第一章 思春期は終わらない ④


 横浜駅から乗った東海道線の電車は、帰宅する社会人と学生でそこそこ混雑していた。金曜日で寄り道をする人が多いせいか、この時間にしてはまだ空いている方だ。

 咲太は、車両連結部の扉に寄り掛かるようにして居場所を確保すると、個別指導の塾で使うテキストをリュックから取り出した。二五ページ、二次関数の例題に目を通す。生徒に教えるための予習だ。

 その間、順調に走り出した電車は、横浜駅周辺の商業地域を抜けて、景色は住宅街に変わっていく。次の駅が近づくと、また背の高い建物が増える。離れると、穏やかな街並みが続いた。その繰り返し。

 大学に通いはじめた当初は、海と空と水平線を懐かしく思ったが、半年も経つと電車内での過ごし方にも慣れた。だいたいが今日のように、塾の授業の予習に当てている。

 ただ、どうも今日は集中できない。

 理由は自覚していた。

 先ほどまで参加していた懇親会で出会った美東美織の言葉が原因だ。

 ──知らない? 思春期症候群って

 その言葉を誰かの口から聞いたのは、いつ以来だろうか。

 少なくとも、大学に入学してからの半年間は耳にしていない。その前の……高校三年の時は、受験勉強に明け暮れていたので、やはり、耳にすることはなかった。

 だから、短く見積もっても、一年半はご無沙汰していたことになる。

 他人から認識されなくなる。

 未来予想を体験する。

 ひとりがふたりに分裂する。

 姿が誰かと入れ替わる。

 心の痛みが肉体に傷となって現れる。

 未来にたどり着く。

 可能性の世界に逃げ込む。

 そうした思春期症候群に、これまで咲太は触れてきた。

 けれど、この一年半は何も起きなかった。

 それは歓迎すべきことなので、何も起きないことを気にして、その日数を数えるなんて真似を咲太はしなかったのだ。

 気がつけば、いつの間にか、一年半の時間が流れていた。


 咲太を乗せた東海道線の電車は、途中、戸塚、大船に停車したあと、定刻通りに藤沢駅に到着した。

 改札に向かう人の列に並んで、駅の北口に出る。家電量販店の手前を左に折れると、咲太が講師のバイトをする塾の看板が見えた。テナントビルの五階。

 エレベーターで上がり、夜なのに「おはようございます」と、咲太は職員室に声をかけた。

 学校の職員室と違って、ドアや壁はない。奥まで丸見えだ。

 テーブルがいくつか並んだ生徒たちのフリースペースと職員室を隔てるのは、腰くらいの高さのカウンターだけ。生徒が講師と話しやすいように設計されている。

 実際、今もひとりの生徒がカウンター越しに、講師に英作文の質問をしていた。


「おはよう、梓川君。今日もよろしく」


 咲太にそう声をかけてきたのは、四十代半ばの塾長だ。何か問題でも起きたのか、困った顔で電話を気にしていた。

 特に興味もないので、咲太は軽く会釈だけして、ロッカールームに入った。


『梓川』の名札が付いたロッカーを開ける。白衣とジャケットを足して二で割ったようなデザインの服を出して、着ている服の上から羽織った。これが塾講師の制服なのだ。

 リュックから授業で使うテキストを出すと、一応、ミントのタブレットを大量に口に入れてロッカールームを出た。

 教室が並んだ奥のフロアに向かう。

 ただ、教室と言っても、パーティションで仕切られただけの三畳ぐらいの勉強スペースだ。入口にドアもなければ、壁も天井まで繫がっていない。耳をすませば、隣の話し声は少し聞こえる。

 その空間で待っていたのは、男子生徒がひとりに、女子生徒がひとり。真ん中の通路を挟んで、横並びに座っている。大人しく待っていた女子生徒とは対照的に、男子生徒はスマホゲームに夢中だ。わざわざイヤホンをしているので、リズムゲームの類だろうか。


「じゃあ、はじめようか」

「はい」


 返事をしたのは女子生徒の方だけ。テキストも今日使う二五ページを開いている。

 名前は吉和樹里。

 健康的に日焼けした小麦色の肌とは対照的に、クールで物静かな女子生徒だ。クラブチームで続けているビーチバレーと学業の両立のため、塾に通うことになったらしい。咲太にとっては馴染み深い峰ヶ原高校の制服を着ている。クラブチームでビーチバレーをするには恐らく小柄な方で、160センチくらい。

 咲太が会ったことのあるジュニア選抜選手は、麻衣と同じかそれ以上はあった。まだ高校一年生とは言え、女子の場合、もうそれほど背は伸びないだろう。

 男子生徒の方は、「うーす」と薄い返事はしても、スマホから顔を上げる気配はなかった。ゲームに夢中だ。

 彼の名前は、山田健人。

 樹里と同じく、こちらも峰ヶ原高校に通う一年生。ただ、クラスは別々のため、学校では殆ど接点がないらしい。

 健人の場合は、一学期の成績が悪すぎて、基礎学力向上のため、夏期講習からここに通っている……というか、両親に無理やり通わされることになったのだと、最初の授業の際に愚痴られた。

 身長は165センチ。それより大きく見えるのは、つんつんした頭髪のせいだ。部活をやっているとは聞いていないが、体つきからして、中学までは何かしていたのかもしれない。


「山田君、はじめますよ」


 時計は授業開始の午後七時になった。


「待って、あと二秒」

「いーち、にーい、今日は二五ページ、二次関数のおさらいからします」

「あー、もー、咲太先生のせいで、初フルコン逃したじゃーん」


 文句を続ける健人は無視して、二次関数の応用問題を解説していく。これは、夏休み明けの実力試験で、健人と樹里が解けなかった問題だ。例題を軸に、一通り解き方をホワイトボードに実践する。それが終わったら、例題と同じパターンで答えを導き出せる練習問題を、ふたりに解いてもらう。わからない部分に関しては、個々に対応していく。

 樹里は言われた通り、ノートに問題を解きはじめた。

 健人は眉間にしわを寄せて考え込んでいる。でも、すぐに諦めて、


「咲太先生ー」


 と、力なく机に突っ伏して助けを求めてくる。


「なんだ?」

「わかりません」

「どこがわからない?」

「どうすれば、かわいい彼女ができるかわかりません」


 何を言うかと思えば、そんなことだった。


「授業中は問題解こうな」

「世界一かわいい彼女がいるんだから、教えてよー」

「宇宙で一番かわいい彼女なら確かにいるけど、教えません」


 健人がこんなことを言い出すのは、今にはじまったことでもない。


「俺、咲太先生なら、彼女ゲットの必勝法を教えてくれると思ったから、指名したのに。あーあ、双葉先生にすればよかったな。おっぱいでかいし」


 健人が口にした「双葉先生」とは、咲太の高校時代からの友人である双葉理央のことだ。今は、理系の国立大学に通っていて、この個別指導塾では咲太よりも一ヵ月早く講師のアルバイトをはじめている。


「今の発言は、女子に嫌われるから気をつけた方がいいぞ」


 ちらっと樹里を気にしたが、彼女は黙々と問題を解いていた。


「思うだけにしろってこと?」

「思想の自由は守られてるって、社会科の授業で勉強したろ?」

「むっつりは自由なんだ」


 どう解釈したらそうなるのだろうか。あながち間違っていないのかもしれないが。


「彼女がほしいのはわかるが、そもそも、山田君は好きな人がいるんですか?」


 授業が進みそうにないので、仕方なく話に付き合う。


「かわいい女子はみんな好きです」


 清々しいほど馬鹿らしい答えが返ってきた。


「人間、中身も重要だと思うぞ。ま、僕が言っても説得力ないけどな」

「おっぱいは大きい方がいいです」

「僕が言った中身っていうのは、性格の話だからな」


 誰も服の中身の話はしてない。

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