下巻
幕間 ①
傾き始めた陽がじんわりと照らす教室で、二人きりだった。
僕とテラの机の上には、作文用紙が置かれている。
担任の先生はここに、最近学校にまともに来ない理由をしたためろと仰った。
掌の上で遊ばせるシャープペンシル。親指を軸にして回転させるには結構な練習が必要だ。そんなふうに手遊びしながらも、頭はちゃんと回っている。親の手伝い? 精神的なハードル? それとも存在しない兄弟の世話……? 教師に一番同情してもらえるもっともらしい言い訳を、僕が考えているその横で、
「決めた」
勢いよく立ち上がり、ブルーグレーのツインテールを揺らしテラが言う。
僕は細めた目で彼女を見上げる。いつ見ても同じ、丈の短いジャケットの胸には、よほど気に入っているのか、クエストでドロップした星のブローチが添えられている。
「脱走しよ」
「……」
しばらく黙っていると、テラが眉毛をひん曲げてこちらにずんずんと歩いてくる。
「え、何。聞こえなかった? 脱走しようって言ったの」
「いや、聞こえてるけど」
僕は、広い空白欄と氏名欄のある作文用紙に目を落とす。この分量なら、だいたい600字から1000字程度。
「普通に書けば終わるし」
すでに頭の中には、存在しない幼い弟の立ち姿が出来上がっている。
そんな僕にテラは熱弁を振るった。
「いい? これに反省の気持ちを書くのは、学校に屈するってこと。負けるってことなんだよ」
負け……?
その2文字の言葉が、頭の奥底をピリリと刺激する。確かに、教室に閉じ込められるのは不当な気がしてくる。
「……そう言われるとちょっと不愉快かもしれない」
「でしょ!」
嬉しそうに声を上げるテラ。
僕はなんとなく作文用紙を二つ折りにして畳むと、窓から廊下を軽く覗いてみる。放課後の廊下は閑散としており、人混みに紛れるということは期待できない。
「どうするんだよ。二人で出ていくのはリスクが大きすぎるぞ。かといって一人ずつ逃げるか? 残された方が悲惨だ」
水を差すようで悪いが、現実の苛酷さは告げておかねばならない。
しかしテラは待ってましたとばかりに、イタズラっぽい笑みを浮かべて言うのだった。
「そう言うと思ってました。じゃあまずは《メニュー》を出して……?」
黒板側の扉を少しだけ開けて、頭を出してみる。さっきと同じく、人通りはない。確か先生は1時間後に見に来ると言っていた。まだ30分ある。僕はそっと扉を開け、廊下へと足を踏み出した。しかし、後ろから続く足音はない。かといって、テラを教室に残してきたわけでもない。
目立たないように廊下を進み、階段を下り始める。踊り場で誰かとすれ違う。生徒二人組だった。心臓が跳ねる。平静を装って通り過ぎる。
もう1階分、階段を下りた。
その時だった。
「おや」
声に、足が止まった。
僕よりひと回り長身の物理の教師が、10段ほど上に立つ僕のことを見上げていた。心臓にずきりと刺す痛み。生身の人間に見つめられているこのプレッシャー。
「出席番号11番、カラスさん。もう作文は終わったのですか?」
左手は無意識に手すりを掴んでいる。その、金属のひんやりした感覚が、手汗をかいた掌に染みた。
「それともお手洗いですか? だとすると、階段を下りる意味がわかりませんが」
「ええと……」
ヤバい。
なんて言えばいい? この人の言って欲しいことは何だ……? 頭の中を無数の選択肢がよぎり、ごちゃごちゃに混線を始める。
「実は、あの、僕」
その時だった。
右手が震えたように感じた。痙攣とは少し違う、何かこう、内側から叩かれているような、そんな感じ。震えは次第に激しくなる。どん、どん、どんどんどん——。衝撃は抑えきれないほど大きくなり、
「うわっ!」
掌から、光の板が飛び出した。
《メニュー》——本来であれば、指先で宙に四角形を描くことで呼び出す、クエスト中にアイテムやスキルを使うためのツール。
その《メニュー》の中から声が響いた。
「出してえええ——ッ!」
先生が目を丸くした。その反応も当然だ。《メニュー》はクエストプレイヤー以外には目視できない。つまり先生には、呻き声だけが聞こえているのだ。
「ヤバい。ヤバい早く出して、ヤバい。死ぬ」
漏れ出す声が大きくなるにつれ《メニュー》がガクガクと震え始める。何がヤバいのかが全くわからない。だが《メニュー》の中で、何かのっぴきならないことが起きているのだけは、明らかだ。
「もういい自分で出る」
声の主は勝手に宣言し、
「おい、待てテラ、今はまずい!」
僕の制止を振り切って《メニュー》から飛び出した。テレビから飛び出す怪物みたいに、上半身から踊り場に着地し、そのまま腕だけで匍匐前進して《メニュー》に残った下半身をずるりと引き抜く。
そして、思いっきり深呼吸をした。
「おい、中で何があった……」
「あのね、すぅ——————。この中ね。はぁ——————。めっちゃ広いの。でも……」
息を整え終えてから、テラは立ち上がって僕の胸を人差し指でつついて、叫んだ。
「息ができない!」
マジか。
それは、ごめんとしか言えないわ。
テラは僕をたっぷり6秒睨んだのち、すぐさま階段の下にいる先生へと視線を移す。そう。まだ問題は何も解決していない。この一連の流れは、《メニュー》を認知できない先生にとっては、テラが虚空から突然出現したように見えたはず。
先生に気づくや否や、テラは開きっぱなしになっていたメニューの中に手を突っ込み、雷に打たれたように棒立ちする先生に向けて、巨大な布を放り投げた。
うわあっ。間抜けな声をあげて尻餅をつく先生。それと同時だった。
テラの手が、僕の汗ばんだ左手を掴むと、目一杯の力で引いた。
「いくよ!」
もがく先生の横を素通りして、廊下を駆ける。何もかもが無茶苦茶で、とんでもない。けれどなぜだろう。頭の中では冒険の始まりみたいな、アップテンポなBGMが鳴っている。
「なあ! あんなものいつの間に!」
走りながら僕は訊ねる。
「空き教室のカーテン。こんなこともあろうかと、前に仕込んでおいたんだ」
「こんなことって、キレた物理教師から逃げることかよ⁉」
「そう!」
走りながら彼女は答える。
「キレた物理教師から逃げること!」