第一章 思春期は終わらない ⑤
「梓川先生」
ようやく、樹里が少し咎めるように声を発した。樹里の手元を見ると、先ほどの一問を解いただけで手が止まっている。隣でこんな話をされたら、気が散るのも当然だ。
「さ、授業に戻るぞ」
「彼女の作り方を教えてください」
「数学以外は却下です」
「なんでぇ?」
「僕の時給に含まれてないから」
「彼女ができないと、勉強する気もおきないって」
「山田君は、どうしてそんなに彼女がほしいんですか?」
「だって、彼女がいたらエッチし放題でしょ?」
「……」
そんなことだろうとは思っていたが、いざ耳にすると言葉を失ってしまう。
「……え? 違うの?」
「そんな風に思っているうちは、彼女できないだろうな」
たとえ生徒であっても、憐れみの目で見てしまう。健人は気づいていないが、隣では樹里が嫌悪感をむき出しにした冷たい眼差しをしていた。
すると、そこにコンコンとノックの音が響いた。ドアはないので、パーティションの壁を叩く軽い音だ。
「梓川先生」
呼ばれて振り返ると、高校時代からの友人である双葉理央が入口にいた。咲太と同じ塾講師の制服を着ている。
「ちょっと、よろしいですか?」
態度はよそよそしくて、表情は明らかに不機嫌だ。
「なんだ?」
「いいから、来て」
教室を出るように、視線で命令される。
「問題解いててな」
健人と樹里にそう言い残して、咲太は一旦教室を離れた。
フリースペースの近くまで理央に連れていかれると、立ち止まるなり「はぁ」と大きなため息を吐かれた。
「授業中は授業に集中して。私の生徒から隣がうるさいって苦情が出てる」
理央が目を向けたのは、先ほどまで咲太がいた教室の横。隣で理央は物理を教えていたのだ。
「僕は真面目にやってるぞ」
「そうとは思えない単語が聞こえてきたけど?」
恐らくは、おっぱいとエッチだろう。
「言ったのは僕じゃない」
ここで、理央の窮屈そうな胸元を見ようものなら、何を言われるかわからないので、露骨に視線を逸らしておく。
「はぁ」
再び、理央が大きなため息をもらす。
「梓川もクビにならないように、気を付けなよ」
「も?」
まるで誰かがクビになったかのような言いようだ。
「あれ」
理央が視線で示したのは職員室前のフリースペースだ。塾長に対して、若い社員の男性講師が何か訴えかけている。
「違います。本当に!」
「落ち着いて。話は別室で聞きますから」
「誤解ですって! なあ、そうだろう?」
若い講師がやさしく語りかけたのは、三メートルほど離れた位置に立つ女子生徒だ。彼女もまた峰ヶ原高校の制服を着ている。女性の講師に付き添われ、横顔に罪悪感を貼り付けて俯いていた。
「ごめんなさい。私、先生のこと、そういうつもりじゃありませんでした」
そういうつもりとはどういうつもりだろうか。わざわざ聞かなくても、その場のギクシャクした空気が、ふたりの関係を如実に語っている。
講師と生徒の恋愛事情のもつれ。先ほどの言葉を信じるなら、女子生徒はそういうつもりではなかったようだが……。
男性講師の方が一方的に勘違いして、手を出そうとした……そんなところだろうか。
「いつも頼りになるって! 勉強以外の相談もしたいって……だから!」
今日、ここに来る前に「女子高生に色々教えてるんだ。やらしいなぁ」と、美織にからかわれたばかりだが、実際にこういう場面に遭遇するとは思わなかった。
「ごめんなさい」
すがるような男性講師を、女子生徒は心苦しそうに切り捨てる。
「そんな……」
女子生徒の拒絶に、男性講師はうな垂れるしかなかった。
「じゃあ、先生、こちらに。詳しく話を」
「……はい」
塾長に背中を押された男性講師は、まるで逮捕された犯人のようだ。ただ、こんなことになった後悔よりも、単に失恋した男性の背中に見えた。
その姿が塾長室に消える。
「あの、先生はどうなるんですか?」
女子生徒は心配するように、女性講師に尋ねている。
「あなたは気にしなくていいから」
何かしらの処罰が出る言い方だ。それは仕方がない。状況が状況だ。
「でも、処分は軽くしてください。私は、ほんと大丈夫なので」
「ええ、塾長には伝えておくから。さあ、今日はもう帰りなさい」
「……はい」
返事をするけれど、まだ男性講師の処遇が気になるのか、女子生徒はその場から動かない。健気に塾長室のドアを見ている。顔を上げると、彼女は人当たりのいい優等生という感じがした。髪型も清楚に整っているし、制服も着崩していない。薄らとだけしたナチュラルメイク。高校生の頃の咲太だったら、ノーメイクと見分けがつかなかっただろう。
「梓川も、あんな風にならないようにね」
「僕が教え子に手を出すように見えるか?」
「見えないけど」
「だろ?」
「でも、出される可能性はあるんじゃない?」
「僕って意外とモテるからな」
「そう。だから忠告してるの」
「……なあ、双葉」
「なに?」
「今のは否定してくれないと。冗談なんだから」
「梓川が意外とモテるのは、事実でしょ」
理央の淡々とした口調で言われると、何も言い返せない。
「だとしても、僕には宇宙で一番かわいい彼女がいるから大丈夫だ」
「その桜島先輩とは、この一ヵ月会ってないって言ってなかった?」
今、麻衣は映画の撮影で北海道に行っている。八月、九月の殆どが大学の夏季休暇に当たるため、それを利用して主演映画を二本撮っているのだ。
一本は八月中に終わり、新潟県のお土産として笹団子を買ってきてくれた。二本目は、週明けまでかかると、昨晩の電話で聞かされている。
「その分、ご褒美をたくさんもらうから安心してくれ」
「じゃあ、私は授業に戻るから」
「もっと、僕ののろけ話を聞いてくれないか?」
「とにかく、私語には気をつけてね」
一方的にそれだけ言って、理央は自分の授業に戻っていった。それと入れ替わりで、隣の勉強スペースから健人が顔を出す。
「咲太先生、まだかよ」
「山田君のせいで、僕が怒られたんだよ」
「はぁ?」
本当にわかっていないという顔をしている。しかも、その目は何かに気づいて、咲太の後方に流れた。
「……」
健人が無言で視線を送っていたのは、先ほどの女子生徒だ。まだフリースペースに残っている。
「知り合いか?」
適当にそう尋ねると、
「同じクラスの姫路紗良です」
と、健人から彼女のフルネームが返ってきた。
「ふーん」
わざわざ下の名前まで覚えているとは珍しい。
「なんすか?」
「ああいう感じがタイプなんだな」
「っ!?」
今度も半分は適当だったが、健人は露骨に表情を強張らせた。
「違うし!」
むきになって否定してくる。
「なるほどなー」
「ほら、咲太先生、授業!」
「山田君がやる気になってくれて、僕はうれしいよ」
これから、授業が脱線することがあれば、このネタは使えそうだ。
おかげで、その後の授業はとても順調に進んだ。理央に怒られることもなかった。
3
授業を一コマ終えた咲太が塾を出たのは、午後九時頃。授業自体は八十分だったが、そのあと生徒の理解度などを書き込む日報をつけて、理央を待っていたらそんな時間になっていた。
塾を出て、理央と並んで駅の方へと歩いていく。
「そうだ」
思い出したように理央が呟く。
「ん?」
「さっき、国見からメールが入ってた」
「なんて?」
「消防士の訓練、無事終了したっていう報告」
「そういや、今日までか」
国見佑真は高校の卒業に合わせて地方公務員の採用試験を受けたのだ。



