下巻

4話 世界解体 ①


 ——あなたは、私と一緒にいるべきじゃない。

 テラの言葉が頭の中で渦巻いていた。

 心臓が早鐘を打ち、手から汗が吹き出し、早足と言うには急ぎすぎる速度で、両足が体をひたすらに運んでいく。

 僕は、動揺している。

 けれどその反面、思考は気持ち悪いぐらい明晰に働いている。

 テラはどういう理由であれ、僕を拒んだ。

 拒まれたということは、僕は何かを《間違えた》のだ。

《間違え》て、《間違え》ていることに気づかずのうのうと友達ヅラをし続けて、そして……彼女に嫌われてしまったのだ。

 さっきまでいたビルが、住宅街に紛れて見分けがつかなくなるぐらいの距離までようやく来る。

 振り返っても、追ってくる様子もなかった。

 間もなくして陽が落ちきり、空は青と紫の中間のような色になって落ち着いた。メニューに表示させた地図には、家まで直線距離であと5キロと出ている。

 歩みを再開する。

 テラは、どうしてあんなことを言ったんだろう。そして僕は、何がダメだったんだろう。

 テラに未来がなくて、僕に未来があるって、なんなんだ。

 そもそも、未来って、一体——。

 不意に、頭痛が襲ってきて、僕はその場にしゃがみ込んだ。頭痛は時折くるので、しゃがんでいればいいとわかっている。しばらくそうしているうちに、辺りは完全な闇に吞み込まれてしまった。

 そんな僕の前に、薄い影を作る者たちがいた。

 片側1車線の車道の真ん中。いつかに見た二人組が、道を塞ぐように立っていた。

 犬頭の二人組。

八咫やた羽衣はごろも》に似た、黒に緑の蛍光ラインの入ったような装束。それに、なんと言っても、そのアヌビスっぽい被り物。


「なんだ。僕に用か」

「ああ、用さ。用、大有りさ」


 向かって右の犬頭から聞こえてきたのは、少しハスキーな女性の声だった。

 彼女は懐から何か長いものを取り出し、右手に掲げ持った。それは、緑色のラインの入った大鎌。

 そんな長いものが服の下に収まるわけがないし、それにその異様な雰囲気から一目でわかった。

《アイテム》だ。

 けれど、今までのどのクエストでもドロップした覚えのない形状だった。

 だとするなら、何か? この二人は僕よりも先を行くクエストプレイヤーとでもいうのか。

 あるいは、クエスト外から持ち込まれたもの——?

 犬頭は、鎌の柄をガツンと地面に突き刺すと、告げた。


「よう、東棟1023の坊ちゃん。あたしはイド。そんで、こっちの猫背ノッポの方が」

「……シャーデンフロイデ」


 鎌持ちの隣に控えるもう一人の犬頭が、のっそりとした低い男の声でそう名乗る。


「なんなんだ、お前ら。東棟? 1023……?」


 僕は愚直に訊ねた。

 正直今は、テラのことでいっぱいいっぱいだった。

 すると鎌持ちは、答えた。


「あたしらは、ハルミツに雇われたホワイトハッカーだよ。ここのセキュリティがやたら堅くてね。他にも雇われたやつらはいるが、結局うちら姉弟しか、この世界には入れなかった」

「……」


 ハルミツという名前には、なんとなく聞き覚えがあった。

 だが、うまく思い出せない。

 だから期待というよりはそれは確信に近かった。知らないはずがないだろうという、根拠のない確信。

 僕がピンときていないことに気づいたのだろう。鎌持ちの犬頭は、犬の被り物の下で口をぬっと押し広げ、低く笑った。


「ああ、そうか。ハルミツと言っても、記憶の消しゴムを使われてる今のあんたじゃ、わからねえか」


 記憶の消しゴム……?

 その時、再び頭痛が襲ってきて、僕は見知らぬアパートのポストにもたれかかった。

 朝目覚めた時や、クエストが始まる直前など、これまでも頭痛が起こることはあった。けれど、こんなに酷いのは初めてだった。


「ほら」


 そう言って鎌持ちは空いている方の手の、指を1本ずつ折ってみせる。小指だけ残し、指切りするみたいに突き立てて、こちらに差し出してきた。


「なんのつもりだ」


 僕が言うと、鎌持ちは体をぐいと寄せ、


「うちとあんたの接触面さ。触れ合いすぎるとファイアウォールを呼び起こすからな。指先ここからあんたのアカウントをクラックして、《記憶の消しゴム》の効果を解く」

「僕に、なんの、メリットがある」

「拒むんだったら、腕ずくでやるまでだ」


 鎌持ちは、片手でひょいと鎌を持ち上げ、振り回してみせた。いかにも鋭利そうな刃が空気を裂く。

 どうする。

 メニューから武器を取り出して戦うか? だけど今はクエスト中じゃない。

 まして人間を相手にするなんて……。


「いいだろう」


 何か、僕の知らないことがこの世界で起こっている気がした。そしてそれを実際に、知らねばならないと思ったのだ。

 僕は犬頭のやった通り小指を差し出した。こんなことで何か起こるとも思えないが、今は従うしかないような気がしたのだ。

 小指を触れ合わせる直前、犬頭が言った。


「おっと、その前にこれだけは伝えとかなきゃな」


 犬頭は鎌の柄で、空中に長方形を描くと、僕と同じ要領でメニューらしきものを出現させる。そして、鎌を持つ方の手で器用に画面をタップした。


雇い主ハルミツ様からの伝言だ」


 再生されたのは録音音声だった。ざざ、というノイズから入った音声は、空気の音とマイクの擦れ合う音を響かせたのち、短く、それでいて厳かに、次のように述べた。


 ——遊びの時間は終わりだ、月彦つきびこ。戻りなさい。

刊行シリーズ

トンデモワンダーズ 下 〈カラス編〉の書影
トンデモワンダーズ 上 〈テラ編〉の書影