第二章 仲直りの代償 ②
反論の余地がない見事な指摘だ。
「……僕は今、国見との差を思い知らされた気がするよ」
「それはそうと」
理央がわざとらしく前置きをする。
「なんだよ?」
ビーカーの水がぶくぶくと沸騰しはじめていた。
「牧之原のことは吹っ切れたんだ」
「……国見といい、なんでそこに結び付ける」
「梓川が一番よくわかってるんじゃないの?」
理央はアルコールランプの火を消すと、ビーカーのお湯をマグカップに移した。そこへ、インスタントコーヒーの粉をひと匙落とす。どうやら、実験ではなかったらしい。
「僕にもくれ」
「あいにく、マグカップはひとつしかない。まあ、このメスシリンダーでいいか」
長さ約三十センチ。細長い円筒状のガラス器機を理央が平然と差し出してくる。
「こんなものでコーヒーを飲もうとしたら、中身が一気に流れてきてえらいことになるだろ」
「梓川の仮説が正しいかどうか、実験で検証する必要がある。それに、他に目ぼしい代用品もない」
「お湯を沸かしたビーカーをそのまま使うっていう発想はないのか」
「当たり前すぎて面白くない」
文句を言いながらも、理央はビーカーの残ったお湯に、インスタントコーヒーの粉を入れてくれた。
「双葉、砂糖は?」
「私は入れない」
引き出しから理央がプラスチックボトルを出して、どんと咲太の前に置く。ラベルには二酸化マンガンと書いてある。
「大丈夫だろうな、これ……」
「中身はたぶん砂糖だよ。白いし」
「白い粉なんて他にも無数にあることくらい、僕だって知ってるぞ」
とりあえず、二酸化マンガンが黒いことも知っている。
「一応、少量ずつ試した方がいい」
理央のリアルな忠告は無視して、咲太はブラックでいただくことにした。
それを見て、なんとも残念そうな顔をした理央は、再びアルコールランプに火をつけていた。今度こそ実験をするのかと思いきや、金網をセットして、スルメを炙りはじめた。スルメの足がくた~と曲がっていく。
「僕にもくれ」
コーヒーに合うとも思えなかったがにおいを嗅いでいたら食べたくなった。
足を一本だけちぎって理央が分けてくれる。
それをかじりながら、咲太は本題を切り出すことにした。
「あのさ、人が見えなくなることってあると思うか?」
「視力が心配なら眼科に行けば?」
「いや、そういう問題じゃなくて……そこにいるのに見えないっていうか。透明人間になる的な」
麻衣の場合、見えない相手には声も届かないという症状も出ているので、実際は少し違うのだが……まずは初歩的なところから聞いておきたい。
「で、女子トイレに忍び込むわけ?」
「スカトロ趣味はないから、更衣室にしとくよ」
「さすが梓川、ブタ野郎だね」
理央の手が鞄に伸びる。ポケットに突き刺さっていたスマホを摑んでいた。
「どこに電話する気だよ?」
「警察」
「事件が起こるまで警察は何もしてくれないぞ」
「それもそっか」
理央がスマホを鞄に戻した。
「さっきの質問だけど、物が見える仕組みについてなら、物理の教科書に書いてあるよ。光とレンズの勉強をすればいい」
どんと、理央が咲太の前に物理の本を置いた。
「それが面倒だから、双葉に聞いてるんだよ」
出された本を、咲太は丁重に返却した。
それを気にせずに、理央はスルメをかじっている。
「重要なのは光。対象物に光が当たって、そこから反射してきた光が目に入ることで、人はそのものの色や形を認識してる。光の当たらない暗闇では物は見えない」
「反射ねぇ」
「ぴんと来てないなら、音に置き換えて考えてみれば? イルカの超音波の話くらいは聞いたことあるでしょ」
「何かに反射して戻ってきた超音波を聞いて、障害物との距離を測るっていう?」
「そう。実際には姿かたちもわかっているらしい。船のソナーも同じ。光だとイメージしにくいのは、そもそも眩しいと感じるくらいの光じゃないと、光が目に入っているっていう実感がないからかもね」
「ふ~ん」
「つまり、光を反射しない透明なガラスなんかは見えにくい」
「あ~、確かに」
ならば、麻衣の体には光が当たっていないとでもいうのだろうか。活動休止中の芸能人だけに、なんだかその表現は皮肉めいていて笑えない。
もしくは、無色透明なガラスのように、麻衣が光を反射していない……という考え方でもいいのかもしれないが、それでも説明がつかないことはまだまだたくさんある。
声のこともそうだし、見える人がいたり、見えない人がいたりする。状況はもっとややこしいのだ。
「今の話は、なんとなくわかった」
「本当に?」
疑いの眼差し。
「双葉って、僕をバカだと思ってるだろ」
「いいや」
「超バカだと思ってるのか?」
「私の言いたいことに察しがついているくせに、わざわざそういうことを聞いてくるウザいやつだとは思ってる」
「ウザいってお前ね」
「空気を読めてるくせに、あえて読めてないふりができる嫌なやつだとも思ってる」
「僕が悪かった。これ以上抉るのはやめてくれ」
「そうやって上手に逃げるとこなんて、まさにね」
ずずっと無感動に理央がコーヒーを飲む。
これは早々に話題をもとに戻した方がよさそうだ。
「えっと、じゃあ、今度は条件を限定して聞くが、こうして双葉の前に座っている僕が、双葉から見えなくなるというのは可能か?」
「私が目を閉じればいい」
「目を開けたままで、真っ直ぐ僕を見てだよ」
「可能だよ」
理央の返答は想像とまったく逆で、しかもあっさりしたものだった。
「私が何かに没頭するか、ぼ~っとすればいい。梓川のことなんか気にならなくなる」
「いや、そういうのとはちょっと違くてだな」
「まあ、最後まで聞きなよ。光とは別の観点の話で……『見える』ということに関しては、物理現象よりも人間の脳の働きが強い影響を及ぼすこともある」
コーヒーがなくなったのか、理央が別のビーカーに水を入れて、アルコールランプの上に置いた。
「たとえば、梓川から見て私は小さいんだけろうけど、小学生から見れば大きいと言われるはずだよ」
「いや、双葉は大きいだろ。いつも白衣着てガード固いけど、その上からでもそれはわかるぞ」
視線は理央の膨らんだ胸元へ注がれる。
「む、胸のことは言うな」
理央が女の子みたいに、両手で胸を隠す。
「あー、すまん。気にしてたのか」
「梓川の中には、デリカシーや羞恥心という概念はないらしいな」
「その辺に落としてきたのかも」
キョロキョロと周囲を見回す。
「真面目に聞く気がないなら帰れ。講義は終わりだ」
理央が席を立つ。
「悪い。真面目に聞く。胸も見ない」
「だから、胸の話をするな」
実際、見ないと言って本当に見ない自信はない。視線がそこへ吸い込まれるのはもはや無意識なので、遺伝子レベルの修正を施さない限り、実現するのは難しいだろう。
コーヒーに口を付けてお茶を濁す。
「つまり、見えるものについては、主観が入るってことだよな?」
「そう。見たくもないものは見ようともしない。そんな芸当も、人間の脳にはできる」
見て見ぬふりをするなんて言葉もあるくらいだ。眼中にない。気にも留めていなかった。意識してない。言い方は色々あって、納得できる部分は多々ある。
ただ、先ほどからの理央の話は、咲太がなんとなく思い描いていた麻衣の状況を、真っ向から否定するものでもあった。
乱暴に言えば、咲太は麻衣が『空気』を演じることで、周囲から見えなくなっているんじゃないかと考えていた。麻衣に原因があると思っていた。



