第二章 空気の味は何の味? ③
どこかうわ言のようにのどかは返事をする。
「よかったぁ」
「うん……」
先ほどからずっと、のどかは心ここにあらずといった感じだ。
「のどか?」
今度もそれに気づいた卯月が怪訝な顔をする。
「なんでもない……今日、八重だけ撮影で遅れるみたいだけど、みんなで話そう。あたしから連絡しとくから」
「うん! お願い。あ、私、学食に友達待たせてるから行くね」
小さく手を振ると、卯月は鞄を持って教室を出て行く。すたすた歩くその背中はすぐに見えなくなった。
「……」
「……」
教室に残されたのは、狐に化かされたかのような置き所のわからない感情だ。疑問なのか、驚きなのか、そもそも本当の出来事だったのか……それすらもはっきりしない。だから、すっきりしない。もやもやした気分だけが取り残されている。
頭の整理ができないのか、のどかは卯月が消えたドアの向こうをじっと見つめている。そのまま動くのをやめてしまいそうだったので、
「よかったな」
と、咲太は声をかけた。
「……」
無言で、のどかが視線を向けてくる。顔には疑問が張り付いていた。
「よかったなって言ったんだよ」
「なにが?」
「仲直りできて」
「……うん、まあ、それは」
頷きはしたけれど、のどかの表情は冴えない。釈然としない気持ちで塗り潰されている。
「ってか、今のなに?」
思ったままをのどかが口に出してくる。言葉にするとしたら、咲太も似たようなものだっただろう。同じ立場だったら、「なんだありゃ」と言ったと思う。
「咲太、卯月になに言ったの?」
のどかの目は疑いの色に染まっている。
「なにも言ってない」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「じゃあ、なんで日曜日には全然伝わってなかったのに、今日になってこうなるのよ?」
「豊浜にわからないことが、僕にわかるかよ」
「はあ?」
「広川さんのことなら、豊浜の方がわかってんだろ?」
出会った時期も早ければ、同じグループのメンバーとして密度の濃い時間をともに過ごしてきたのだから。
「当たり前だっつーの!」
不機嫌な顔で、のどかが納得する。だからと言って、卯月に対する疑問と違和感が消えたわけではない。少し考えたあとで、
「さっきの本当に卯月だった?」
と、真面目な顔で聞いてきた。
「違うっていうなら、なんなんだ?」
「あたしの顔色窺いながらしゃべってた」
その言葉には、「そんなのは卯月じゃない」という強い想いが含まれている。
「そうだな」
「だって、それってさ……」
喉に何かを詰まらせたかのように、のどかが途中で言葉を止めた。口に出すのを、一瞬躊躇ったのだと思う。
「卯月、空気読んでたじゃん」
続きの言葉がそれだったから。
「だな」
本当にその通りなのだ。
いつもと何が違ったのか。
まさに、のどかが言った通り。
空気を読んでいた。
あの、卯月が……。
違和感の正体はそれなのだ。
「もしかして、あたしとお姉ちゃんのときみたいにさ」
目でのどかが訴えかけてくる。
「誰かと入れ替わってるってか?」
「うん」
「それにしちゃあ、スイートバレットの事情に詳しすぎただろ」
先ほどふたりが話していた内容は、関係者以外知りえない情報のはずだ。
「そうだけど……」
「仮に、なんらかの思春期症候群だったとして、これってなんかまずいのか?」
「そんなの……」
たぶん、のどかは「当たり前じゃん!」と続けようとしたのだと思う。だが、言い終える前に気づいたのだ。
卯月とは仲直りができた。
のどかが感情的になってしまった理由についても、卯月にわかってもらえた。
今のところ、困ったことはなにもない。
むしろ、いいことばかりではないだろうか。
それにのどかは戸惑っている。
しかも、卯月は咲太の前で、「今日は調子がいい」と言って笑い、「みんなと波長が合ってる」とうれしそうにしていた。
突然の変化に、のどかだけではなく、咲太も戸惑っていた。
「じゃあ、これでいいの……?」
のどかが口にした自信のなさそうな確認の言葉には、
「明日になれば、元に戻ってるかもしれないしな」
と、先送りの返事くらいしかできなかった。
3
結論から言ってしまえば、咲太の淡い期待も虚しく、翌日になっても卯月は正しく空気を読んでいた。
朝六時起きで支度をした咲太が、一限から大学に行くと、卯月は同じ学部の女子グループに違和感なく馴染んでいたのだ。
みんなと同じような服を着て、みんなと同じ話題をしゃべって、みんなと同じタイミングで笑い声を上げる。
それが咲太にとっては、違和感なのだが……。
昨晩遅くには、ダンスレッスンから帰ったのどかから、わざわざ家に電話があって、「卯月と一緒に、メンバーみんなでちゃんと話し合った」と報告を受けている。
スイートバレットとしての活動はもちろん大事。
個人の活動もがんばっていく。
今ある仕事をちゃんとこなすことが、グループの存在を広く知ってもらう唯一の方法だから。
それを五人で話し合ったことで、改めて結束力を高めることができたと、のどかの声は最初から最後まで明るかった。これまでは、卯月と話が嚙み合わないこともあって、価値観を共有しきれない部分があったのだ。それを、今の卯月ならわかってくれる。
困ったことに、状況はいい方向に転がるばかりだ。
実際、大学の友人と楽しそうに話す卯月の姿には安心感があった。一昨日までは、露骨に浮いていたから、危なっかしさというか、歯痒さのようなものを感じていた。それが今はまったくない。安心、安定のやり取りが続いている。
ただ、いざ卯月がグループに馴染んでいるのを見ていると、これはこれでむず痒くなるから困ったものだ。
そんな卯月の変化を、今日も周囲の学生たちが気にしている様子はなかった。恐らく、気になるほど、他人を気にしていないのだろう。それぞれに確立したテリトリーが安全ならそれでいい。他人を気にしないふりをしていると、いつしか本当に気にならなくなる日が来るのかもしれない。
咲太も、相手が卯月でなければ、気にしなかったし、気にならなかった気がする。
「なあ、福山」
隣に座ってきた拓海にそう声をかける。
「んー?」
なんとも眠たそうな声だ。目は半分くらい閉じている。
「今日の広川さん、どう思う?」
「かわいいと思うよ」
「他には?」
「かわいいと思うな」
「だよな」
「……なあ、梓川君よ」
話して眠気が覚めたのか、拓海はしっかり咲太を見てそう聞いてくる。
「んー?」
今度は咲太が眠たそうな声を返した。
「今の質問、なんて答えるのが正解よ?」
二日続けて同じ質問をしたから、さすがに疑問に思ったらしい。
「かわいいが正解だよ」
あくびをしながらそう返事をしておく。
「なんだそりゃ」
咲太の中にだって答えがあるわけではない。
それ以上何も言わない咲太の方を見ながら、拓海はますますわからないという顔をしていた。
一限、二限の授業を乗り越えた咲太は、昼休みになると学食に向かった。今朝も六時に起きて作った弁当があるのだが、今日から大学に来ている麻衣と、昼は一緒に食べる約束をしているのだ。
学食内は、すでに八割の席が埋まっていた。
混雑したフロアを見渡すと、窓際に席を確保した麻衣を見つけた。麻衣も気づいて小さく手招きしてくる。
咲太はトレイを持った学生たちの間をすり抜けて、麻衣がいる四人掛けのテーブルに近づいていく。すると、麻衣の真向かいに誰かが座っていることに気づいた。



