第一章 思春期は終わらない ⑧
今なのか、これからなのかはよくわからないが、人気は健在のようだ。ネットシンガーの曲がカラオケに入っているのも、咲太は知らなかった。
「ほら、これも」
拓海が横からスマホを差し出してくる。
画面に映し出されたのは芝の上に立つ裸足の足元。華奢な感じからして女性だろう。そう思った瞬間、アカペラによる綺麗で力強い歌声が流れ出した。
カメラのカットは変わり、今度は彼女の背中を映す。風景も見えて、スタジアムの中央に立っているのだとわかった。観客は誰もいない。形に見覚えがあるので、たぶん、横浜国際競技場だ。
今度は真横から口元が抜き取られる。サビの部分を歌い上げていく。
どれも極端に寄ったアングルばかりで、女性の全体像を捉えることができない。顔も、見えたのは唇から下だけ。誰かに似ているような気がしたが、答えが見つかる前に歌は終わった。
最後に、女性の耳元が映り、最新型のワイヤレスイヤホンのCMなのだとわかる。
「これ、霧島透子の曲」
短く拓海が教えてくれる。
「じゃあ、今のが霧島透子なのか」
「それが違うんだよなぁ」
「は?」
「今のは、歌が上手い謎のCM美女なんだと」
どうして顔が見えないのに美女だとわかるのだろうか。確かに、美人だと思わせる雰囲気はあったが……。
「カバーっていうの? そういうやつ」
「じゃあ、今のCM美女は何者なんだ?」
ずっと顔が見えないままだったので、ちょっと気になってしまう。
「だから、謎のって言ったろ」
「正体不明ってことか」
「そう」
なんともややこしい。霧島透子も謎のネットシンガー。それをカバーするCM美女も正体不明ときている。
「あ、でも、桜島麻衣じゃないかって噂が流れてたな」
「麻衣さんだったら、顔を出した方がCMになるだろ……」
子役時代からの活躍に加え、朝ドラのヒロインに返り咲いたこともあり、幅広い年齢層に認知されている。それに、今のが麻衣だとしたら、咲太だったら見ればすぐにわかる。足元や、後ろ姿、口元しか見えていなかったとしても。
「そっちじゃなくて。霧島透子の正体が、桜島麻衣じゃないかって噂」
それは、咲太の知らない話だ。
「今もその説を押す連中って結構いるみたいね」
スマホを見ながら、拓海がそう教えてくれる。どうやら、今、調べ直したらしい。
「足元、気をつけろよ」
歩きスマホで階段から転げ落ちられては寝覚めが悪い。
「俺、口説かれてる?」
その冗談は聞かなかったことにした。
「ちなみに、どうなのよ? 霧島透子は桜島麻衣説って」
「んなわけないだろ」
少なくとも、咲太は麻衣から何も聞かされていない。だいたい、霧島透子のことを教えてくれたのは麻衣だ。なんでも、事務所の後輩から、最近流行っていると言われたとかなんとかで、麻衣も試しに聞いているときだった。
「声、ちょっと似てる気するけどね」
そこで、301教室の前に着く。今日はここで第二外国語の授業がある。咲太が選択したのはスペイン語。
「んじゃ」
「おう」
漢字ならある程度意味がわかるはず……という理由で、中国語を選択した拓海とは廊下で別れ、咲太はひとりで教室の中に入った。
教室に入ると、大きな笑い声が最初に聞こえた。入口付近に固まって席を取った女子の五人組。みんな、黄色から薄いカーキくらいの丈の長いスカートで、上も似たようなデザインのTシャツ姿だ。靴はスニーカー。アイドルグループの衣装だと言われても、納得できそうな統一感がある。
服装に関しては、人のことを言える立場でもないが……。さっきまで一緒だった拓海も、Tシャツにイージーパンツ、黒のリュックという格好で、完全にユニット状態だったから。ちなみに、咲太のリュックは、大学の合格祝いとして、麻衣がプレゼントしてくれたものだ。
おしゃべりで盛り上がる女子グループの脇を通り抜けて、咲太は廊下側の真ん中あたりに座った。三人掛けの机が三列並んだ教室。高校の教室と比べると、幅はほぼ同じで、縦に少し長い。だから、感覚的には、広いというより、長いという印象が強い。
鞄からスペイン語の教科書と、今日、塾のバイトで使う数学のテキストを出す。開いたのは数学の方。
夜の授業に備えて、練習問題を一度自分で解いておく。
ノートに計算式を走らせていると、
「ここ、いいですか?」
と、横から声をかけられた。
顔を上げると、見覚えのある顔が見える。
先週の金曜日、基礎ゼミの懇親会で出会った美東美織だ。今日も、ハーフアップの緩いお団子が目を引く。
「あまりよくないです」
教室に来る前に、お持ち帰り疑惑を投げかけられたばかり。男子諸君に恨まれているらしい。これ以上、余計な言いがかりをつけられてはたまったものではない。
「まあ、座りますけど」
そう言ったときには、美織は長いスカートを押さえながら座っていた。
「席、他にも空いてますよ」
「見たとこ、梓川君しか知り合いがいないので」
「友達と一緒の科目を選べばよかったのに」
第二外国語は、スペイン語、中国語の他に、ドイツ語、フランス語、イタリア語と色々ある。友達がいないことは、先週行われた初回授業時のガイダンスでわかっていたはずだ。
「はぁ……」
咲太の言葉に、美織はわざとらしくため息を吐く。
「……」
とりあえず、聞かなかったことにして、ノートに計算を続けた。
「はぁ……」
すると、もう一度大きなため息が聞こえてきた。
「ごめん。わたし、ウザいね」
「謝るほどじゃないから、気にするな」
方程式を解き進めていく。
「それって、つまり、ウザいってことでしょ?」
「なんか、嫌なことでもありましたか?」
投げやりにそう尋ねる。
「聞いてくれるの?」
「聞いてほしいんだろ?」
「夏休みの間ね、真奈美たち海に行ったんだって」
「それで?」
「わたし、誘われてない」
口を尖らせた美織は、いかにも不満ありって表情だ。人差し指にぶら下げたご当地キャラクターのキーホルダーを恨めしそうに見ている。そのキャラクターと目が合う。海に行った友達のお土産なのだろう。
「さんぽちゃんを選ぶとは、その友達はお目が高いな」
「知ってるの?」
「藤沢に三年も住んでればな」
正しくは、江ノ島さんぽちゃん。藤沢市の魅力を伝えるために活動する公式に非公式を謳うご当地キャラクターだ。
「てか、海に誘われなかったのは、スマホを持っていないからだと思いますよ」
咲太が正論を言うと、美織は横目でじろっと睨んでくる。
「『海でイケメンにナンパされたの!』って、自慢話でも聞かされたのか?」
「何も言ってこなかったから、それはなかったんだと思う」
お澄まし顔に戻った美織は、指から下げていたキーホルダーをペンケースのファスナーに付けていた。
「『わたしを連れていけば、ナンパされたのに』って顔になってますよ」
「そんな顔はしていません。思ってるだけです」
頰杖を突いて、美織が不貞腐れる。
「いい性格してるな」
思わず、ちょっと吹き出してしまった。
「あーあ、友達ってなんだろう……」
「……」
「あ、『こいつ、やばいな』って顔してる」
美織は頰杖を突いたまま、横目に咲太を映している。
「これは、『こいつ、やばいし、面倒だな』って顔」
「いい性格してるね」
「それほどでも」
咲太の謙遜に、呆れたように美織は笑った。そのあとで、三度目のため息を吐いた。今度のはわざとではない。自然に出てしまったという感じ。
「お詫びとしてね。今度、わたしのために合コンをセッティングしてくれるそうです」



