第一章 思春期は終わらない ⑦

 今年も夏がなかなか終わらない。終わったと思ったら、今度はいきなり冬がやってくるのだろう。年々、秋が短くなっている気がするのは、気のせいだろうか。

 そんなことを考えているうちに、藤沢駅に到着する。まだ通勤通学の気配がわずかに残る時間。制服姿の中高生は見当たらないけれど、学生とサラリーマンはまだ多い。

 駅の二階にあるJRの改札口を通って、東海道線のホームに下りた。少し待つと三十二分発の小金井行きの電車がホームに入ってくる。

 いつも通りの電車、いつも通りの車両に揺られること約二十分。

 横浜駅で電車を降りた咲太は、赤い車体がシンボルの京急線に乗り換える。犬のような形をした神奈川県の前足の先端……三崎口まで行く特急電車だ。特急と言っても、別に特別料金は必要ない。普通の切符で乗れる電車。

 混雑を避けて少し前寄りに乗る。

 電車が走り出すと、ドアの脇に立って外の景色に目を向けた。入学当初は、外を見てもどの辺を走っているのか見当もつかなかったが、半年も通っていると、だいたいの位置はわかるようになる。なんの建物や施設なのかの知識も、自然と身についてきた。

 しばらく走って見えてきたのは、県内屈指の高校野球の強豪校だ。これが見えてきたら、大学の最寄り駅までもう近い。

 到着するまでの暇つぶしに、咲太は車内の広告に目を向けた。麻衣が表紙を飾るファッション雑誌の広告が下がっている。大学生らしき女子ふたりが、「あの服かわいい」、「あれは桜島麻衣だからかわいいんだって」、「言えてる……」とか話していた。


「実物、もっとかわいいしね」

「ほんと、世の中不公平」


 ふたりとも麻衣を生で見たことがあるらしい。この時間にこの電車に乗っているということは、咲太と同じ大学の学生なのだろう。ということは、咲太のことを知っている可能性も高い。

 あんまり見て、気づかれるのも厄介なので、咲太は視線を逸らしておいた。その逸らした先で、咲太は知っている人物を見つけた。

 ひとつ先の向かいのドア……その前に立っていたのは赤城郁実だ。片方の肩を軽くドアに預け、でも、背筋はぴんと伸びている。両手で持った分厚い本の表紙には、アルファベットしか書かれていない。恐らく、本文も英語オンリーの洋書だ。真剣な瞳で本に集中していた。

 咲太の中学時代のクラスメイト。

 大学の入学で三年ぶりに再会した。

 だけど、あの日以来交わした言葉はない。

 ──梓川君、だよね?

 ──赤城、だよな?

 ──うん、久しぶり

 そのやり取りが最後。あのときは、すぐにのどかがやってきて、郁実は「じゃあ」とその場を立ち去ったのだ。そして、それっきりで、話しかけてくることはなかった。咲太もキャンパス内で見かけることがあっても、わざわざ声をかけようとは思わなかった。

 中学時代も特に親しかったわけではない。三十数人いたクラスメイトのひとり。卒業後も、名前を覚えていられたかどうかも怪しい距離にいた相手。

 高校三年間の空白を経て再会したところで、何か特別な感情が芽生えるわけではなかったし、その瞬間から、何かがはじまるわけでもなかった。

 それは、郁実も同じだったのではないだろうか。入学式のときは、知っている顔がいて、思わず話しかけてしまった。ただ、それだけ。

 この半年の間に、郁実に関して進展したことがあるとすれば、郁実が在籍しているのが、看護学科だとわかったことくらい。

 咲太が通う大学には医学部があり、その中に看護師を目指す看護学科がある。医学部には専用のキャンパスがあるのだが、一年次だけは一般教養が中心なので、金沢八景のキャンパスに他学部も集まっている。郁実もそのひとり。

 実際、先週の基礎ゼミの懇親会には、看護学科の男子がふたりと、医学部の女子がひとり来ていた。

 咲太の視線に気づいたのか、郁実の頭が咲太の方へと傾く。以前はかけていたと思う眼鏡がない。それでも、郁実の目は、しっかりと咲太を捉えていた。瞬きを二回。本を読んでいたときと同じ表情。三度目の瞬きのあとで、郁実は元の姿勢に戻った。片方の肩をドアに預けて、いつのまにか雨の上がった外を一瞬だけ見ていた。

 今日も、赤城郁実とは何もないまま、電車は大学がある金沢八景駅に到着した。


 ホームに降りた咲太は、階段を上がって改札口を出た。改修工事を終えてまだ日の浅い金沢八景駅の入口付近は、近代的な真新しさがある。

 以前は、少し離れたところにあったシーサイドラインの駅も移設されて、乗り継ぎがスムーズにできるようになった。

 大学に向かうには、駅の西側に続く通路と階段を使えばいい。広く歩きやすい立体歩道が整備されている。

 階段を下りたあとは、線路沿いに三分も歩けば、大学にたどり着く。今日は、その道を学生がまばらに歩いていた。学生の数の話だけすれば、高校の五倍はいるはずなのだが、授業の開始時間は個々に違うので、高校時代の朝の駅と比べると、だいぶ雰囲気は落ち着いている。

 今は二限から授業がある学生がやってくる時間。

 その中に咲太も混ざって、正門を抜ける。すると、真っ直ぐに伸びた銀杏の並木道が咲太を出迎えた。敷地の真ん中を一直線に貫いている。

 試験を受けに来たときから、この並木道を「大学っぽいな」と、咲太は思っていた。映画やドラマに登場する大学の景色に近いものを感じたのだ。

 入ってすぐの左手には、入学式でも使った総合体育館がある。その先には、グラウンドがあって、今は五、六人の学生が外側をランニングしていた。授業がないサッカー部の自主練だろうか。高校までと比べると、部活の活動時間も自由になったように思う。

 そのグラウンドと並木道を挟んだ反対側にある三階建ての建物が、主に大学の授業で使われる本校舎だ。一見すると四角いだけの建物だが、実際にはロの字型をしていて、広い中庭がある。今日、二限の授業があるのもここだ。

 大学の敷地のほぼ中央……大学のシンボルのように立つ時計台の手前で、咲太は右に進路を取った。

 すると、後ろから走ってくる足音に気づく。ばたばたした音に追いつかれて、咲太は背中を軽く叩かれた。


「梓川、うす」

「福山、おす」


 横に並んだのは、福山拓海だ。咲太が大学に入学してから、はじめてちゃんと話した相手。「桜島麻衣と付き合ってるって、まじ?」と、最初に聞いてきた人物でもある。以来、選択した授業も同じものが多くて、自然と大学内では一緒に過ごすようになった。


「金曜、あのあとどうでしたか?」


 興味津々という感じで拓海が顔を近づけてくる。


「どうって?」


 なんのことだかさっぱりわからない。


「男子諸君から恨まれてたよ。美東さん、お持ち帰りしたからさ」

「してないな」

「ふたりで消えたのに?」

「懇親会が終わったから帰ったんだよ。僕はバイトだったし、駅前で別れた」

「それはそれでつまんないなぁ。なんかあってもむかつくけどさ」


 一体、どうしてほしいのだろうか。

 拓海に好き勝手言われながら本校舎に入る。目指すは三階。階段を一段ずつ上がっていく。

 その間も、拓海の話は続いていて、二次会のカラオケでは何を歌ったとか、誰が上手かったとか、霧島透子の曲は人気だったとか、咲太に教えてくれた。


「霧島透子ってまだ流行ってんのか」


 聞いたことのある名前に、そう質問を返す。ネットを中心に活動をはじめて、十代から二十代前半の世代に絶大な支持を受けているらしい歌い手。顔出しは一切していないため、その正体についても、憶測が憶測を呼んでいた。わかっているのは女性で、まだ十代後半から二十代前半くらいだろうということだけ。


「まだつーか、まさに今って感じっつーか、これからじゃないか?」

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