第二章 空気の味は何の味? ⑦
理央を見送ったあとで、咲太は店長に声をかけて会計を済ませた。
それから、花楓を捜しに店の奥に入る。
キッチンカウンターの前を横切ってさらに進むと、休憩スペースの中から話し声が聞こえてきた。女子がふたり。どちらも聞き覚えのある声だ。
中を覗くと、思い描いた通りのふたりがいた。花楓と朋絵だ。ふたりともまだウェイトレスの制服のままで、花楓が持ったスマホを一緒に見ている。
「さっさと着替えろー」
「あ、先輩」
気づいた朋絵が振り返る。
「お兄ちゃん、これ見て。卯月さんがすごいことになってる」
「は?」
まったく意味がわからない。確かに、卯月は妙なことになってはいるが、その件について花楓は知らないはずだ。
「いいから、早く」
「早くしてほしいのは僕の方なんだけどな……」
早く着替えてもらって、早く帰りたい。
「ほんとにすごいの!」
顔の前に突き出されたスマホの画面に仕方なく目を向ける。
映し出されていたのは、前に拓海が見せてくれたワイヤレスイヤホンのCMだ。
若い女性がアカペラで歌い、その曲が霧島透子のカバーでもあることから、ちょっとした話題になっているらしい。
しかも、歌っている女性は口元から下しか映っておらず、「あのCMで歌っているのは誰だ?」という点でも、視聴者の興味を引いているのだとか。先日、拓海が教えてくれた話だ。
顔が見えそうで見えない感じは、確かに気になると言えば気になる。
咲太も最初見たときに気になった。
もう少しカメラが上がれば……というところで、CMは途切れて終わってしまう。だが、今、咲太が見ている動画はそれよりも尺が長くて、三十秒が経過しても続いていた。
歌がラストのサビに入る。
より繊細に、より力強く歌い上げていく。
カメラは胸元から首へ、首から口元へと上がり……歌が終わると同時に、見えていなかった女性の素顔を映し出した。
おでこに滲んだ汗。
熱唱により紅潮した頰。
充足感に満たされた笑顔の女性を、咲太は知っていた。
今日も大学内で見かけたばかり。
どこからどう見ても卯月だ。
「今日、新しいバージョンが公開されたばっかりなのに、百万回再生超えてるんだよ?」
興奮した様子で花楓が教えてくれたが、それがどれくらいすごいのかはよくわからない。ただ、すごいことだけはわかる。
再生回数というよりも、CMの演出と綺麗で力強い歌声に、体がぞわっと反応した。そういう理屈では語れない凄味が画面からは伝わってきたのだ。
何かを感じたのは咲太だけではないらしく、CM動画には多くのコメントが寄せられている。
──これって、クイズ番組に出てる天然の子だよね?
──歌とか歌うんだ
──こう見ると美人
──なんかすげえ
──歌、まじうま
──づっきーの時代が来るな
卯月を知っている人もいれば知らない人もいる。
共通しているのはCMを通しての卯月への強い興味。
その人々の感情のうねりには、何かが動き出しそうな熱量と確かな予感があった。
5
一夜が明けた木曜日。十月六日。
大学に向かう途中、咲太が横浜駅で京急線に乗り換えると、赤い電車の中で卯月にばったり遭遇した。とは言っても本物の卯月ではなく、中吊り広告に載った写真の卯月だ。
少年漫画雑誌の表紙を単独で飾っている。
片足を胸に引き寄せて座ったくつろいだポーズ。ぶかぶかのセーターからは片方の肩がこぼれていて、白い素肌の上を流れ落ちる黒髪がなんだか妙に色っぽい。でも、オレンジをかじった表情はきょとんとしていて、年相応のかわいらしさが見えた。恋人だけに見せる素の表情といった感じ。
なかなかいい写真だと思う。花楓への土産に雑誌を買って帰ろうか。
そんなことを考えながら、なおも卯月の写真を見ていると、
「お兄さん、見すぎ」
と、後ろから声をかけられた。
振り向くと、帽子を被ってマスクをつけた女性が立っていた。
本物の卯月だ。
「どうせなら、本物を見るか」
卯月の方に向き直る。
けれど、こちらの卯月は両肩がしっかり洋服にしまわれている。露出が少ない。色っぽさが全然足りていない。
「やっぱり、あっちの方がいいか」
中吊り広告に視線を戻す。ダンスで鍛えられた健康的な素肌は、生き生きとした色気があってずっと見ていられる。
「そ、そんなに見るの禁止」
恥ずかしそうに卯月が腕を引っ張って咲太の向きを変えてくる。なんとも珍しい反応だ。以前は、水着グラビアが載った雑誌を咲太が持っていても、「どう? どう?」と、むしろ、ぐいぐい聞いてきたくらいなのに。
素直に恥ずかしがられると、いけないことをしている気分になってくる。もっといじめたい衝動に駆られてしまう。そのことがのどかに伝わると面倒なので、咲太は本物の卯月に視線を戻しておいた。
話すことなら色々とある。
「最近、調子いいんだな」
「うん、おかげさまで」
「CMもさ」
「お兄さんも見てくれたんだ」
その話題に、卯月の声は少し小さくなった。
「昨日、花楓が騒いで教えてくれたよ。すごいことになってんだろ?」
「そうみたい。今朝もマネージャーから連絡あって、大学行くときは気をつけろって」
だから、普段は素顔丸出しの卯月が、今日に限っては帽子とマスクを着用しているのだ。
変装の効果もあってか、今のところ周囲の乗客が卯月に気づく様子はない。ただ、咲太同様、中吊り広告の卯月に気づいて、しばらく見ている乗客は何人かいた。明らかに、昨日のCMを受けての反応だ。
ドアの脇に立った女子高生の二人組もそう。
「ねえ、あれ、昨日の」
「あ、CMの!」
「そうそう、名前なんだっけ?」
「待って、調べる」
と、スマホを出しながら話しているのが聞こえてきた。
以前の卯月だったら、自分から話しかけて自己紹介をしていてもおかしくないシチュエーションだ。いきなり声をかけられて戸惑う相手のことなど気にせずに、卯月は自分のペースで力強く握手をしていたと思う。でも、今の卯月はぴくりとも動かなかった。
背筋をぴんと伸ばして緊張しているだけだ。
「そうそう、広川卯月だ」
「これ、ほんとかな? 大学、横浜の市立って書いてある」
「じゃあ、この電車使ってる?」
「えー、そのうち会えるかな?」
なおも続くやり取りに、卯月の瞳は戸惑っている様子だった。
そこに流れてきた車内アナウンスが、女子高生たちの会話を一時的に遮る。次は上大岡だと教えてくれた。
「次で一旦降りて、隣の車両に移ろうか」
咲太が小声で話しかけると、卯月は最初わからないという顔をした。だが、すぐに咲太の言葉の意味を理解したのか、目を一瞬大きく開いてから、「うん」と首だけで頷いた。
上大岡駅で一度ホームに降りて車両を移った咲太と卯月だったが、移動した車両でも卯月のCMの話をしている高校生たちがいた。今度は男子三人。
「まじ歌うめえ」
「しかもかわいい」
「お前、今日雑誌買えよ?」
「お前買えって」
と、朝から盛り上がっている。というか、盛っている。
そのため、次に停車する金沢文庫駅でも一旦降りて、咲太と卯月は念のためさらに隣の車両に移っておいた。
「なんか秘密のデートっぽいね?」
卯月はどこか楽しそうだったが、麻衣の彼氏である咲太としては、地味にはらはらしたというのが本音だ。
今、卯月と一緒にいるのが見つかると、事実など関係なく彼氏扱いされて、おかしなデマがばら撒かれてしまうかもしれない。二股疑惑なんて流されたらたまったものではない。



