいと思っていた。
中学に進学した頃から、父は自分の仕事について話すようになった。
父はよく言った。
医師は客商売だ。時に理不尽な患者にも対応しなくてはならない。そして、どんな状況であれ患者から求められるのは、《完璧な医師》であり続けること、なのだと。
失敗は許されない。
完璧であり続けることは、夢や目標ではない。
義務なのだ。
「お前は将来、私の後を継ぐ器だ。それができる人間だと信じている」
父の言う通りに僕も、将来は医者になるのだろうと、疑いなくそう信じていた。そして信じているうちは、未来は輝いているように見えた。
土日は、父と合同の勉強会になった。
銀色の巨大なクリップでまとめられた精神医学の分厚い論文を読む父の隣で、僕はよく宿題をやった。小学生の頃は成績がいいとか悪いとかの概念がなかった。満点以外の点を取ったことがなかったからだ。中学に入ってからも、こんなに簡単なテストで点を落とす人の気持ちがわからなかった。
潮目が変わったのは、中学2年の中間試験。
それまで学年トップだった僕の順位が、いきなり4位に転落した。
僕が勉強量を減らしたからではなかった。
試験をなめてかかったからでもなかった。
確かに試験の難易度が上がったというのもあるが、一番の要因は中学に入ってからの1年間、学生生活を楽しむことに意識を割いていた同級生たちが、勉強に本腰を入れ始めたからに他ならなかった。
理科のテストで93点を取った。
僕が初めて取った満点以外の答案を見て、父は静かにため息をつく。
「何が問題だったと思う?」
静かに、ゆっくりと、それでいて冷たい声で、父は訊いた。
「最後の物理の問題を、解く時間がなかったのが、悪かったところだと思います」
僕は自分の息を吸うスピードがどんどん速くなっていることに、うっすらと気づいていた。
「じゃあ、どうするべきだった?」
「序盤の簡単な問題を、もっと早く潰すべきだったと思います」
父は、僕の手を引いてリビングから連れ出すと、机と椅子、デスクライト、そして小ぶりな本棚だけの置かれた、簡素な小部屋に入るように言った。
元々物置として設計された部屋らしく、鍵は外についていた。
「医師免許取得の厳しさは、こんなくだらない勉強の比ではないぞ。その前に大学受験だってある。月彦、」
父は答案を見比べ、本棚から物理の問題集を1冊引き抜くと、机の上に広げて筆記用具を並べた。
テストの最終問題の類題だった。
「問題が解けるまで、この部屋にいなさい」
すでに息が苦しかった。呼吸の速度がどんどん上がっていって、自分では止められなかった。
それでも僕は問題集に視線を落とし、シャープペンを握る。
父はいつもの、出来損ないを見るような温度のない視線だけを投げて、部屋を出ていった。鍵を、外側から閉めるガチャリという音が、今も、耳の奥底にこびりついている。
この頃からだ。
父と話す時右手が痺れるようになったのは。