第一章 思春期は終わらない ①

 どこからどこまでが僕なんだ

 ねえ、教えてよ

 誰かの声、耳の奥に響いて

 境界線は溶けて消えた

 ひとつに混ざったみんなに僕はなる

 いけないことなの、ねえ


霧島透子『Social World』より




 その日、梓川咲太は『二時間飲み放題、千二百円』の店で、ウーロン茶をあと何杯飲めば元が取れるのかを考えていた。

 三杯目のグラスが空になったので、


「あ、ウーロン茶ください」


 と、通りかかった店員のお姉さんに声をかける。咲太のオーダーに便乗する形で、「ビールも」、「あとハイボール!」、「私、レモンサワー」、「レモンサワーもうひとつ!」、「ウーロンハイをふたつで」と、周囲のテーブルからも注文が続いた。


「はーい、ただいま!」


 店員のお姉さんは、笑顔で答えて厨房の方へと消えていく。

 待っている間、グラスに残った氷を咲太は口の中に入れた。それが溶け終わる前に、店員のお姉さんは大量のグラスとジョッキを器用に持って戻ってくる。


「はい、ウーロン茶」


 テーブルの上に、ストローの挿さったグラスがとんっと置かれた。それをまずは一口。ほんのり苦いウーロン茶の味。近所のスーパーで売られているのと変わらない味だ。

 二リットルのペットボトルが、店頭価格で二百円くらい。千二百円あれば、十二リットルも買える計算になる。

 二時間でその量を飲むのは、罰ゲームとしてもあり得ない。もはや拷問だ。元を取ろうなんて考えは捨てた方が長生きできる。

 そんなことを思っていると、


「ここ、いいですか?」


 と、突然声をかけられた。

 グラスから顔を上げると、座敷のテーブルを挟んだ正面に、ひとりの女子学生が立っていた。ウエスト部分をリボン風のベルトで絞ったロング丈のワンピース。その上に、袖をまくったミリタリー風のジャケットを羽織っている。

 控え目に明るくした髪は、緩くまとめたハーフアップのお団子で、全体的な印象は甘くなり過ぎずカジュアルにまとまっている。

 ただ、体の線は細くて華奢だ。微笑んでいるのに、どこか困ったような表情に見えるのは、左目の下にある泣きぼくろのせいだろうか。


「どちらかと言うと、よくないです」


 聞かれたことに、咲太は思ったままを返した。


「……」


 泣きぼくろの女子は、咲太から目を逸らすことなく、無言で瞬きを繰り返している。まさか、断られるとは思っていなかったのだろう。


「どうして、ですか?」


 三秒ほど遅れて疑問を口にした彼女は、スカートがしわにならないように少し気にしながら、咲太の正面に座ってしまう。やんわり断ったはずなのに……。

 中身が半分ほど残ったグラスもテーブルの上に置かれた。氷が溶けてだいぶ汗をかいている。新しい取り皿も用意して、居座る気満々だ。


「そりゃあ、斜め後ろの席からの視線が痛いんで」


 わざわざ振り返って確認しなくてもわかる。彼女が先ほどまで座っていたテーブルには、彼女の友達らしきショートヘアの女子がひとりと、男子が三人いるはずだ。スマホを出し合って「これ、俺のID」とかやり取りしているのが、ウーロン茶を頼んだ際に見えた。


「なんか、IDの交換はじまりそうで」


 だから、このテーブルに逃げてきたと言いたいらしい。


「嫌なら断ればいいんじゃないですか?」

「普通、そうなんだけど……」


 咲太の助言に、泣きぼくろの女子は困った顔をする。いや、元々そういう顔立ちをしているだけで、本当は全然困っていないのかもしれない。


「普通じゃない理由があるんですか?」

「……わたし、スマホ持ってないから」


 少しだけ間を置いて、そんな理由が返ってきた。


「今時、珍しいな」

「だから、信じてもらえない」


 本当なのに本当だと思ってもらえない。下手な噓をついて断っていると思われる。ちゃんとわかってもらうためには、持っていない理由を話さないといけない。それはそれで面倒だと、彼女は困った眉で教えてくれた。


「スマホ、むしゃくしゃして海に投げ捨てたのか?」

「そんなことする人いるの?」


 世の中にはいるのだが、思いっきり笑われたので名乗り出るのはやめておこう。


「でも、スマホなしで、普段、どうやって生きてるんだ?」

「スマホがないと、人って死ぬの?」

「らしいぞ。僕の知り合いの女子高生が言うには」

「……女子高生?」


 どういうわけか、彼女の目には軽蔑の色が混ざっている。大学生になると、女子高生の知り合いがいてはいけないのだろうか。


「高校の後輩だった女子高生」


 おかしな誤解が生じる前に、追加の情報を伝えておく。


「なら、セーフかな。じゃあ、乾杯」


 何が、「じゃあ」なのかはわからないが、彼女が差し出してきたグラスに、咲太はこつんと自分のグラスをぶつけた。お互いに、ストローで一口ずつ飲む。


「なに飲んでるの?」

「ウーロン茶」

「わたしも」

「そうですか」

「これ、何杯飲んだら元取れるんだろう?」

「十二リットルくらいだって、誰かが計算してたな」

「それ、絶対飲めないね」

「そうですね」


 なんて中身のない会話だろうか。これなら、今日の天気の話でもした方が、まだ建設的な気がする。

 このまま名前も知らない女子と、空っぽの話を続けるのも虚しいので、咲太は今日の集まりの趣旨に則り、自己紹介をすることにした。


「統計科学学部の一年、梓川咲太です」

「なんで、いきなり?」


 笑いながら、彼女が枝豆を口に運ぶ。「豆、うまっ」と呟いて、ウーロン茶をまた一口飲んでいる。グラスを持つ手も、ストローを挟む指も、咥える唇も……仕草のひとつひとつが妙に女子っぽい。男子に囲まれるのもわかる気がする。単純に男子目線で、なんかかわいいのだ。斜め後ろのテーブルの男子たちが、連絡先を交換したがっていた気持ちもわからないでもない。

 そうした仕草に加えて、泣きぼくろが作る困った表情が、放っておけない衝動を刺激してくる。一目惚れさせる魔力のようなものが、彼女にはあるように思えた。


「恥ずかしいから、食べるとこ、あんま見ないでね」


 咲太の視線に気づくと、そんなことを言ってくる。けれど、彼女に照れた様子はない。また枝豆を摘んでいた。


「一応、今日って、そういう会なんだろ?」


 咲太がテーブルから振り返るようにして見回したのは、四人掛けのテーブルが六つ並んだ居酒屋の掘座敷。座敷全体がちょっとした個室のようになっている。

 男子だけのテーブルがひとつ。

 女子だけのテーブルもひとつ。

 男女で座っているテーブルが四つあって、そのうちのひとつは咲太と彼女のふたりだけ。

 座敷を貸切で、笑い声をあげ、手を叩き、スマホを出してID交換に勤しんでいるのは、咲太と同じ大学に通う学生だ。約二十人。

 今日は九月の最終日である三十日。金曜日。

 後期は週頭の月曜日からスタートし、ここには基礎ゼミと呼ばれる学部混合の一般教養科目で、同じ講義を選択した面々が集まっている。これから半年間よろしく……という懇親会の名目で、飲み会が行われているのだ。

 場所は横浜駅の近く。西口を出て徒歩数分の繁華街にあるチェーンの居酒屋。会費は飲み放題付きで二千七百円。

 開始から一時間半が経過した今、咲太がいるテーブル以外はすっかり出来上がっている。時間とともに話し声も、笑い声も、大きくなる一方だ。

 折を見て、ひとりずつ自己紹介をしてもらう予定……とか、最初に幹事が言っていたはずだが、今となっては誰もそんなことは覚えていないし、気にもしていない。楽しければなんでもいいという雰囲気だ。


「国際商学部一年、美東美織です」

「どうも」

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