第二章 空気の味は何の味? ⑧

 そんなわけで、大学がある金沢八景駅に到着すると、「ふ~」と安堵のため息が無意識にこぼれた。

 改札を出て駅の西側に繫がる階段を下りていく。

 この時間にこの道を歩いているのは殆どが同じ大学に通う学生だ。あとは教職員くらい。


「それにしても、すごい影響だな」


 ここまでわかりやすく世の中が反応するとは、昨日の段階では思っていなかった。


「そうだね」


 卯月は咲太の困惑に同意しながらも、そこまで困っている様子ではなかった。それもそうだろう。卯月にとっては積み重ねてきた活動が、ひとつの成果に結びついただけの話。ようやく、一気に人気者になるチャンスが到来したのだから、抱く感情は前向きなものに決まっている。電車に乗りづらくなることくらいは、大きな問題ではない。


「これなら、甲子園まで一直線だな」

「それは野球だよ、お兄さん」

「目指せ、国立だっけ?」

「それはサッカー」

「花園?」

「ラグビー」

「わかった。両国だな」

「ちょっと惜しいけど、それは相撲」


 卯月は最後まで的確に突っ込んできた。咲太がボケているのをわかってくれている。ノリを合わせてくれている。以前のように、「なんで、甲子園?」とか普通に疑問を返されて、話が嚙み合わないということがない。ボケた内容のどこが面白いのかを、説明させられることが度々あったのに……。


「私たちが目指しているのは武道館ね」


 わかっていると思うけど、と卯月が付け足す。


「その武道館も、近づいたんじゃないか?」

「んー、それはどうかな」


 卯月の声に真剣さがこもる。マスクをしているから微妙な表情の変化まではわからないが、真っ直ぐ前を見る目元には、何かに対する厳しさを感じた。

 アイドル業界の事情に詳しくない咲太にはよくわからないが、卯月の雰囲気から武道館が特別な場所なのは伝わってくる。少なくとも、今の卯月にとっては、冗談でも「行けるね、絶対」と言えない場所のようだ。そういう言葉の選び方を卯月はしていた。


「ちなみに、なんで武道館なんだ?」

「私はみんなと目指すなら、どこでもよかったんだけどな」

「そうなのか?」

「お兄さんには、前話したよね?」

「なにを?」

「私、中学に上がったくらいから、友達できなかったって」

「聞いたな」

「だから、一緒にいてくれるスイートバレットのメンバーは私にとって特別な……友達以上の存在なの」


 どれくらい特別なのかわかるのは卯月だけだ。だから、咲太はあえて何も言わなかった。わかるとも、わからないとも言えない。


「愛花と茉莉は先に卒業しちゃったけどさ。残ったみんな……のどかと、八重と、蘭子と、ほたると一緒に、武道館に立ちたいんだ」


 卯月は最後にもう一度「一緒に」と呟いた。大事なのはメンバーと一緒であること。それが強く伝わってくる。

 その目標のために、今回のCMのヒットが、卯月たちの追い風になることは間違いないだろう。一歩どころから、三歩か四歩は前進したはずだ。

 ただ、見方を変えると、卯月のソロデビューを模索しているという事務所の方針にも、多大な影響を与えている気がする。CMに出演しているのは、卯月だけなのだから……。

 何か仕掛けるなら、注目を集めているうちがいいに決まっている。

 実際、こうして卯月と並んで歩いていると、世の中が卯月に注目しているのがよくわかる。先ほどから周囲を歩く学生たちからも、ちらちら見られていた。気にしてない風を装った視線を感じる。

 卯月もそれに気づいているから、なるべく前だけを見て歩き続けているのだ。


「半分はお兄さんだよね?」

「なにが?」

「見られてるのって」


 大方、『桜島麻衣』のみならず、なんであいつは『広川卯月』とも仲がいいんだとかいう理由で、羨ましがられているのだろう。


「でも、私はお兄さんに会えてよかったな」

「突然の告白はうれしいけど、僕には麻衣さんという心に決めた人がいるから、ごめん」

「ふられたー。今のは、出会えてよかったじゃないから。今朝、電車の中で会えて助かったっていう意味のよかっただから」


 もちろん、そんなことはわかっている。咲太がわかっていることを、今の卯月も当然わかっている。全部わかった上で、面白がってわざわざ一から十まで説明したのだ。


「お兄さんって意外と面倒でいじわるな人だったんだね」

「今頃気づいたか」

「うん、ちょっと前まで全然わかってなかった」


 そんな話をしながら正門を通り抜ける。

 大学内の並木道を進んでいくと、周囲から向けられる視線や意識は一段と増した気がした。

 今は、一限と二限の間の休み時間。二限から出てきた学生と、一限の教室から二限の教室に移動する学生が数多く行き交っている。

 ここが別の場所だったら、卯月の存在に気づく人間はもっと少なかっただろう。ここに通う学生たちは知っているのだ。広川卯月が自分たちの同窓だと。

 大学にいるかもしれないと思っていれば、自然と気づく機会は増えていく。帽子とマスクの効果も、大学の敷地内ではだいぶ薄れていると感じた。


「明日は眼鏡もかけてこようかな」

「髪型アレンジすると、ばれにくいって麻衣さん言ってたぞ」

「あー、なるほどね」


 今も卯月は誰のことも意識しないように、真っ直ぐ前を見て歩いていた。周囲の反応をしっかり把握している。この場の空気を読んでいた。

 その卯月の目が、一瞬だけ並木道の脇に逸れる。

 休講の案内や、就職セミナーの情報が掲載された掲示板がいくつも並んだ場所。その端の方……サークル勧誘のポスターが貼られた掲示板の前で、ひとりの女子学生が通りかかる学生たちに声をかけている。


「学生ボランティアに興味はありませんか?」


 その女子学生を咲太は知っていた。

 赤城郁実だ。


「まだ立ち上げたばかりの団体なので、一緒に活動してくれる方を募集しています」


 そう語りかけながら手に持った紙の案内を差し出している。だが、誰かが受け取る気配はない。

 おしゃべりに夢中だった女子学生ふたりは郁実の前を素通りして、ワイヤレスイヤホンをしている男子学生は、軽く手をかざして断っている。


「今は不登校児童の学習支援を行っています。まだまだ人手が足りない状況です」


 淡々と、でも、声はきちんと出して郁実は粘り強く声をかけ続けている。

 それでも、足を止める学生はやはりひとりもいない。何かしらの反応を示したとしても、郁実の前を通り過ぎたあとで、「ボランティアだって」と小声で振り返り、一緒にいた友人と目を合わせて微かに笑うくらい。

 彼女たちの瞳は、「すごいね」、「意識高いなぁ」と語り、自分たちの価値観の中で、何が上で、何が下なのかを確認し合っていた。

 その答え合わせに満足すると、もう郁実には見向きもしない。どこかのカフェの店員がイケメンだとか言いながら、本校舎の方へと消えていく。

 その後も、誰も郁実の前で立ち止まらないし、誰も興味を示さない。

 それでも、郁実が声を出し続けていると、ひとりだけ足を止める人間がいた。

 咲太の隣で……。

 郁実に声をかけられたからではない。

 卯月は郁実から十歩以上離れた位置にいたから……。

 突然立ち止まって、卯月は郁美を見ていた。

 素通りしていく学生たちを見ている。

 郁実から距離を置いている学生たちの小さな笑いに、卯月の横顔は気づいていた。

 半開きになった卯月の唇は小さく震える。わずかに下がった目尻には、どこか切なさのようなものが滲んでいた。


「ねえ、お兄さん」

「……」


 呼ばれた咲太は無言のまま卯月の次の言葉を待った。

 卯月が何を言うのか、咲太にはなんとなく想像がついていたから。

 この時がいつか来ると思っていたから。

 できることなら、やりたくない答え合わせだった……。

 それでも、卯月は口を開くことをやめない。

 気づいたからには、言わずにはいられない。

 マスクを外した卯月が咲太を見ている。


「私も、みんなに笑われてたんだ」


 表情を少しも変えずに、卯月はそう呟いた。

 咲太に返す言葉など何もない。

 だから、瞬きをするように、小さく頷いた。

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