第二章 空気の味は何の味? ②

 そう考えると、今日の卯月はやはりどこか違う気がした。


「広川さんの方こそ、昨日なんかあった?」

「なんかってなに?」

「なんかはなんか」

「真似されたぁ」


 そう言って、卯月は場を和ませるように笑う。それもまた、咲太の違和感になった。卯月が愛想笑いを浮かべている。こんなの見たことがない。少なくとも、今日、この瞬間までは……。

 それに、「なんかあった?」と聞けば、咲太の質問の意図など気にすることなく、「撮影で転んでお尻打ったー」とか、昨日のトピックスを話してくれるのが、咲太の知っている広川卯月という人間なのだ。

 一体、この違和感はなんだろうか。

 その正体を見極めようとしていると、


「今日、調子いいんだよね」


 と、卯月がまた笑う。

 それとなく咲太から逸らした視線は、先ほどまで一緒にいた女子グループに向けられていた。


「みんなと波長がぴったり合ってる感じ」


 改めて見比べるまでもなく、卯月と女子グループは似たような服装でまとまっている。


「みたいだな」


 たまには、そんな日もあるのかもしれない。

 ただ、いつもと違うという感覚は、卯月自身にもあるようだ。今日は調子がよくて、みんなと波長が合っていると感じているのだから。

 そこまで考えたところで、


「席に着いて」


 と、小さな声で言って教授が教室に入ってきた。

 学生たちが正面に向き直る。卯月も友達が待つ前の方の席に戻っていった。


「なあ、福山」


 席に着いた卯月の背中を見ながら、咲太は斜め後ろに話しかけた。


「ん?」

「今日の広川さん、どう思う?」

「かわいいと思うよ」

「他には?」

「かわいいと思うな」


 返ってきたのは、普段通りの拓海の言葉。


「貴重な意見をありがとう」

「どういたしまして」


 周りを見ても、咲太以外に卯月を気にしている学生はいない。違和感を覚えているのは咲太だけのようだ。

 だったら、気のせいかもしれない。

 今日は、偶然みんなと同じ服装になり、みんなと笑いのツボが一致した。のどかから送られてきたメールもたまたま気になっただけ。

 なんたって、調子がいいから。

 だから、全部咲太の思い過ごし。

 そうだったらいいなぁと思いながら、咲太は線形代数の教科書を開いた。



 どんな些細なことでも、一度気になると気にしてしまうもので、線形代数の授業が行われている最中も、どこかいつもと違う卯月の行動は、自然と咲太の目に留まった。

 昨日までの卯月なら、教授の話に熱心に耳を傾けていた。わからないところがあれば、授業の中断も厭わずに手をあげて質問をする。周りの友達が小声で話したり、スマホでメッセージのやり取りをしたりしていても、スイッチが入ると集中力が途切れることはなかった。それがこれまでの卯月の普通だった。

 けれど、今日は落ち着きなく体をぐらぐら揺らしたり、隣の友達とふざけ合ったり……教授の話に首を傾げることはあっても、「そこわかりません!」と声をあげることはなかった。

 授業が終わったタイミングでも、「先生、また来週ー!」と、元気に手を振ったりもしない。

 教室にいる他の学生と同じように教科書をさっさと片付け、今は女子グループに混ざって昼食の相談をしている。その輪の中から、卯月の声だけが目立って聞こえるということもない。「学食行こう」という提案に、「うん、行こう」と落ち着いたテンションで返事をしているだけ……。それらは卯月に対する違和感を、咲太の中で確かなものにしていた。

 ただ、そんな卯月の変化を気にしているのは、やはり咲太だけだ。

 一緒にいる女子たちは、ごく当たり前の顔をして卯月と話している。「今日、帰り横浜寄ろう」とか言っている。その様子はあまりに自然で、少なくとも咲太の目には、女子たちがそう取り繕っているようには見えなかった。

 逆の見方をすれば、女子大生同士の会話としては、なんの違和感もないやり取りだ。ひとりだけテンションの違う卯月が混ざっていた今までの方が、不自然と言えば不自然だったのかもしれない。そんなことを思っていると、


「梓川、今日の昼飯は?」


 と、斜め後ろの席から拓海が思考を遮ってきた。

 拓海は体を前に倒して、前の席まで身を乗り出している。


「僕は、弁当作ってきた」

「俺の分は?」

「あったらこわいだろ」

「そうだな。ぞっとするよ」


 拓海はそう言って体を起こすと、


「売店行ってくんね」


 と、一方的に告げて、後ろのドアから教室を出て行こうとする。戻ってくるから、待っていろということだろう。

 その拓海と入れ替わりで、金髪の女子が教室に入ってきた。

 のどかだ。

 一瞬だけ咲太を見る。でも、すぐに、前のドアから出て行きそうだった卯月の背中に向き直った。


「卯月」


 その声に、卯月がびくっとする。それから、「ごめん、学食、先行ってて」と友達五人を、廊下に送り出した。

 一緒に授業を受けていた他の学生も昼食に向かい、教室には弁当箱を机に出した咲太と、ふたりのアイドルだけが残された。


「……」

「……」


 教室の前と後ろ。距離を置いたままの卯月とのどかの間には妙な緊張感がある。


「さて、飲み物でも買ってくるかな」


 空気を読んで、一旦、退室しようと思った咲太だったが、それはのどかの行動によって阻まれてしまう。


「まだ飲んでないから、これあげる」


 教室の真ん中あたりに座る咲太のところまで来たのどかが、弁当箱の横にジュースのペットボトルを置いたのだ。少し前から麻衣がCM出演している桃の炭酸ジュース。

 同席してもいいと言うのなら、そうするまでだが……。


「えっと、のどかの用事って、こないだのことだよね?」


 先に切り出したのは、卯月の方だった。


「……こないだって?」


 急に言われたのどかは眉を寄せている。


「もちのろん、日曜日だよ」


 卯月の口調は、「そんなの当たり前じゃん!」とでも言いたそうだ。


「……?」


 だから、のどかが反応に困るのも当然だった。まさか、卯月の方からその件を持ち出されるとは思っていなかったはず。のどかたちの焦りや苛立ち、不安や心配が、卯月には伝わっていないと思っていたから……。少なくとも、昨日の時点ではそう話していた。


「ほんとごめん!」


 のどかの困惑をよそに、卯月は両手をぱんと合わせて拝むように謝る。


「私、全然みんなの気持ちわかってなかった。のどかが怒るのも当然だよ」

「……卯月?」

「今は、ばらばらでする仕事が増えて、グループの活動が減ってるもんね。それは私も嫌だから、ちゃんとメンバーで話さないと」

「そうなんだけど……あたしも、ごめん。言い過ぎたと思ってる」

「そんなことない。言ってくれたから、わかったんだし」

「うん……」

「そりゃあ、個人の仕事も大事だよ? それでスイートバレットのことを知ってくれる人もたくさんいると思う」

「あたしも、そう思ってる」

「だけど、そのせいで、私たちがばらばらじゃあ意味ないもんね」

「うん……」

「だから、八重も、蘭子も、ほたるも一緒に相談しよう。今日のダンスレッスン、久しぶりにみんな揃うよね?」

「そのはずだけど……」


 一体、自分は誰と話しているのだろうか。

 のどかはそんなことを考えているのかもしれない。

 筋道の立った話し方をする卯月の顔を、のどかは最後まで不思議そうに見ていたから……。


「のどか? 私、変なこと言ってる?」


 反応が鈍いのどかの様子から、卯月は何かを察したのだろう。それこそがまさに、卯月に対する違和感の本質だ。相手に合わせて話を進めている。


「ううん。あたしがしたかったのはその話……」

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