第一章 思春期は終わらない ⑥
志望は消防士。
その試験には無事合格したのだが、昨日までただの高校生だった素人が、即座に人の命を預かる消防署に配属されるわけもない。
まずは専用施設で、泊まり込みの訓練が半年続くのだと、合格の報告と一緒に聞かされた。
四月からの半年間。
今日が丁度半年後となる九月の最終日だ。
「配属先も決まったから安心してくれって書いてあった」
「国見のことなんて、誰が心配するか」
どうせ、佑真はなんとかしてしまう。
咲太の返事に、理央が少し笑う。同感と言いたいのだろう。
「週明けから、早速消防署で勤務がはじまるから、落ち着いたところで、お茶でもしようってさ」
「国見の給料でおごってもらうか」
「梓川はそう言うと思ったから、そう返事しといたよ」
そんな話をしているうちに、藤沢駅にたどり着く。
ここから小田急江ノ島線で一駅の本鵠沼に住んでいる理央とは、「じゃあ」、「また」と、短い言葉を交わして別れた。
夜になって少しは秋らしい空気になってきた。涼しさを感じながら、咲太は駅からの帰り道をひとり歩いていく。
境川にかかる橋をひとつ渡り、長く緩やかに続く坂道を上る。小さな公園の脇を通ってしばらく行くと、高校入学のタイミングで引っ越してきたマンションが見えてきた。
エントランスのポストが空っぽであることを確かめてから、一階に止まっていたエレベーターに乗り込む。押したのは五階のボタン。
大学入学を機に、一度は引っ越しも考えた。自分のバイト代で家賃を払えるくらいの広さの部屋に。
結果として、引っ越しをしなかったのには、そうしなかった理由がある。
五階に着くと、咲太はエレベーターを降りた。左手の隅っこ。そこが咲太の住んでいる部屋だ。
鍵を開ける。
「なすの、ただいまー」
飼い猫に帰宅を告げながら玄関に入る。
その時点で、咲太は違和感を覚えた。
出かけたときにはなかった靴がある。それも二足。
「あ、咲太、おかえり」
スリッパをぱたぱたと鳴らして出てきたのは麻衣だ。
「ただいま。麻衣さんもおかえり」
「ただいま」
「撮影、もう何日かかかるんじゃなかったの?」
「残りはスタジオ撮影だけになったから、帰ってきてあげたのよ」
こうやって、麻衣の笑顔を目の当たりにするのは、実に一ヵ月ぶりだ。
「……」
「なによ、人の顔じっと見て」
「僕の麻衣さんが、ますます綺麗になったと思って」
「うれしいでしょ?」
咲太を置いて、麻衣はリビングに戻っていく。その背中に、咲太もくっついていった。
「あ、お兄ちゃん、おかえり」
そう声をかけてきたのは、リビングのソファに寝転がっていた花楓だ。なすのを抱き上げ、じゃれ合いながらTVを見ている。流れているのはクイズ番組だ。
放送時間からずれているので、録画したものを再生しているのだろう。知った顔が映っている。のどかと卯月だ。卯月の天然発言に、司会者と出演者が腹を抱えて笑っている。
「花楓、来てたのか」
玄関に靴があるので、わかってはいた。
花楓は今、咲太がいる藤沢市と、両親が暮らす横浜市を行ったり来たりの生活をしている。半分がこっちで、半分が向こうという感じ。高校生の立場でそんな生活が可能になるのは、通っているのが通信制高校だから。スマホひとつあれば、授業はどこででも受けられる。
「『明日、バイトだから行くね』って電話したじゃん」
花楓が見ているのは、家の電話だ。留守電のランプが確かに点滅している。
バイトをはじめたのは今年の春から。咲太が働くファミレス。そうした花楓の希望もあって、部屋の引っ越しは中止になった。その代わり、ここの家賃は花楓も少しだけバイト代から出してくれている。
「お兄ちゃん、いい加減スマホ買おうよ」
「花楓の口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかったよ」
スマホがほしいと言われたときも、十分驚きはしたが……。中学時代に、花楓はスマホを使った友人関係で酷く傷ついたから。
「麻衣さんだって、お兄ちゃんがスマホ持ってた方がいいでしょ?」
「そうだけど、私は慣れちゃったかも」
「麻衣さんのやさしさに甘えてたら、ダメだからね」
麻衣を味方につけるのに失敗した花楓は、矛先を再び咲太に向けてくる。
「バイト代に余裕が出たら考えるよ」
「そればっか。ま、いいけど」
ひとりで納得して、ソファから起き上がる。抱っこしていたなすのを床に下ろした。
「お兄ちゃん、まだお風呂入らないでしょ? 私、先に入るね」
録画の再生を止めて、風呂場の方へ向かう。
「なんだ、まだ入ってなかったのか?」
「帰ってくるの、待っててあげたんじゃん」
「そりゃ、どうも」
ばたんと洗面所のドアが閉まる。
一応、麻衣が来ているので、気を遣ってくれているらしい。ふたりで話ができるように。そういうところは、高校生らしくなったというか、ませてきた気がする。
「咲太、夕飯は?」
「懇親会で食べてからバイト行ったんで平気です」
「咲太好みのかわいい女の子はいた?」
基礎ゼミの懇親会に参加することは、昨日の夜に電話で話してある。特に反対されることはなく、むしろ、色々な人と関わることに対して、麻衣からは前向きな言葉をもらっている。ただし、「浮気したら許さないから」と、最後に釘を刺されはしたが……。
「いませんでした」
「残念だったわね」
「あ、でも……」
「なによ、本当はいたの?」
「いました」
「ふーん」
「スマホを持ってない女子大生が」
「……その子、咲太にしか見えないとかいうオチじゃないわよね?」
麻衣がそんな風に言いたくなる気持ちはわからないでもない。それくらい珍しいことなのだ。スマホを持ってない大学生に出会うというのは……。少なくとも、咲太は大学に入ってからはじめて見た。自分以外では……。
「なんか、不安になってきたので、週明け大学で確認してみます」
「そう。じゃあ、私、帰るわね」
ソファの横に置いてあった鞄を麻衣が持ち上げる。
「え、もう?」
「明日も、朝早いのよ。水曜日には大学行くから」
言いながら、麻衣はすたすたと玄関に移動してしまう。
「下まで送ります」
咲太が見送りに行くと、麻衣は咲太の腕を摑んでくる。
「写真撮られると困るし、ここでいい。最近、事務所も厳しいし」
そう言いながら、麻衣は咲太を支えにして、足首に固定するストラップがついたパンプスを片方ずつ履いた。
「冷蔵庫にお土産入れといた。花楓ちゃんと食べて」
「花楓に取られる前に食べます」
咲太の返事に少し笑うと、麻衣は頰に両手を伸ばして挟んでくる。
「なんですか?」
タコの口で聞くと、
「なんでもない」
と、おかしそうに麻衣は笑った。
たぶん、久しぶりに会えて、少し舞い上がっているのだ。
だから、急に悪戯したくなった。
ただ、それだけ。
麻衣が楽しそうなら、それでいい。
たいした理由なんてなくても、そこに麻衣の笑顔があれば十分だ。
咲太の頰から両手を離すと、麻衣は「じゃあね」と小さく手を振って帰っていく。
楽しげな麻衣の余韻に浸りながら、咲太は少し待って静かに鍵をかけた。
4
週が明けた月曜日。
十月三日は、朝からしとしとと雨が降っていた。
この日の授業は、午前十時三十分開始の二限から。ゆっくり起きた咲太は、ゆっくり出かける準備をして、九時十五分くらいに「お兄ちゃん、いってらっしゃい」と花楓に見送られて家を出た。
気温は少し秋に近づいたが、じめっとした空気はまだ夏の色が濃い。Tシャツに、足首だけちらっと出る九分丈のイージーパンツで丁度いい。



