マッドサイエンティストと聞かれたら、たいていの人は口をそろえて峰島勇次郎の名をあげるだろう。
彼はあらゆる分野でその才能を発揮したが、それ以上に狂気的な言動が目立った。しかし彼はまぎれもなく天才だった。ガリレオやアインシュタインでさえも、彼の業績の前にはかすむだろう。
峰島勇次郎が行方不明になったいまも、世界各地に残された遺産と呼ばれる驚異的な発明を求める人々は、後を絶たない。モラルを無視した峰島勇次郎の狂気は、それ故にいまだ人々を魅了し続けるのである。
(歴史を変えた天才達、最終章「天才の狂気」より抜粋)
プロローグ
その部屋は、少女の牢獄だった。
窓は一つもなく、床や壁は重厚な鉄で構成され、唯一の扉は見るからに頑強な作りで開かれることを拒んでいる。冷気さえ漂いかねない部屋の隅で七、八歳ばかりの少女は、一人膝を抱えていた。
少女に己の境遇を愁える様子はない。体の接する床や壁から体温が奪われていくというのに、目はうつろなまま、ぼんやりと床を見ているだけであった。
よく見れば目鼻立ちは整い、まるで日本人形のように可憐なだけに、よけいに痛々しい。しかしここにそのような感慨を抱く他者は存在しない。ただぽつりと幼子が、いるだけである。
どれほど時間が無為に流れたか。まるで凍りついたように静止した少女の景色を壊したのは、耳障りな機械音だ。高い天井の一角がゆっくりと開き、暗い部屋に明かりをもたらす。
少女が音に反応し上を見れば、分厚いガラスを隔てた明かりの中に五,六人の人の姿を確認できただろう。しかし少女は身じろぎ一つしない。そこだけは依然として静謐の底に沈んだままである。
明かりの中にいるのは中年または初老の背広姿の男達。いずれも少女の姿に同情する様子はなく、それどころか忌々しそうに高みから見下ろしていた。
「生きているのかね?」
コンコンと、男の一人がガラスを叩き、少女の反応を待った。しかし期待に反し、少女の視線は床を向いたまま。変化は皆無である。今度は少し強めに窓ガラスを叩くが、それでも反応はない。
「昨日もこんな感じだったじゃないか。使い物になるのか?」
肩をすくめる男に別の一人が、話しかける。
「やはり処分するべきだろう。使い物にならないのなら、なおさら」
「いや、あの頭脳にある知識の数々は、捨てるに惜しい」
さらに別の男が、
「問題が起こってからでは遅いのだよ」
「心配性ですね。この地下1200メートルの牢獄を抜け出せるとでも?」
「しかし役に立つのか、あれで? 廃人同然ではないか」
「問題となるのは、それだけではなかろう。日本政府があの娘の存在を隠蔽していると、他国に知られたら」
「隠し通せばいい。いざとなったらこの施設ごと切り捨てる」
「アメリカやヨーロッパ諸国の追求をかわせるというのか?」
「それは君達の仕事だろう。私が急な予算の捻出に、どれほど苦心してると思って……」
「待て!」
一人がガラスの外、部屋の隅でうずくまっていた少女を指さした。見ればずっとうずくまっていたはずの少女に変化が起きている。いつのまにかうつろな眼差しが、床からガラス窓の向こうの男達へと移っていた。
「どうやら生きてるようだな」
最初に窓ガラスを叩いた男が、息苦しそうにエリに指をいれる。
「いまの会話が聞こえたのか?」
「まさか。防音は完璧なはずだ。そうだったね、岸田君?」
白衣姿が板についた恰幅のいい学者風の男は、気弱げに「そのはずです」と答え、ハンカチで汗をぬぐう。そしておずおずと言葉を付け足した。
「あの、相手はなにぶんまだ七歳の子供です。皆様、どうかおてやわらかに」
「何を言ってるのだね、君は?」
「子供だろうがなんだろうが、あれはあの男の娘なんだぞ」
「大丈夫なのか、こんな男がこの施設の責任者で?」
無遠慮に浴びせかけられる非難の言葉に、岸田と呼ばれた男はただ唇をかみ締める。
「おい、あれが何か喋っているぞ」
見れば少女の唇が、力なく動いている。何か喋っているらしいが、完璧に近い防音処理をされた部屋からそれが聞こえてくることはない。たとえそうでなくとも、あまりにもはかなげな声は、男達に届く前に部屋の冷気に飲み込まれてしまうだろう。
「何か言ってるようだが。音声をマイクで拾えるかね?」
まもなく少女のつぶやきを、牢獄にそなえつけられたマイクが拾った。しかしそれはあまりにもか細く、言葉として意味をとらえるのは困難である。
「よく聞き取れませんな」
「単なるうわごとじゃないのかね?」
「もっと聞こえるようにできないのか?」
ボリュームを上げたスピーカーから、雑音に混じり少女の声がようやく届いた。
「もっと……聞こえるように……できない……のか?」
少女の抑揚のない言葉。最初、男達はその意味を理解できずにいた。しかしその内容が、先ほど男達の一人が発した言葉と等しいことに気づくと、表情がいっせいに強張った。
「おい、完全な防音のはずだったんじゃないのか?」
「は、はい。そのはずです」
岸田博士も理解できないという顔をする。完璧な防音設備、少女のいる部屋に男達の言葉が聞こえるはずはない。男達の一人がガラスを叩いたことも、本当は無意味なことなのだ。
「おい……完全な防音の……はずだったんじゃ……ないのか?」
マイクが再び少女の声を拾い、また男達の言葉が再現されたことを証明する。
「やはりあれも峰島勇次郎の遺産の一つだ」
峰島勇次郎の遺産という単語が出た瞬間、男達の緊張感の中に恐怖が混じった。
「いったい何が起こったんだ? あんな能力があるなど報告にないぞ」
「峰島勇次郎の遺産。やはり処分すべきだったんだ」
「いまからでも遅くはない。殺してしまおう」
恐怖はまたたくまに膨れあがり、男達の間に蔓延する。峰島の遺産とは彼らにとって、未知への恐怖に他ならない。
少女はぼんやりとうろたえる男達を見ていたが、三度唇を動かした。
「どうやって処分する?」
マイクが拾った少女の声に、男の声が見事に重なった。その言葉を発した男は、一瞬何が起こったのか解らなかった。他の男達は混乱のさ中で、気づいていない。
「おい、いま俺の言葉……」
次の言葉も、同じように重なる。そこでようやくまわりの男達も気がついた。
「いま、君の言葉とあれの言……」
さらに一人の男が言葉を発したが、しかしその言葉も途中で切れた。スピーカーから聞こえる少女の声と同じであることに気づいたからだ。言葉の途切れた箇所も、寸分違わない。
もう誰も喋る者はいなかった。恐怖をたたえ、少女の姿を見る。表情のないうつろな視線だけが返ってきた。
「不用意ですね。彼女の前であのような会話をするなんて」
恐怖が頂点に達しようというとき、張りのある声が背後から聞こえてきた。男達が振り返ると、三十半ばの口ひげを蓄えた落ち着きのある風貌の男がそこに立っている。
「伊達君か。不用意とはどういうことだ?」
伊達と呼ばれた男に一人が話しかけるが、あわてて口を押さえた。しかし、スピーカーから少女の声は聞こえず、ほっと胸をなで下ろす。伊達は、計ったような正確な歩調で男達に近づいた。
「伊達君、やはりあれは峰島の遺産だ。どうやってか知らないが、我々の言葉を読む」
「読心術か?」
「いや、そんな研究があった報告は受けていない」
「あのマッドサイエンティストの研究が、全部明らかになっている訳じゃないだろう」
再び男達は無秩序に騒ぎ始めた。
「別に人間ばなれしたものじゃありませんよ。ただ唇の動きを読んだだけでしょう」
伊達の一言が、それを静める。
「唇の動きを読む?」
「そうです。私の部下にも同等の技術を持った者は何人もいます。もちろん先ほどアレがしたことと同じ振る舞いもできます」
少女を顎でさす伊達に、一人が反論する。
「しかしさっきは私と同時に喋ったぞ。これはどう説明する?」
「唇を読むのに慣れたんでしょう。よく聞けば、微妙に遅れていたとは思いませんか? 私にはそう聞こえましたが。どうです?」
「うむ、言われてみれば」
「その通りでしたな」
「解ればなんて事はない」
伊達の提示した常識に、その場の誰もが飛びついた。
「必要以上に警戒しても、思うつぼですよ。相手はたかが小娘。我々をからかって遊んでるんです」
そう言って伊達はさりげなくマイクのスイッチを切った。その様子を生気のない目で、少女が見つめている。
「そういえば君の部隊の調子はどうだね? そろそろ本格的に活動してもいい頃合いだろう」
「これから峰島勇次郎のオーバーテクノロジーを狙った凶悪犯罪は、ますます増えるでしょうね。対遺産犯罪部隊、レガシーカウンター部隊の発足は半年遅れたと思ってます」
誰もがほっとする中、岸田博士だけが険しい表情を崩さなかった。彼だけが伊達の言葉の偽りに気づいていた。
伊達と岸田博士だけは、重なった少女の言葉が微妙に早いことを見抜いていた。しかしそれを単純に峰島の遺産の能力、読心術ではないかという推論はしない。人間外の超常的能力ではない。しかし考えようによっては、もっとやっかいな能力だと考えていた。
──こいつらは何も解っちゃいない。
伊達は表情ひとつ崩さず、内心で男達をあざけわらう。しかしガラス越しに見える少女に目をやると、それもかすかに強張った。
──あれのもっとも恐れなければならない能力は、峰島勇次郎から受け継がれた知識ではない。それを受け止められる知性と、卓越した観察力なのだ。
それが導き出す能力はついさっき目の前で見せつけられた。相手の言動をつぶさに観察し、性格や思考傾向をあばき、発する言葉すらも完璧に予想してしまう。男達は何度もここに足を運んでいる。おそらくそのとき軽率な言動をいくつもしたに違いない。
特定の状況下の単純な行動パターンなら、予想も導きやすい。最初に唇を読み言葉を重ね、男達を混乱に導き、言動を限定させる。限定された言動からなら、次の言葉を読むことは、少女にとってたやすいことなのだろう。
──読心術? とんでもない。もっと事態は深刻なんだ。あんたらはあれに操られたんだよ。
伊達と男達は、少女に背を向けると部屋から出ていった。岸田博士も心配げに少女を見た後、部屋を去る。
分厚い金属の扉が閉じる。部屋は静寂にうつろい、少女も当然のごとくその中にとけ込んでいった。
物語の幕が開くのは、まだ十年の年月を必要とする。