第二章 仲直りの代償 ③

 けれど、理央の言葉は、全部見る側の観点で語られている。つまり、見られる側の思い込みとか、立場は関係ないという理論。


「観測理論というものもある」


 咲太の考えがまとまる前に、理央が次のボールを投げてきた。


「かんそくりろん?」


 知らない言葉をそのまま繰り返す。


「極端な言い方をすれば、この世に存在するものは、『誰かが観測してはじめて存在が確定する』……という、普通に聞くと、とんでもない理論だよ」


 特に何の感情もなく淡々と理央が語る。


「箱の中の猫の話くらい、聞いたことがあるでしょ。シュレーディンガーの猫」

「あ~、名前だけは」


 理央は机の下から空っぽの段ボール箱を用意すると、それを咲太の目の前に置いた。


「この中に猫と」


 そう言いながら、理央がまず招き猫の貯金箱を段ボール箱に入れる。物理教師が五百円玉貯金に使っているやつだが、随分軽そうだ。


「さらに、一時間に一度の確率で放射線を発する放射性原子と……」


 続けて、お湯を沸かしていたビーカーを理央が投入する。


「その放射線を感知して蓋が開く毒ガス入りの容器を一緒に入れておく。蓋が開けば、毒ガスを吸って猫は確実に死ぬと思っておいて」


 最後に、二酸化マンガンのプラスチックボトルが段ボール箱の中に収められた。


「これで蓋をして三十分待つ」


 そう言いながら、理央が段ボール箱の蓋を閉じた。


「さて、ここに三十分待った箱を用意した」

「料理番組か」


 咲太のツッコミは無視して理央が続ける。


「箱の中の猫はどうなってると思う?」

「え~と、一時間に一度の確率で、放射性原子は放射線を出すんだよな? で、その放射線を感知して、毒ガス入りの容器の蓋が開くんだろ?」


 無言で理央が頷く。


「そんでもって、三十分ってことは半分だから……二分の一の確率だよな?」

「驚いた。話を理解してたんだ」

「この程度がわからなかったら、僕は相当のバカか、話を聞いていなかったかのどっちかだ」

「では、猫は生きているか死んでいるか」

「だから、五分五分だろ? 調べたきゃ、箱を揺すればいい」

「箱は鋼鉄製で動かないように固定されている」


 目の前にあるのは段ボール箱だ。


「じゃあ、生きていることを信じるよ」

「梓川がどちらに山を張ろうと、この場合、どっちもいいんだけどね」

「なら、聞くなよ」

「今の猫の状態を『確定』するには見るしかない」

「随分、普通のやり方だな」


 理央が段ボール箱の蓋を開ける。当然、招き猫の貯金箱とビーカー、それと二酸化マンガンのプラスチックボトルが中にはあった。


「箱を開けた瞬間に、猫の生死は確定する。つまり、箱を開けて確認するまでは、半分生きてて、半分死んでることになる。量子力学の世界ではね」

「なんだ、その理屈。たとえば、蓋をして十分後に死んでたとするだろ? だったら、残り二十分を待って蓋を開けるまでもなく、猫は死んでるんじゃないのか」


 少なくとも猫にとっては、そこで人生終了。いや、この場合は猫生だが……どの道、結果は同じだ。


「だから、最初にとんでもない理論だって言ったでしょ。ま、量子力学の解釈は置いておくとしても、考え方自体は真理を突いていると私は思うけどね」

「真理ね~」


 どうにも胡散臭い。


「人間は見たいようにしか世の中を見ていない。梓川の噂がいい例だよ。真実よりも、噂が優先される。梓川は箱の中の猫で、その他全校生徒が観測者であるとすれば、現実に置き換えて考えることもできるんじゃないの?」


 箱の中の事情よりも、あとからそれを見た人間の主観が優先される……と理央は言いたいらしい。当事者である咲太の視点など関係なく、見る側の観点で咲太の印象が決まってしまう。


「笑えないな、それ……」


 ただ、麻衣の事例と合わせて考えるのは、なかなか難しかった。咲太には見えて、他の人には見えない状況があったり、どういう条件で『見えなくなる』ことが起きているのかわかっていない。

 面白い話は聞けたが、まだピースがはまらない感じ。

 そもそも思春期症候群なんて眉唾物の現象を、物理的な解釈で説明できるのかも不明だ。何か手がかりになりそうな部分はあったけど、理央に相談したことで、余計に状況が難しく思えてきていた。

 麻衣に起きていることは、麻衣が芸能界に復帰するだけでは解決しないかもしれない。そんな嫌な気分が、咲太の胸には落ちている。理央の話は終始、見る側の立場で語られていたから……。麻衣の意識が変わるだけでは、どうにもならないかもしれないのだ。


「補足になるけど、観測することで結果が変わるっていう事例は、実際に物理の世界にはあるんだよ」

「まじ?」

「二重スリットの実験っていうのがあって……すごく単純に結論だけを言えば、実験の途中経過を観測した場合と、最終結果だけを確認した場合で、現れる結果が変わってくるって例なんだけどね」

「それは、つまりだ……サッカー日本代表の試合があったときに、結果だけをスポーツニュースで見たときは勝ってるのに、僕が試合を見るときに限って負けるって話でいいのか?」

「私が言ったのは、あくまで粒子の世界……ミクロの世界での話。観測するまで、粒子の位置は確率的に存在していることになっていて、物質ではなく、波の形をしているわけ。観測することで、物質という姿に収縮するんだってさ」

「でも、そのミクロが集まって、人とか物になってるんだろ?」


 分子とか原子とか、電子とか、色々なもので人や物が構成されていることくらいは咲太だって知っている。


「今言った話がマクロの世界で起こるなら、梓川の解釈でもいいよ。あと、今後、日本代表のために、梓川はサッカーの観戦はしない方がいい。二度と見るな」


 理央からありがたい忠告を受けていると、

 ──二年二組の国見君。バスケ部顧問の佐野先生がお呼びです。職員室まで来てください

 という、校内放送が流れた。


「……あいつ、なんかやったのか?」

「梓川じゃないんだ。どうせ、部活の練習メニューの確認とかでしょ」


 興味などなさそうだけど、理央が佑真の肩を持つ。

 スピーカーに目を向けたついでに、時刻を確認した。三時を少し回っている。


「あ、バイトあるから帰るな」

「勝手に帰れ」

「色々サンキュ。コーヒーもご馳走様」

「礼なら顧問の物理教師に言って。これ、私のじゃないから」


 理央はインスタントコーヒーの瓶を持って、蓋に書かれた名前を見せてきた。


「ま、少し減ったくらいばれないだろ」


 そう言って席を立つと、鞄を肩にかけながら歩き出した。

 ドアに触れたところで、ふと思い出したことがあって咲太は後ろを見た。理央はいよいよ真面目に実験をするつもりらしく、ガスバーナーの火を調整している。


「双葉」

「ん?」


 声だけが返ってきた。視線は青白い炎に注がれたままだ。


「国見のこと、大丈夫か?」

「……」


 揺れる瞳で理央が咲太を見つめてくる。

 すぐに、


「だい……」


 と、何か言いかけて言葉を詰まらせた。恐らく、大丈夫と言おうとして失敗したのだ。声は上擦り、いつも通りを意識した理央の表情は強張っていた。


「もう慣れたよ」


 大丈夫は諦めて、理央は力のない顔で微笑んだ。

 咲太にはどうすることもできない。理央の叶わぬ片想いを側で見ていることしかできない。


「バイト、遅れるよ」


 さっさと行けとあごで合図する。それに見送られて、咲太は物理実験室を出た。

 後ろ手にドアを閉めたところで、


「慣れたって……それ、全然諦めついてないだろ」


 と、無意識に呟いていた。

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