第一章 思春期は終わらない ③
それとは逆に、咲太と美織は帷子川にかかる橋を渡り、混雑を避けるために川沿いを進んだ。美織は歩くのが遅くて、時折小走りになっていたが、「歩くのが速い」と文句を言い出す様子はない。
咲太は少しペースを落とすと、斜め後ろを歩く美織を肩越しに振り向いた。
「友達、置いてきてよかったのか?」
「真奈美?」
「いや、名前は知らないけど」
「平気。むしろ、あれ以上いたら恨まれる」
咲太の隣に並ぶと、美織はため息交じりに言ってきた。
「なるほど、友達の本命に好かれるとか大変だな」
今の説明で伝わるとは思っていなかったのだろう。たぶん、伝えるつもりがないから、美織は言葉を省いて曖昧に言ったのだ。
「今ので、よくわかるね」
横から見上げてくる美織の瞳は、素直に驚いている。
「似たようなことで困ってた女子高生の知り合いがいるんだよ」
友達の本命に告白されて、心底悩んでいた。
「梓川君って、女子高生の知り合いが多いんですね」
急に敬語に戻って、それとなく美織が咲太から離れていく。
「さっき言った女子高生と同一人物だから」
あと半年すれば、女子大生になるはずの女子高生。
「ま、そういうことにしておくね」
「本当だって」
「梓川君はJR?」
若干の誤解が残ったまま、話題を変えられてしまう。必死に食い下がると、それはそれで誤解を広げそうだったので、ここは引き下がった方がいい。
「東海道線で藤沢まで。美東さんは?」
「わたしは大船まで」
自慢げに言われたのは、たぶん、一駅近いから。横浜駅に近いということは、ここから京急線で行く大学にも近いということになる。
大学があるのは、金沢八景駅だ。
「大船は地元?」
質問しながら、なんとなく違うだろうなと感じていた。美織からは大船っぽい雰囲気が漂ってこない。市立の大学なので、市内、県内の出身者が多いせいか、不思議と他の地域から来た人間は、まとっている空気が違って見えるのだ。
「ううん。大学受かって、一人暮らし」
「だったら、もっと近くに部屋借りればよかったのに」
「鎌倉には近いよ」
咲太は、もちろん、大学の近くに……という意味で言ったのだが、なんだか独特な理由が返ってきた。鎌倉は確かにいいところだけれど。麻衣とデートした思い出も残っている。
「梓川君は、藤沢って地元?」
「もう、半分地元って感じだな」
高校三年間を過ごした場所なので、自分でもよそ者という気はしない。むしろ、昔住んでいた横浜市の郊外の方が、今となっては居心地が悪いと感じるのではないだろうか。中学を卒業して以来、一度も行っていないのだから。
大通りに出ると、すぐに最初の信号に捕まった。
「あ、そうだ」
美織がトートバッグから、小さなプラスチックケースを取り出す。振るとしゃかしゃか音を鳴らしたのは、ミントのタブレットだ。まだたくさん入っているのが音でわかる。
美織は三粒ほど自分の口に放り込み、残りを丸ごと咲太にくれた。
「僕の口って、そんなに臭いのか……」
「から揚げ、にんにく使ってた。このあと塾の先生やるんだよね?」
「お気遣いどうも」
咲太も三粒ほど口に入れた。息が涼しくなる。鼻がすーすーした。
「これのお礼と言ったらなんだけどさ」
「なに?」
美織が横目で聞いてくる。
「男子にこういうことしない方がいいと思うぞ」
「どうして?」
「あんまりモテたくないみたいだから」
「大丈夫。梓川君にしかしないから」
「僕、狙われてるのか?」
「安心してるの。だって、絶対わたしのこと好きにならないでしょ。日本で一番かわいい彼女がいるんだし」
「世界で一番かわいい彼女なら、確かにいるな」
咲太の言葉に、美織は吹き出して笑う。「そう来るかー」と、やけに楽しそうだ。
まだ信号は変わらない。
「……」
「……」
会話が途切れたところで、ふたりの目は同時にあるものに向けられた。信号の反対側。ポケットティッシュを配るスーツ姿の女性がいる。年齢は二十代前半。ジャケットは脱いでいるけれど、長い時間ティッシュ配りをしているのか、シャツには汗が滲んでいる。前髪も、おでこに張り付いていた。今年採用された営業部の新人といったところだろうか。
お願いしますと、ティッシュを熱心に差し出しているが誰も受け取らない。
誰もが素通りしていく。
「ティッシュ配りのバイト、したことある?」
「あれはやったことない」
「誰も受け取らないね」
「そうだな」
「もしかして、あの人……わたしと梓川君にしか見えてないのかも」
美織は普通のトーンで突然そんなことを言ってくる。
「まさか」
「知らない? 思春期症候群って」
「……」
いつ以来だろうか。その言葉を耳にしたのは。だから、一瞬反応できなかった。
「他人から見えなくなったり、未来を先に見たり、ふたりになったり……そういうのが色々あるんだって」
「へえ」
「中学とか、高校で、噂にならなかった?」
信号が青に変わる。
「ま、噂くらいは聞いたかな」
咲太が先に歩き出すと、美織は一歩遅れてついてきた。
「でも、そんなの単なる噂話だろ」
信号を渡ったところで、女性からティッシュを受け取る。
「ありがとうございます」
新築マンションの売り出しを知らせるチラシを一緒に渡される。咲太がマンションを買うようには見えないと思うのだが……。ティッシュ配りに一生懸命になりすぎて、マンションを売るという本来の目的がどこかにいってやしないだろうか。
そんなことを思っていると、咲太とすれ違った男性が女性からティッシュをもらっていた。年齢は五十代くらい。今の人ならターゲットかもしれない。
そのあとも、ティッシュを受け取る人はたくさんいた。
「僕たち以外も、見えてるぞ」
「なーんだ」
退屈そうに美織がもらす。
「そもそも、あのお姉さんは思春期って年でもないだろ」
見た感じで、二十歳は超えている。
「思春期って何歳まで?」
「さあ、それは知らないけど」
個人差もあるだろうし、明確な定義があるわけでもないと思う。二十歳になった瞬間に、人間が大人になるわけでもない。
「じゃあ、梓川君は思春期?」
「そろそろ、卒業してたいな」
「大学生だしね」
「美東さんは?」
「わたしは……まだ思春期だと思う」
「なんで?」
「彼氏、いたことないから」
「なるほどね」
「うわー、彼女がいる人の上から目線、むかつくわー」
美織が棒読みで文句を言う。そのあとで、「これもらうね」と咲太の手からティッシュを奪って、地下に下りていこうとする。
「改札、逆だぞ」
美織が下りようとしている階段の先にあるのは、数多くの店が並ぶ横浜駅の地下街だ。
「買い物してから帰る。またね」
小さく手を振ると、美織は振り向かずに地下街に下りていった。
「なんと言うか……」
美東美織は摑みどころのない人物だった。人懐っこさはあるし、表情も豊かなのだが、ある一定の距離からは近づいてこない。ここで別れたのも、一緒に駅に向かうと電車が途中まで一緒になってしまうからではないだろうか。考えすぎかもしれないが、そういう雰囲気を持った人物ではあった。
使い道のあるティッシュを奪われ、使い道のないマンションのチラシだけを背中のリュックにしまうと、咲太は駅の中に入った。
そして、JRの改札口を抜けたところで、
「そういや、思春期症候群って久々に聞いたな」
ふとそんなことを思った。



