下巻

幕間 ②

 どれだけ走ったろう。靴も履き替えずに外に飛び出して、グラウンドの裏側をぐるりと回った。上履きのまま湿った土を踏む背徳感の、その凄さたるや。たどり着いたのは、粗大ゴミの廃棄場と花壇がある校舎裏で、1本の立派な葉桜が木漏れ日を作っていた。

 僕らは葉桜の幹に背中をもたれさせ、荒ぶる息を整える。心拍が70BPMを切ったところで僕は言った。


「お前って本当に、めちゃくちゃなやつだ。よくも入ろうと思えたな、あんな得体の知れないものの中に」

「だって、マジでいいアイデアだと思ったんだもん。息ができないのは誤算だったけど……」


《メニュー》は、原則的にはアイテムをしまうものだ。でも、アイテムということにしてしまえば、実質的にはなんでも収納可能だった。しかも《メニュー》に重さという概念はない。そこでテラは言い出したわけだ。

 私をアイテムってことにしよう、と——。


「狭いなあ」


 空を見上げていたテラが、ふいにそう言った。


「《メニュー》の中がか?」

「違う。学校とか、世界とか。でも私たちは脱出に成功した。つまり——」

「つまり?」

「私たち、きっとどこへでも行けるってこと」


 幹に腰掛けて伸びをしたテラが、ニヤリと笑ってみせる。木漏れ日を受けたその表情は特別明るく快活に見えて、僕はなんとなく顔を逸らした。


「どこへでも行けるなら、どこに行きたいんだよ」


 顔を逸らしたまま、僕は訊ねた。

 テラは少し首を傾け、うーんと考え、


「水族館とかかな。夏休みに行くんなら、やっぱ涼しげなところがいいじゃん」


 そう告げる。

 夏休みなんてずいぶん気が早いように思えるが、そうか。待っていればいつか、夏休みは来るのか。


「絶対に行かない」


 僕が答えると、テラは頬を膨らませて反論した。


「そこまでガチ否定すること?」


 僕も幹に寄り、テラとは反対の向きに座ると、さらさらと動く葉っぱの1枚1枚を目で追いながら言った。


「はっきり覚えてないけど、子供の頃だったかな。水族館に行った時、ガラスが割れて。水槽の中身が流れ出してきたことがあって。僕に怪我はなかった。でも、目の前でどんどん生き物が死んでいった。僕は、それをずっと眺めてた。ひどい匂いだった。それが今もトラウマなんだと思う」


 ふーん、と軽い返事を返すテラ。空飛ぶウミヘビとか、クラゲとか、ウミウシとかが湧いてるこの世界じゃ、さぞ生きづらそうだとでも思ったのか。……実際に、エレベーターにクラゲのワンダーと一緒に閉じ込められた時は、最悪だったよ。


「じゃあ、海とか?」


 テラが、ポツリと言う。


「海か」


 僕も、その2文字を口の中で転がした。海か。そうか。

 しばし考えてから、僕は返した。


「クラゲが出ない海だったら。いつか」


 テラの瞳に、輝きが宿った気がした。

 いつか。

 自分の口から漏れ出たその3文字に、自分でも少し驚く。僕には今クエストがある。ラスボスを倒す、それはもう決めたことだ。でも、今じゃない。その先に未来があるとして、仮にそこに、今みたいにテラがいるとして。

 そんな、いつか、なら。

 ざざ——。

 ボールネットの支柱の、かなり高い位置に取り付けられたスピーカーから放たれたノイズ音に、顔を上げる。


「2年C組、出席番号11番カラスさん。出席番号15番テラさん。至急職員室まで来なさい。急いで来なさい!」


 先生の声だった。あの冷静沈着な先生が、声を荒らげている。それが申し訳なくて、あとが大変だなと思って、それ以上に痛快で——。

 顔を見合わせて、僕らは笑った。

 その時。僕はずっと強張っていた肩から力が抜けるのを感じた。クエストなんてなくても、もしかしたらこうして、ただバカをやって笑っているだけの日々でも息ができるんじゃないかと……そういう得体の知れない自信が、この胸に育っていると知り、そして思ったのだ。

 今度彼女を、遊びに誘ってみよう、と。



 それが——。

 たったの2週間前のことだ。

刊行シリーズ

トンデモワンダーズ 下 〈カラス編〉の書影
トンデモワンダーズ 上 〈テラ編〉の書影