第二章 空気の味は何の味? ⑥

「だったら、彼女には思春期症候群を起こす理由がないように思えるけど?」

「そうなんだよな」


 理央に相談しても、やっぱりたどり着く答えは同じだった。問題がない。そこに問題を感じてしまう。でも、問題がないから、問題ない……。これでは禅問答だ。


「すっきりしないって顔だね」

「そりゃあな。ただ、空気を読んでるだけならいいとして……服装まで急に周りと一緒になると、ちょっと気味悪くないか?」


 丁度、店の奥のテーブルに、似たような雰囲気でまとまった女子大生の三人組がいる。膝くらいの長さのスカートに、上品な印象のブラウス。肩にかかるくらいの髪はふんわり内向きにカールしている。頰をほんのりお風呂上がりのような感じに染めたメイクで、楽しそうにおしゃべり中だ。合コンの反省会……というよりは、期待外れだった男子たちのダメ出しをしているのが聞こえてくる。


「それこそ、梓川の新しくできたかわいい女友達が言ってた通りなんじゃないの」


 素っ気ない態度で、理央がコーヒーカップに口をつける。その唇は、ほんのり色づいている。控え目ではあるが、理央も大学に入ってからはメイクをするようになった。


「一応、まだ友達候補だよ」

「かわいいのは否定しないんだ」

「んで?」


 これ以上突っ込まれる前に話を進めた方がよさそうだ。


「毎日似たような情報に触れていたら、直接的なやり取りを挟まなくても、情報は共有されて、みんなだいたい一緒になるって話。そういう社会性が人間には備わっているんだろうね」


 他人事のように理央が言う。ただ、その認識にこそ、咲太は引っ掛かりを覚えていた。


「それって、見ようによっては量子もつれに似てないか?」


 その状態にある粒子同士は、何の触媒も介さずに、一瞬で情報を共有して同じ振る舞いをするようになる。そう教えてくれたのは理央だ。


「結果だけ都合よく解釈すれば、似てる……くらいには言えるかもね」


 コーヒーカップから顔を上げた理央が、それとなく横目に奥のテーブルを捉えた。


「たとえば、量子もつれの状態にあるコミュニティがあったとする」


 見ているのは、合コン帰りの女子大生三人組だ。


「あるな」

「そこに、あとから量子もつれの状態にない友達が合流したとする」


 タイミングよく「ごめん、待った?」と言って、女子大生たちのテーブルに友達がひとり遅れてやってきた。合コンが空振りで、時間を持て余して友達を呼んだのだろうか。その彼女だけミリタリー系のブルゾンを着て浮いている。


「合流したな」

「その、あとから来たひとりが、何かの拍子に量子もつれの状態に巻き込まれた場合、その時点で情報は共有化されて、コミュニティと一体化をするわけだから、梓川の言いたいこともわからないではないよ」


 遅れて合流した女子大生は、席に座るなりミリタリー系のブルゾンを脱いだ。すると、最初からいた三人と似たような格好になる。

 まさに、情報が共有化されて、ひとつのグループとして一体化してしまった。

 単に、みんなが空気を読んだ結果。

 そう言われてしまえば、確かにそれまでだが、空気を読んで、大学生らしさをわきまえて、その場のTPOを守って……それだけで、髪型やメイク、服装があんなにも似るものだろうか。打ち合わせなしにこれができる大学生には、何か特別な能力や才能が備わっているようにさえ思えてくる。


「でも、だとすると、今回のケースはそっちなのかもね」

「そっちってどっち?」

「これが思春期症候群だったとして……思春期症候群を起こしているのは広川卯月ではなく、彼女以外の空気が読める大学生全員だってこと」


 さらっと理央がとんでもない考えを口にする。

 ただ、不思議と納得感はあった。奥の席の女子大生をたとえにした説明に当てはめると、理央の発言は話の筋道が通っている。


「無意識に情報を共有して、普通とか、みんなとか、そういう平均化された価値観を生み出す思春期症候群とでも言えばいいのかな。もしくは、それを実現させる量子もつれのような性質を持つ、無意識なネットワークが思春期症候群により形成されている」

「大学生全員で?」

「そう、大学生全員で」


 本当にとんでもない考えだと思う。途方もない。スケールが想像していたのよりもずっと大きい。だけど、どこの大学に行っても、似たような学生グループは存在するし、似たような格好で、似たような価値観を持って、同じように振る舞っているのは事実だ。

 何より、卯月とは違い、思春期症候群を起こす理由がある。

 それこそ、美織が言っていた通りなのだろう。

 高校まで制服の存在が高校生であることを証明してくれた。クラスという、ひとまずの居場所が用意されていた。

 だが、大学は違う。制服もなければ、クラスもない。自分を形作っていたものを取り上げられてしまったから、無自覚に、無意識に、大学生のあるべき姿を求めてしまう。そうした漠然とした不安の集合体が、理央が言う『普通』であり、『みんな』という見えない存在のことなのだろう。


「思春期症候群の正体が、そこにあるなら、彼女が巻き込まれる理由はわからないでもないからね」

「づっきーはづっきーだからな」


 卯月は卯月らしく生きている。アイドルをして、TVに出演して、ファッション雑誌なんかにも載って……それらは、自分らしさに迷っている他の大学生から見れば、眩しい存在であり、眩しいから苦手で、目を背けたくなる存在でもあるはずだ。

 だから、吞み込んだ。

 集団の中に……。


「この先、こういう話は、むしろ、梓川の領分になるんじゃないの?」

「どの辺が?」

「統計科学ってその辺の分析とかするんでしょ?」

「一年目は、一般教養と基礎数学ばっかだよ」


 専門分野の授業はまだ何も受けていない。統計も科学も統計科学もやっている感じが今のところはなかった。


「ま、でも、今回に関して言えば、今話してきたことも、たいして意味はないかもね」

「そうなのか?」


 理央のおかげで、状況の見方はだいぶ変わったのだが……。


「梓川もわかっているんでしょ? 何かあるとしたらこれからだって」


 その言葉を、理央はゆっくり吐き出した。


「まあな。そうだろうとは思ってる」


 理央は全部お見通しだ。


「急に空気が読めるようになったら、色々と気が付くこともあるだろうからね」

「いいことも、悪いこともな……」

「それが彼女を変えてしまうかもしれないから、梓川は心配してるんだ?」

「ファンとして当然だろ?」


 卯月の姿勢に救われたのは花楓だけじゃない。花楓の力になってもらって、咲太も助けられた。のどかの言葉を借りれば、卯月にはみんなを笑顔にする力がある。それは、本当だと思う。だから、彼女の輝きが曇ってしまうのを見たくはない。

 そういう風に思える友人のひとりなのだ。卯月は。

 ただ、咲太の願いとは裏腹に、状況は変わりはじめている。

 卯月は空気を読めるようになった。

 空気を読めるようになったことで、いつか気づくだろう。

 空気を読めなかった自分が、今まで周りからどんな目で見られていたのかに……。


「浮気がばれないように気を付けなよ」


 冗談とも本気ともつかない口調の理央は、店内の時計を視界に入れていた。すでに、店に入ってから一時間近くが経過している。今は、午後十時二十分。


「花楓のやつ遅いな」


 一緒に帰るから待っているように言われたのだが、一向に着替えて出てくる様子がない。


「僕は店の奥を見てくるから、双葉は先に帰ってくれていいぞ」

「そう? じゃあ」


 理央は食べた分のお代をテーブルに置くと、「また塾で」と言って店を出て行った。

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