下巻
4話 世界解体 ②
2
昔々のこと。
僕はお城専門の建築家だった。
そして砂場は僕の仕事場だった。
お城ができると、僕は必ずと言っていいほど母にそれを見せた。母はいつも、前よりも上手にできたね、と言ってくれた。
そんな7歳の誕生日を迎える年の、初夏の晴れた日のこと。
いつものように砂場で、新しいお城のデザインについて考えを巡らせていた僕は、人生を変える魔法のような存在と——出会う。
邂逅は、一瞬だった。
最初に聞こえたのは、ごー、という低い音。音そのものは小学校の教室からも聞くことのある、ジェット機が空を駆け抜けていく時の音だ。音はどんどん大きくなり、やがて耳を塞がないと立っていられないほどになった。
そして、次の一瞬、公園全体が影に包まれた。
頭上を、何か巨大なものが通過していったのだということだけはわかった。慌てて顔を上げて、音を追う。
それは、1羽の巨大な鳥だった。
見間違いかと思った。
でも、見間違いなんかじゃない。
翼は燃えるような赤。長い尾を振り優雅に空を駆ける様は、絵本で見た不死鳥に似ている気がした。
巨鳥は建物の真上を過ぎたところで一度羽ばたき、舞い上がった。そして、ぐんぐん高度を上げていき、やがて太陽の光と同化して消えてしまった。
それは、文字通り人生を変えるほどの、トンデモない大発見だった。
すぐに家に戻って画用紙と色鉛筆を出すと、自分の部屋に籠もった。色鉛筆を走らせる僕は野望に燃えていた。この大発見を絵にできれば、普段はあまり僕に関心を持ってくれない父も、流石に褒めてくれるはず。
赤とオレンジの色鉛筆を使い切るのに、3時間もかからなかった。
出来上がったのは、紅い巨鳥の絵。
僕はその鳥を、
「申し訳ない。遅くなった」
父の声が聞こえて、僕はテーブルから顔を上げた。
父の視線が僕に注がれる。鋭くて、冷ややかで、それでいて理知的な目。とたんに恥ずかしさが込み上げてきて掌が汗ばんだ。
さっきまでの自信が、跡形もなく消えていた。
そんな様子を察した母が、僕の肩にそっと手を置いてくれた。
僕は覚悟を決め、自室から不思議鳥の絵を持ってきて父に差し出した。
じれったそうに受け取った父は、椅子に座り、両手に持った画用紙をじいっと見つめた。
「この絵は、公園の絵か?」
僕が頷くと、父は、こっちに来なさいと言って、僕を隣に座らせた。
そしてテーブルに広げた画用紙を吟味し、言った。
「いいか。現生する世界最大の飛行可能な鳥類は、南アメリカ大陸に生息するアンデスコンドルだ」
何の話をし始めたのか、一瞬わからなかった。
父はよくそういう喋り方をした。
「翼を広げると全長は3メートルにもなる。鳥類は、羽ばたくことによって揚力という力を得て、空を飛んでいる。だが、ジェット機の翼は、鳥の翼と違って羽ばたくことはない」
父の指先が画用紙の真ん中に描かれた不思議鳥を指す。
「お前の描いたこの鳥は、明らかに3メートルを超えている。もし鳥じゃないとすると、翼を羽ばたかせていることが説明できない」
それから父は、いいかい、と前置きした上で告げた。
「つまりこれは、間違っている」
まちがい。
その言葉が重く響き、鼓膜を抜けていった。
「ちょっとハルミツさん。もっと他に何か言ってあげるべきことがあるでしょ?」
横からたしなめる母に、父は渋々という感じで、絵と僕とを見比べる。
「この鳥を実際に見たのか?」
僕が頷くと、父は、ため息を挟んで言ったのだった。
「だとしたらまず、見間違いを疑うべきだ。低空飛行していたジェット機かもしれないし、このご時世だ、新開発のドローンかもしれないな。ともかく翼の赤い巨鳥など、現代の日本には存在しない」
父は、僕と目線が合うように、少し姿勢を低くした。
それからゆっくりと念を押した。
「わかったか?」
僕はあらゆる言葉を吞み込んで、はい、と一言返事をした。
その晩、なかなか眠れずトイレに起きた。足元灯だけが照らす薄暗い廊下を歩いていくと、物音がして、僕はキョロキョロと周りを見た。
片付け忘れたおもちゃの兵隊が玄関の片隅に立てかけられていて、その瞳がぎらりと不気味に輝き、ゾッとした。
「たかが子供の絵に、あんな強い言い方しなくたってよかったでしょう? まるで怒ってるみたいだった」
母の詰る声が、リビングの扉から薄暗い灯りと一緒に漏れ聞こえた。
「子の間違いを修正するのが、親のつとめだ」
切り捨てるように言ったのは父だった。
「それにあの絵を友達に見せて、くだらない空想に浸っているヤツだと笑われて、いじめられでもしたらどうする?」
僕は何も驚いたりしなかった。
二人の口論を聞くのは、初めてのことじゃなかったから。
「フロイトの発達段階理論に触れてもいないお前に、子供の何がわかる」
父は決して声を荒らげない。言葉はただ重たく、はっきりとした輪郭があり、そして強度があった。興奮して激しい言葉を吐いている母の方が、子供ながらに、なぜだか弱々しく思えた。
口論は長引き、足の指先が悴んでくる。
その冷え冷えとした時間の果てに、ついに母が言う。
「もう、本当に勘弁してほしい。あなたの言い方は酷すぎる。いい。もういい。話しても意味がない」
立ち上がる音が聞こえたので、僕は慌てて自分の部屋へと引っ込んだ。ベッドに体を滑り込ませ、頭から被った布団。廊下をどたどたと歩く母の、温度のない捨て台詞が、僕の記憶の奥底へと刻まれる。
「ええ、そうですね。正しいのはいつもあなたですよ」
母が家を出ていったのは、その2週間後のことだ。