第一章 思春期は終わらない ②
「ま、梓川君のことは当然知ってたけど」
「僕って有名人だからな」
本当に有名人なのは、咲太がお付き合いしている恋人……国民的知名度と人気を誇る芸能人『桜島麻衣』の方だ。映画、ドラマ、CM、ファッション雑誌のモデルと、多方面のジャンルで活躍している。その上、昨年の下半期は、朝ドラの『おかえり』という作品でヒロインを演じ、デビューが朝ドラだった麻衣にとっては、まさにおかえりという感じの一年だった。この一年間で、存在感はさらに増している。
そんな麻衣と咲太が、彼氏彼女の間柄であることは、噂の次元を通り越して、大学内では周知の事実として受け止められていた。
麻衣も同じ大学に通っているのだから、知れ渡っていて当然。美織が「当然」と言ったのは当然なのだ。
咲太の入学から半年が経過した今となっては、そのネタでいじってくる学生も殆どいない。そもそも、不思議なもので、面と向かって「付き合ってるの?」と聞かれること自体が稀だった。聞かれたのは、両手で数えられる程度。
みんな、気にはなっているのだと思う。だけど、そういうミーハーな振る舞いは、なんかダサい。お互いを牽制し合う空気が、キャンパス内には自然と出来上がっていた。
「いいな、美人の恋人。わたしもほしい」
「僕の麻衣さんはあげないぞ」
「いいな」
美織の目は、羨ましい気持ちを通り越して恨めしそうだ。
「恋人がほしいなら、好きなの選べばいいだろ? モテるみたいだし」
ちらっと斜め後ろのテーブルを見る。ひとり女子が増えて、今も楽しそうに何かを話していた。ただ、周囲がうるさくて、内容までは聞こえない。
その咲太を、美織は今度こそ恨めしそうに見ていた。「意地悪なこと言うなぁ」と、咲太を批難している。
「そう言えば、梓川君は、なんでひとりだったの?」
「最初からひとりだったわけじゃない」
「それは向こうのテーブルから見えてたので知ってる」
少し前までは、別のテーブルに移動した男子と一緒だった。同じ学科の福山拓海だ。店に入ってからずっと、
「俺も彼女ほしいなぁ」
「だったら、女子と交流してきたら?」
「それは照れる」
「じゃあ、僕が行ってくるかな」
「じゃあ、俺も」
「どうぞ、いってらっしゃい」
「無理だわー」
とか、生産性のない会話を繰り返していたのだが、咲太がトイレに行って戻ってくると、ちゃっかり女子がいるテーブルに紛れ込んでいた。アルコールの力は偉大だと思う。スマホを出してIDの交換にまで漕ぎつけているのだから……。
それを美織に話すと、
「梓川君も他のテーブルに入れてもらえばいいのに」
と、運ばれてきたから揚げをもぐもぐしながら言われた。
から揚げなんて高カロリーなものは食べなさそうな外見なのに、美織は実に美味しそうに、幸せそうに咀嚼している。ごくんと飲み込んだかと思うと、もうひとつに箸を伸ばした。皿に元々載っていたのは四つ。四人分の四つだが、このテーブルには咲太と美織のふたりしかいないので、取り分の計算は合う。全体では、何人かが食べられないことになるわけだが……。
そう思ったのもつかの間、美織は三つ目も箸で摑むと、素知らぬ顔で自分の皿にキープした。
「梓川君、今日、なにしに来たの?」
「主に、飯を食いに」
最後のひとつを取られる前に、咲太もから揚げを箸で摘み上げた。
「他のテーブルは人数多くて、取り分が減るし」
本当は、参加するつもりはなかったのだが、拓海が一緒に行こうとしつこく誘ってきたので、顔を出すことにしたのだ。
「みんな、飢えてるんだね」
他人事のような美織の目が、積極的に親睦を深めようとする同級生たちに向けられる。
「美東さんは違うわけ?」
高校までとは違って、大学には何年何組という居場所がない。毎日通う自分の教室もなければ、毎日座る自分の席もない。授業はすべて移動教室。来た順番で好きなところに座っていい。
中でも一番大きな違いは、クラスメイトが存在しないことだろう。
一応、学科が同じであれば、卒業に必要な必修講義は同じなので、他の学部生よりは顔を合わせる機会は多くなる。それでも、一般教養が中心の一年次においては、必修講義は授業全体の半分程度しかない。毎日ずっと同じ教室に通っていた高校生活と比べたら、周囲との強制的な結びつきは一気に緩くなった。
あの頃は、ひとつの教室内で、人間関係は完結していた。ある種、窮屈だった環境から、ようやく解放されたのだ。
自由が増えた。
その反面、今までは与えられていた『クラス』という居場所はなくなった。
だから、こうして同じ講義を選択した学生同士が集まって、コミュニティに参加して、自分の居場所を自発的に作ろうとしている。とりあえず笑って、必死に交流する。あわよくば、彼氏とか、彼女とかもできたらいいなと思って大げさに手を叩くのだ。
「実はわたしも飢えてるんです」
言いながら、美織はキープしていたから揚げを口に入れた。
から揚げを頰張りながら懇親会の様子を気にした美織だったが、言葉とは裏腹に何かを求めているようには見えなかった。盛り上がる彼らを、どこか遠くの世界から眺めるようにしている。あたたかくもなければ、冷たくもない眼差し。
飢えていても、飢えていなくても、美織にとってはどちらでもいいのかもしれない。そもそも、自分の発言自体に、美織はたいした意味を求めていないように思える。半分は適当に言っている感じ。
「じゃあ、時間、あと五分なんで、ぼちぼち適当に。あ、二次会、カラオケ予定してるんで、みんな参加してください」
一番奥のテーブルから、幹事の男子学生が両手をメガホンにして語りかける。半分は聞いていて、半分は聞いていない。
「二次会だって。梓川君、行くの?」
「帰るよ。このあとバイトだし」
「今から? 夜のバイト?」
夜というほど、まだ時間は深くない。時刻は午後六時になったばかり。懇親会のスタートが居酒屋の開店時間である午後四時と、かなり早かったためだ。
「今日は個人指導の塾講師」
「今日は?」
「ファミレスと掛け持ちだから、今日は」
グラスに残っていたウーロン茶を飲み干す。ずずっと空っぽの音が響く。
「生徒は中学生?」
「高校一年」
答えながら咲太は自分のリュックを持って立ち上がった。
「女子高生に色々教えてるんだ。やらしいなぁ」
「教えてるのは数学だし、生徒は男子もいる」
今のところ、咲太が担当しているのは、男子がひとりに、女子がひとりの計ふたり。生徒が講師を指名できるシステムなので、指名を受けない限り生徒は増えない。生徒数と、授業数がバイト代にダイレクトに反映されるため、あとひとりかふたりは受け持ちたいのだが、こればかりは気長に待つしかない。
まだ騒ぎ声が響く座敷を最初に抜け出して靴を履く。隣を見ると、どういうわけか美織もしゃがんでスニーカーの紐を結んでいた。
「二次会、いいのか?」
「カラオケ、苦手で」
困った顔で美織が笑う。今度こそ、本当に困った顔をしているように思えた。でも、思い違いかもしれない。それがわかるほど、まだ咲太は美織のことを知らなかった。
「見つかる前に、帰ろ」
座敷を一度振り返った美織は、「誘われると面倒だから」と少し悪戯っぽく微笑んで、咲太を店から連れ出した。
外に出ると、蒸し暑さが肌にまとわりついてきた。九月も今日で終わるはずだが、最近の夏はなかなか終わってくれない。
今日が金曜なのも手伝ってか、駅の方からは多くの人が繁華街へと流れてきていた。
これから、飲み会があったり、合コンがあったり、デートがあったりするのだろう。



