一章 遺産の剥奪者
1
「注意してください。エネルギー消費量が規定値を超えています。注意してください。エネルギー消費量が規定値を超えています」
女性的な電子音声に再び注意されて、
──へたにいじらないほうがいいな。
賢明な判断をすると闘真は、マニピュレータの
モニターの
ため息をつき、気分転換に窓の外を見た。外といっても野外ではなく、直径525メートルのほぼ球形をした大規模な研究施設内の光景である。
研究施設の名はスフィアラボ。完全閉鎖型での自然
この実験が成功すれば、外部からの補給はいっさいなしに施設内の資源のみで、人が生きていける。宇宙時代を先駆けた未来の希望とまで言われ、はやしたてられた。極端な話、循環環境が整ったら、太陽光が充分に届く
以前、ロシアやアメリカでも同等の実験が行われたが、それらは失敗に終わっている。
先の実験とは異なり、自然の力に最新鋭のバイオテクノロジーとコンピュータ管理が行き届いたスフィアラボは、実験開始から半年、順調に事が運んでいた。
ほとんどの職員と一部の家族が、闘真と同様この研究所で暮らしている。小さな町といってもいい。実験の性質上、外との交流も最小限である。といっても、まわりは見渡す限り海なのだが。
発表当時はマスコミも世間も注目し、大きく
闘真がここで働くようになったのは十日前。春休みを利用した衣食住完備の割のいいバイトのつもりだったが、まだまだ不慣れなことが多く、笑いたくなるくらいミスが多い。
特に発表当時もう一つ話題になったスーパーコンピュータLAFIによる、
十七歳の青春をこんなところで
そこに太い笑い声とともに、豪快な男が現れた。
「はっはー。また。何回やっても上達しないな、おまえは」
「あんまり笑わないでくださいよ、
横田は笑い声こそ消したものの、ニヤニヤと口に浮かべた笑みはそのままで、闘真に近づいてくる。三十歳前後の
どこか
「今日何回目だ、三回か?」
闘真は無言で指を四本立てた。
笑っていた横田も渋い顔をして、
「ああ、そりゃいただけねえな。センスないにしても、限度ってものがあるだろう」
「難しすぎですよ! 同時に七軸も操るなんて、僕にはできません。そもそも荷が
「まあ、そういうな。このスフィアラボは一日のエネルギー消費量が決まってる。お
最後の言葉をキャッチフレーズのように歌った。このスフィアラボで働く人々は、なにかにつけてそれを口ずさむ。確かにスフィアラボ内の
「そうだな、おまえがいま消費したエネルギー量を地球規模に考えて換算するとだな、ああ、うーん、ざっと東京が一日に消費する電力の三倍に
「そんなに?」
「スフィアラボにいると、資源の大切さを実感するだろう。まあ実用化なんて夢のまた夢かもな」
思い出したように横田は時計を見る。
「そろそろミツバチの時間だ。引き上げるぞ。飯もまだだろ?」
闘真は一度大きくのびをすると、横田に続いて部屋の外に出た。
そこには巨大な密林が広がっていた。とても建物の中の景色には見えない。直径525メートルのスフィアラボの実に六分の一を占めている密林である。7000万立方メートル以上の空間の酸素供給をまかなうには、これだけの植物が必要なのだ。それでも不十分らしく、より多くの酸素を生みだすよう、ここにある植物類はどれも遺伝子改良されている。
密林を割るように
「おっと、時間だな。走るぞ」
腕時計を見て、二人は走り出した。
スフィアラボの酸素の大部分をまかなうため、ジャングルのように草木が密集しているプラントセクター。その植物の管理育成をまかされているのがミツバチである。役割の一部がミツバチに似ていることからそう呼ばれているが、四枚の羽で宙を飛び交う姿も似ていなくはない。
「なんかぞっとしない光景ですね」
「
「でもミツバチの時間、人追いだされますよ」
「そりゃ危険なんじゃなくて、人が無意味にうろうろされたら、その回避行動で余計なエネルギー
道を曲がると扉が見えた。飛び込むようにかけこむ。
「横田
扉を閉めたとたん、女性的な電子音が警告する。闘真と横田は顔を見合わせて、苦笑いした。
「人のエネルギー消費量も誤差0・1パーセント以内で観測可能なんだとよ。すごいね、メイドイン
「僕に聞かれても、
窓の向こうでは、ミツバチと呼ばれるロボットが、せわしなく飛んでいる。
いささか奇異な光景ではあるが、スフィアラボ内ではまだ平和な日常が続いていた。
「人のエネルギー消費量管理、もうちょっと
モニターを監視していた
「明日ラボで例の実験やるだろ。あれが
「スフィアラボの中にラボって施設ってのもねえ。なんかおかしくない?」
「知るかよ」
答えた男が、大きなあくびをする。
スフィアラボの状況を監視するこの中央制御室は、建物の規模を考えると、人は極端に少なく、常時五人しかいない。それでもじつは多いくらいなのだ。これも統括管理するスーパーコンピュータLAFIの恩恵なのだが、監視員にとっては
「そんな実験、内部電力でまかなわなくていいんじゃないのか? 通常運行下なら、ありえない状況だろ」
「さあね。エネルギー供給の限界でも調べておきたいんじゃないの。実際30パーセントほど余裕あるから、申請するか? この調子だと、午後には警告鳴りっぱなしで、うるせえし」
そのとき来訪を告げるノックが、耳に届いた。
「おお、ラボのマドンナ、
喜び勇んでドアを開けようとする小金井に向かって、同僚がぽつりと
「お前、幸せだよな」
「おおよ。うらやましいか」
同僚は
小金井が扉を開けて瑠璃子を招き入れるそのとき、ちょうどその音が聞こえた。かすかに
「なんだ?」
スフィアラボの全景を説明するなら、一言で事足りる。直径500メートル以上のガラス玉。それが海上にぽっかりと浮かんでいるのだ。
スフィアラボに
着陸した一台のヘリに向かって、警備責任者の
神田は警備の仕事に誇りを持っていた。スフィアラボは世界的にも注目されている実験施設だ。導入されている技術は、あの
だから彼は少しでも怪しいものは、受け入れないという姿勢を持っていた。
すでにヘリからは何人かが降りて、コンテナを下ろす作業をしている。
「ちょっと待ってくれ。資材の
指示を出している責任者らしき男に向かって、
「ああ、なんですかあ?」
ヘリのローター音がうるさいのか、どこか暗い目をした男は聞き返した。
「だから、搬入は予定では来週のはずなんだが?」
「
「コンテナの中はなんだ?」
「ああ、テロリスト1セット」
あまり面白くない
「おおっと、いけねえ。大事なこと忘れてたぜ」
「おまえに頼みがあるんだ。聞いてくれるよな」
ほおら、きた。闘真は聞こえなかったフリをしようかと思ったが、横田はおかまいなしに話を続ける。
「明日一日、セントラルスフィアで俺の代わりに管理しちゃくれねえか」
あーあ。闘真は口に出さずにため息をついた。
セントラルスフィア。スフィアラボの全制御を
「あのですね。僕、バイトの身ですよ。セキュリティレベル7。この意味
「おお、おまえが
「ええ、ええ、どうせ下っ端ですよ。その下っ端がどうやったら、セントラルスフィアに入れるんですか!」
「無理か?」
「無理に決まってるでしょうが。あそこはレベル0ですよ! 入ろうとしてもドアは開かず、代わりに警備員が飛んできますよ!」
へえ、などとわざとらしく感心する横田は放置して、晩飯をパクつく。品数はなかなか豪勢で、味も申し分ない。完全
「なあ、どうしてそんなこと
「気になりません」
「そうか気になるか。しかたない。おまえには特別に教えてあげよう」
びくともしねえし。
「明日は
鏡花とは横田の四歳になる娘の名前だ。目に入れても痛くないを体現する親バカぶりは、横田を見ればインスタントラーメンより早く理解できる。
体をくねらせる中年男に闘真は頭痛を感じながら、
「そういえば、横田さんも家族組でしたっけね」
などと当たり
家族組とは、スフィアラボに家族で住んでいる人
独身組の中にはいつのまにかくっついて、家族組になる人達もいる。意外と多い。娯楽が少ないスフィアラボの中では、男女の仲は発展しやすいものらしい。いま独身組の男性達の話題の的は、同じ独身組の
「まあ気持ちは
「ほう、気持ちは解ってくれたか」
横田はにんまりと笑う。いやな予感に闘真は逃げ出そうとしたが、もう遅い。
「つまりだ、セキュリティレベルさえどうにかなれば、おまえは引き受けてくれると。そういうわけだな! ようしおまえの心意気買った!」
「買わなくて……いいです」
横田は
「へへ、ちょっと仕掛けがあってな。前に言っただろう? このLAFIってコンピュータには、いま使ってるOSのさらに下に何かあるって。覚えてるか?」
「ええ、まあ。それより、くわえタバコやめませんか? 火ついてなくても、管理部から苦情来ますよ」
「ウチのかみさんみたいなこと言うなよ。まあ聞けや。少し前、OSの下に何が眠っているか、その手がかりをつかんだんだ。本当のLAFIの姿だ。どえらいもんだったぜ。いままでのコンピュータとはまったく設計理念が違う。ようやく少し
「よく解んないんですけど?」
「つまりだ、LAFI社では社長が一番えらいと思ってたら、その裏に会長がいた。
「はあ? 会長と話せると、何かいいことがあるんですか?」
「あたぼうよ。いろいろ
「それものすごく問題ありそうなんですけど……」
「気にするな。管理部や保安部が使ってるOSには記録は残らねえ」
「いや、だからそういう問題じゃなくて」
「じゃあ
やはり聞いていない。
「そのあいだ、俺は
「英語と日本語、
銃声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
「さあ、どうぞどうぞ。むさくるしいところですが」
マドンナを案内する
「ごめんなさい、お仕事の
中央制御室に招くと、
「いえいえ、瑠璃子さんなら大歓迎ですよ。ちょうど
同僚の冷たい視線をものともせず、小金井が瑠璃子に進みでる。
「それで何か御用ですか?」
同僚は、なるべく事務的になるように努めて尋ねた。
しかし瑠璃子はそれには答えず、数多く並ぶモニターの一つに目を向けていた。
「
「こちらにも連絡が入ってなくて。なんか手違いらしいんですが」
何か口論をしているらしい映像を見て、肩をすくめる。
「しかし、今日は暑いですね。ここの真下にある貯水池にダイビングしたくなりますよ」
瑠璃子は
「知らなかったよ、お前に自殺願望があったなんて」
同僚の口調はますます
窓の外のちょうど真下には、大気調整用の電気分解を目的とした貯水池があるが、中央制御室からは、50メートル以上の落差のため、飛び込むなど自殺
「でも小金井さんの気持ちも
「そうでしょ、そうでしょ」
小金井は
「おい、待て! 外の様子が変だ」
同僚が鋭い声を上げる。モニターに信じられない光景が映っていた。次々と倒れる警備員。銃を撃っているのは、ヘリのパイロット。ヘリからは銃器を手にした兵士が何人も現れる。
「くそ。なんだあいつらは。早く警報を鳴らせ!」
「それは、困ります」
瑠璃子は小さなバッグに手を入れ、中から出したものを後ろから同僚の首に押し付ける。
「え?」
次の
他の監視員がとっさに反応し銃を抜くが、瑠璃子のあまりに思いがけない、次の行動に動きが止まった。全員が注視する中、瑠璃子は自分の服に指をかけると、一気に左右へ引き裂いた。しかし体があるはずの空間には、何もなかった。空っぽだ。瑠璃子が服をかなぐり捨てると、残ったのは最初から
「うふふふふ」
全員の硬直が解けたのは二人目の
十秒とたたないうちに中央制御室は血に染まり、死体が散らばった。その間小金井は
「いったい、どういう……なんの
震える
「革命の始まりよ」
「横田さん、いまの!?」
「闘真、ここにいろ!
そう言って、横田は
五分待ち、十分待ち、しかし何も起こらなかった。おかしい。いまの銃声はどう見ても警備上問題ありそうだ。警報の一つも鳴らないのは、おかしすぎる。
──何かが起こってる。
闘真は確信すると行動を起こした。制御室に行くのはもしかしたら危ないかもしれない。しかし横田の身が心配だった。
廊下を走り、建物をつなぐチューブ通路を抜け、制御室まで行く。このときまで闘真は
おかしい。おかしすぎる。頭の中の警報はますますひどくなる。現実は冷めたように静かだ。
闘真が制御室の前まで来ると、扉が開けっ放しになっていた。鼻に異臭がこびりつく。見なくても、中の様子が想像できた。扉の横に体を張り付かせ、そっと顔を
血の海だ。中の人間全員が血まみれになって倒れていた。
「そんな」
予想通りの光景でも、闘真の動揺は激しかった。しかし悲観している
おそるおそる中に入る。物音一つしない。
コンソールの上につっぷしてすでに事切れた人の体をどかすと、両手に血がべっとりとついた。
警報のスイッチを見つけ、闘真は
「なんでだよ、なんで鳴らないんだよ」
嘆く
「
急いでかけよろうとして、足が血ですべって転んだ。服が雨で
「横田さん、横田さん、
手遅れなのは見てすぐに
「よお、……坊主か」
横田の口からごぼごぼといやな音がした。
「いま助けを呼びます」
立ち上がろうとする闘真を、横田がつかむ。
「
「そんなことない!」
叫びながら、横田の言葉が正しいことをすでに自覚していた。横田は長くもたない。あと一分か二分か。冷静な分析ができてしまう自分に
「早く逃げろ。通信機は使えねえ。外の人間にこのことを伝えるんだ」
「絶対伝えます。だから……」
「それと一つ、
「解りました。だから
「悪いな、いつもいつも……、おめえには本当に感謝してる」
「僕だって横田さんにどんなに世話になったか。だから、お願いだから!」
「これを……」
横田の震える手には、血で汚れたプレゼントの箱。
「……俺、届けられそうにねえから。おめえに頼むわ」
「届けます。届けますから。だから……」
横田の体から流れる血は、
「悪いな……
横田の目から光が消えた。眠るような死ではない。見開いた目と
「……横田さん、横田さん」
涙がぼたぼたとこぼれた。こぼれた涙が、床の血だまりではねる。握り締めた
「感動のお別れはおしまい、バイト君?」
突然、後ろから女性の声がした。聞き覚えのある声に、あわてて振り返ったが
「うふふ、やっぱりあなた
「まさか、
「あら、いつも言ってるじゃない。
部屋の
「じゃあ、あなたも後を追いなさいな。バイト君」
首筋に寒気が走った。反射的に体を引こうとしたが、足を血ですべらせた。何かが
「と、透明人間?」
「あはははは。そうね、そうとも言えるわ。光学迷彩。あなたも高校生なら、このくらいのSF用語は知ってるでしょう?」
知っている。光の
「ふふん、おしゃべりはここまで」
人の足音がいくつも迫る。希望をたたえ部屋の外を見た
スフィアラボは何者かに
「なに!?」
闘真の視線に込められた殺意の濃さに、姿なき
闘真はその
闘真の体が窓ガラスの外に落下する。
「まさか自殺?」
瑠璃子があわてて割れたガラスの下を見ると、
「首尾はどうだ、瑠璃子?」
背後からの声に瑠璃子の雰囲気が一変した。険しい表情が、一瞬にして
「申し訳ありません。一人逃がしてしまいました」
うわずった声で報告した相手は、線の細い若者。長身、整った顔立ち、黒ずくめの衣装、数ある特徴を圧倒して、表に出ているのは自信。表情から、立ち振る舞いから、全身から、自信をあふれさせる若者の名は
「かまわん。LAFIファーストのコントロールルーム、セントラルスフィアに降りるぞ。そこを制圧してしまえば、
「はい、風間様」
2
TV局や新聞社名のロゴが描かれた取材用ヘリコプターが何機も、ところせましと
「みなさま見えますでしょうか、海上にそびえる巨大な建築物が。直径525メートル、日本の、そして世界の未来をかけて作った巨大研究施設スフィアラボが、何者かによって
リポーターが
「すでに事件発生より十七時間経過していますが、いまだに犯人グループからの要求はなく、警官隊も目立った動きを見せず、依然こう着状態が続いています。はたして何が目的なのか、中で何が起こっているのか、時間が経過するごとに不安は高まっていきます」
報道ヘリコプターをけん制するかのように、警察
「未確認の情報によりますと、犯人グループの占拠からただ一人難を逃れた少年がいるとのことです。その少年の勇気ある決死の行動により通報が警察に届き、今回の事件、スフィアラボ占拠事件が明るみになったという、そういう
リポーターはイヤホンに集中するしぐさをし、さらに興奮した様子を見せた。
「あ、いま、通報した少年らしい姿を別のカメラが捕らえたとのことです。では、カメラを」
リポーターの声が
「はい、こちらXXX町の警察署の上空です。たったいま
こちらのリポーターもイヤホンに耳を傾け、残念そうな顔をした。
「え? しかし……はい、
3
古い色あせたセピア色の光景。
夢はまるでフィルムをでたらめにつなぎ合わせたように、一部は欠落し、時間の流れもばらばらである。何もかも
みんな死んでいる。一目見ただけで
──ああ、なんてことだ。
言葉にならない嘆息をこぼす。しかしそれは意識だけで、夢の中の闘真の像はそんなことはしない。ただ口元に笑みを浮かべるだけ。
「た、助けて……」
誰かの声が足元から聞こえる。
「死にたくない……」
一人の男が、地面をはいずり遠ざかろうとしている。闘真とその男の間には、延々と血の川が、いまも生きて流れている。
闘真の目が、笑った。喜悦の笑みである。
──やめろ。
心の叫びは、しかし笑う闘真には届かない。
「誰か……」
笑ったまま、右手を振り上げた。
──やめるんだ。
「
右手には
──やめろおおお!
それは
「見事!」
父の姿がいずこからともなく現れ、さも痛快に叫んだ。
「
4
ここはどこだろう。
「事件発生からもう十八時間たちますが、いまのところ犯人側からなんの要求もありません」
「そうか。だいたい書類には目を通した。
書類をめくりながら、四十前後の男性が、
「報告が入りました。スフィアラボの全セキュリティロックは解除不可能。非常回線も通じないとのことです。スフィアラボもそれを制御するLAFIファーストも完全に敵の手に渡ったと思っていいでしょう。このままだと突入は不可能ということになりますね」
「やはり、あれを使うしかないか。あまりいい顔をしないだろうな、
「
「君は、私をどう思っているんだね? ふむ、しかしこの少年は、なかなかの行動力だな。まだ肌寒い海をしかも夜に、十六時間も泳いできたか。精神力も相当なものだ。水泳部にでも入ってるかと思えば、何も活動はなしか」
「そうなんですよ。でも見れば体は
「何かあるのか?」
「そのお手元の資料の作成には間に合わなかったんですが、父親が
「もったいぶらずに言ってみろ」
「あの
伊達と呼ばれた中年の男の険しい顔がさらに厳しくなる。
「……確かか?」
「間違いありません」
「真目家は
「いえ、父親とはなさそうなのですが、娘の真目
「ナンバー2とは
「
「ほお。
「あの……」
「起きたか?
そう言って、
「ここ、どこですか?」
「ヘリの上だ。心配ない。君がさっき警察署で話したことを、もう一度ある人物に聞かせてもらいたいだけだ」
「はあ」
本人の
「それで、どこに向かってるんですか? あのアデムって?」
「The Administrative Division of the Estate of Mineshima。略してADEM。日本語では
「NCT?」
「Non-CognizableTechnology。略してNCT。認識外テクノロジー。峰島
「伊達さん、目的地が見えてきましたよ」
ヘリはゆっくり降下し、静かに着陸した。
闘真はヘリを降りてあたりを見渡すが、道らしい道は何もない。目の前にある
「車ではこられない場所なんですね」
「そうだ。行くぞ、時間がない」
何も
伊達に導かれ、コンクリートの塊に近づいていく。
「お待ちしていました。わざわざこんな山奥に出向かなくても」
「出向く理由がある。だから来た。例のモノの用意はできているか?」
「準備はできています」
初老の男は少しだけ顔を
「その前に、そちらの少年がそうですか?」
「
「はじめまして、坂上闘真です」
研究所というのは目の前のコンクリートの
「岸田です。わざわざこんなところにようこそ」
「
岸田博士は少しだけ伊達を
「ここに何があるんですか?」
「来れば
しかし建物の中に入っても、ドアが
「ここはNCTの研究所なんですよ」
闘真の様子を察してか、岸田博士が柔らかい口調で教えてくれた。
うわっ、と闘真は口に手を当てる。いまになって、NCTにかかわる
「き、聞いたことはあります」
「ふむ。どんなことです?」
「いわく日本は一人の天才科学者の技術の独占を
「独占とは人聞きが悪いですな。危険な技術を保護していると
前を歩く岸田博士が顔だけ振り向いて、苦笑いをした。
「
それってやっぱり独占って言うんじゃないのか、と
しかし思うだけで口には出さないでおく。
思ったよりも
「あの、どうしてなんですか?」
「何がだ?」
「ただの高校生をこんな場所に案内して。僕に何をやらせようというんです?」
「君がただの高校生かどうかはともかく、あまり身構えないでいい。話をするだけだ。何をそんなに警戒している?」
「ほら、よくあるじゃないですか映画とかで。ここで見たことは外に
闘真は自分の首を切るまねをする。
「はっはっはっ、カンがいいな」
伊達はおかしそうにひとしきり笑うが、顔は
「まあ、言いたくなっても言えないと思うがね」
意味深な言葉を残して伊達は口を閉じた。
「この先に地下に降りるエレベーターがありますが、その前にセキュリティチェックが入ります。そこから先は、日本でも数えるほどの人間しか知らない最重要機密エリアです」
岸田博士の説明に、闘真の顔はますます
案内されたのは、四畳程度の小さな部屋だ。
ドアを閉めると同時に、青いランプがともった。
「大脳皮質番号〇〇〇〇一〇一、岸田
どこからか電子的な女性の声が聞こえる。
「大脳皮質番号一〇〇二〇〇七、伊達
つづいて伊達の名を呼ぶ。
最後に闘真を赤い格子状の光が
「大脳皮質番号の登録がされていません。ただちに
とたん、けたたましいサイレンと共に壁のあらゆる
「え、あ、ちょっと?」
「動かないでください。指示に従わない場合は、強制排除します」
うろたえる
「いや、あの、どうにかしてくださ……」
銃声が一発、
「次は
電子音はどこまでも冷たい。言われたとおり闘真は一歩も動かず、口も開かず、彫像のようになることに
いったい自分は何をされているのか。どうしてこんなところにいるのか。どうして説明もなくこんな目にあわなければならないのか。
命の危機と
何かが腹のそこでぞわりと、波打った。その
それは
──まずい。
本能よりさらに深いところで、闘真の心は危険信号を発していた。恐怖に目をつむる。かつて人間だったモノの肉片が散らばっている光景が、まぶたの裏に克明によみがえった。
うねりは心まで
突然、なんの
放心し体が
「ああ、忘れていたな」
「彼はゲストだ。私の権限により二十四時間だけ、三級、いや二級権限を与えてくれ。名前は
「了解しました。一級権限により、未登録者に限定二級権限を発行します」
電子音が答えると同時に、放心する闘真の側頭部にまばゆい光が集中する。なんだろうと思うまもなく、
「大脳皮質番号二〇〇三一二三、坂上闘真、限定二級権限を発行しました」
激しい頭痛と耳鳴りのなか、ようやくその声だけを聞き取る。大脳皮質番号という言葉に不安を感じる。
「だ、大脳皮質番号?」
「脳に直接認識番号を書き込む。複製は不可能だ」
「の、脳に?」
「
「いまのところ、これで障害を起こした人間はいない」
安心していいのか悪いのかよく
「心配いりません。神経細胞は
頭も開けずどうやって脳に刻むのか聞きたかったが、理解不能な答えが返ってきそうなのでやめた。
「さ、行くぞ」
胸に手を当て目をつむる。大丈夫、うねりは消えた。あんな悲劇はもう起こらない。
「どうかしましたか?」
岸田が心配そうにエレベーターの中から顔を
──
父の言葉が脳裏によみがえる。ずっと封印していた
「本当に大丈夫ですか? 気分が悪くなったりしていませんか?」
「はい、大丈夫です。ただ、ずいぶんと降りるんだなと思って」
「地下1200メートルまで降ります」
「そんなに? いったいそんな地下に何があるんですか?」
そろそろ
「まあ、いいだろう。説明しよう。
「スフィアラボの事件ですか?」
「そうだ。その事態にそなえての切り札が、この地下にある」
「切り札?」
「
誇らしげに語る
エレベーターを降りると、
床が全面ガラス張りになっている。ガラスの下の光景の意味を、
それはなんてことはない普通の、しかしこの状況においては異常きわまりない光景であった。ガラスから大きく見下ろす形で下に広大な空間が広がっている。その空間にはソファやテレビ、テーブル、
少々広すぎるが、家の屋根を外し、上から
「さあ、この先です」
岸田博士の案内に従いさらに奥へと進む。
体育館程度の広い空間だ。
何十人もの銃を構えた警備兵が、
少女が一人、ただ立つのみ。
しかしその姿が普通ではない。
病院で着るような薄手の服、そこから伸びる白い手足は、冷たい色を放つ
少女の中で
もう一点、場にそぐわないものがあった。いや聞こえてきた。ロック音楽が大音量で部屋いっぱいに鳴り
闘真はまるで理解できなかった。いったいこの状況はなんなのか。
「これは……」
この
目隠しをされ拘束された少女と、銃を構える警備兵。非常に大げさな規模ではあるが、どこか銃殺刑を連想させる光景と言えなくはない。だが、一つだけ決定的に異なる点がある。震えているのは、なぜか銃を構えている警備兵のほうだった。一人二人ではない。全員が青ざめた顔をしている。
それに比べ表情は見えないが、少女に
少しだけ少女が身じろぎをした。その
ただ
──
「彼女が、峰島勇次郎の最高傑作です」
岸田博士はエレベーターの中と同じ言葉を繰り返す。違うといえば、その口調にかすかな悲しみがまじっていることくらいだ。
「最高傑作?」
「ええ」
「いつもと曲が違うな。どうしたんだ、これは?」
部屋の
「こういう音楽は、しょうに合わないな」
「同じ
「いや、それでおとなしくしてくれるなら願ってもないが。こういうのが
伊達は不審をぬぐいきれない表情でロックに耳を傾けている。
「音楽ならなんでも
「聴覚を狂わせる?」
「ええ、危険なんですよ、彼女に周囲の音を聞かせるのは。いや、音に限ったわけではないのですが。危険というなら五感の刺激全部が危険です」
闘真の質問に岸田博士は答えてくれるが、どれもこれも説明不足で何を言おうとしているのか解らない。お
「もしかして、彼女は遺産の技術で、肉体的に強化されているとか? そういうことですか?」
「いえ、そんなことはありません。
ますます
「
不満そうな岸田博士を残して、
警備兵
どう見てもこの少女に何か特別なことがあるとは思えない。どうして
そのとき、ぱらぱらと何かが上から降ってきた。足を止め上を見ると、全面ガラス張り
「どうした? ん、あれか。あれは厚さ20センチの特殊強化ガラスだ。ちょっとやそっとで割れることはない。さっき通った通路も同じ材質だ。今度は
説明をしながら伊達は歩く。その先に
何も解らないまま、少女の前にたどり着いた。闘真と伊達の気配に気づいたのか、うつむいた顔を持ち上げる。細い首の上は無残だ。目隠しと
「顔だけでも、はずしてあげられないんですか? ひどいですよ、これは!」
伊達はちらりと闘真のほうを向いただけで、いいとも悪いとも言わない。どっちでもいい。闘真は体が先に動いていた。少女に近づき「
「あ、あれ? はずれない。おかしいな」
「特注の電子ロックだ」
伊達が投げよこしたカード式のキーを受け取ると、
少女の顔があらわとなる。
「あ……」
呼吸が止まった。闘真の手から拘束具がこぼれ落ちる。少女の顔は、心臓が止まるかと思うほど美しかった。
少女が真正面から
少女はわずかに視線をそらせ、闘真の背後にいる
「ひさしぶりだな。半年近くになるか」
伊達の声は少し硬い。
少女は少しだけ顔を
「ひさしぶり」
少女は笑う。初めて見せた感情らしい感情は、日本刀の切っ先を思わせた。怖いくらいに美しく
少女は部屋の中を
「ずいぶんと物々しい。あいかわらず
「臆病で結構。それで生きながらえるならいくらでも臆病になろう。とくにおまえに会うなら、臆病すぎるに越したことはない」
「それは賢明」
少女は
「それでなんの用事?」
「おまえに手伝って欲しいことがある」
「答えはいつもと
「今日はうなずいてもらう」
「それはどうかな?」
少女はロックの音楽に合わせて、少々調子っぱずれな鼻歌を歌った。ロックの音に混じり、
「
「いえ、いつもと同じ音量なんですが。おかしいですね」
パラパラとまた何かが降ってきた。
「なんだ?」
「ホコリではないようだが」
伊達が天井を見上げる。天井のガラス板に立っている研究員達も何か異常を察し、
「さあ、なんだろうね」
またホコリが、今度は伊達の肩に落ちる。それを指ですくった伊達は、厳しい目で見つめた。その目が徐々に大きく見開き、
「音楽を止めろ! 早く!」
伊達の叫び声が終わらないうちに、頭上からピシッ、ピシッと音が立て続けに聞こえた。天井のガラスに無数の細かいヒビが入り、あっというまに真っ白になった。パンッと破裂するように、ガラスがいっせいに粉々になり、雨のように降る。
「うわああああ!」
警備兵達は悲鳴をあげ、顔や頭を守る。混乱して
いったい何が起こったのか。
どきりとするほど目の前に少女の顔があった。闘真の口にくわえているカードキーの反対側をくわえていた。鼻先がくっついている。
「んふっ」
少女の鼻にかかるような
そこで
少女は信じられない
伊達が落下するのと、ガラスの雨が床に到達するのと、少女が自由になるのは同時であった。
一階にいた警備兵や
ガラス片が床ではね、その間に少女はすでに次の行動に移っていた。
警備兵達の並ぶ
パニックになっている警備兵達の目前で、少女は大きく跳躍し壁を
警備兵が一人倒れたときには、少女の手にその
ようやく一人が反応して、発砲する。信じられないことに、少女はその弾丸を軽々とよけ、結果、少女の背後にいた警備兵に当たった。撃たれた警備兵は苦痛に悲鳴をあげる。
それが冷静を取り戻し始めたほかの警備兵達の動きを
混乱する警備兵を
「いいこと教えてあげる。この強化ガラスは欠陥品だ。特定の周波をぶつけるともろい。じゃあね」
ようやく起き上がった伊達が銃を構え少女に
「岸田博士、警戒体制をレベルSに引き上げろ。なんとしても捕らえるんだ!」
伊達が
ガラスが割れてから、わずか二十秒たらずの出来事だった。
「まさかあのロック音楽の中に、強化ガラスを共鳴反応させる周波があるとは思いませんでした。うかつです」
急上昇するエレベーターに乗っているのは
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんですか?」
「彼女、普通の人間の体だったんじゃないですか?」
「そうですね。普通というには
「あれのどこがですか? 彼女のしたことは、人間
「肉体構造は、人の範疇だ」
今度は伊達が答える。
「でも、あの動きは普通じゃないですよ!」
「体は普通だ。ただ……」
「ただ?」
「頭脳が普通じゃない」
「頭脳? 確かに頭はよさそうですけど。でも僕が言いたいのは、そういうことではなくて」
「あの娘の身体能力は、我々と根底が違う。人間工学を
「どういうことですか?」
「筋肉の流れの一つ一つ、骨格の作り、心肺能力、あらゆる状態を彼女は
何がおかしいのか、伊達は
「あれに言わせるなら、我々の動きは非効率的で体力の
伊達の言葉を頭の中で
「彼女、何者なんですか? どうしてこんな地下に閉じ込められてるんです?」
「ああ、そういえばまだ言ってなかったな」
少しだけ訪れる
「彼女は、彼女の名前は……」
そのとき、なんの
「な、なんだ? どうしたんだ? 停電か?」
「そんな、停電なんてありえない。電源は三重に管理されてるはずです」
数秒後、非常灯の赤いランプだけが
「
「はい、通信系統は生きているようです」
岸田博士はエレベーターに設置されているコンピュータターミナルをせわしなく操作する。すぐにスピーカーから人の声がした。
『岸田所長、ご無事ですか? 大変なことが起こりました』
「
『メインコンピュータのLAFIセカンドに、何者かがハッキングをしています。現在、第六から第十二区画、および第十五区画が……くそ、第二と第三もだめか。以上の区画のコントロール系統が制御できません』
「なんだと!」
『現在もハッキングは進行中です』
「どこからハッキングを受けている? 割り出しを急げ!」
『すでにやっています。十秒待ってください。……ああ、第五、第十四、第十六区画も制御不能』
次々と届く報告は、
報告の中には聞きなれた単語も混じっている。LAFIセカンド。スフィアラボを管理するコンピュータと同じ名前だ。違うといえばファーストとセカンド。同系のコンピュータでここも管理されているのか。
『逆探知成功。第二十七区画、研究所下層部からです!』
「くそ、やはりあの娘か!」
闘真は伊達がどうしてここにきて、あの少女に会わねばならなかったのか理解した。
スフィアラボを
あわただしい空気の中、エレベーターの下から、何かの
「なんの音だ?」
「これは……。おい、
『
「41キロ……あの娘と同じだ」
「こしゃくなマネを。我々を動けなくして、一人のうのうとエレベーターで逃げるつもりか」
下から昇ってきたエレベーターは
「LAFIセカンドを
岸田博士が声を荒げる。
『しかし、それでは全システムの99・5パーセントが使用不可能になります』
「それでいい。あのエレベーターをなんとしてでも止めるんだ」
『了解しました。LAFIセカンド、強制システムダウン実行します』
明かりがまた、
『システムダウンしました。全システムを手動および守秘回線に移行します』
「ここのエレベーターの電源を手動で戻すのに何分かかる?」
『復旧まで五分かかります』
「遅い! 三分だ。それ以上は待てん!」
岸田博士が初めて
『善処します。システムダウン直前のNCT施設状況を
「
エレベーターのターミナルの画面の中、ダウンロードを示すインジケーターがのろのろと進む。全員が、その目盛りを見つめていた。
「あのエレベーターはどこで止まった?」
『第七層と八層の間で止まっています』
「第七層と八層から外に通じるドアロックの状況を調べろ。それに換気口も。想定できるあらゆる逃走経路を調べるんだ」
「ここと、ここ。それにここも。考えられる逃走経路は三つ。それ以外のドアはロックされている。電源が通っていないので開けるのは不可能です」
「解った。そこにありったけの警備兵を集結させろ。ドアを手動で閉じて溶接するんだ。あらゆる逃走経路はふさげ」
『了解しました。あ……エレベーター電源、復旧します』
エレベーターが再び動き出す。
ずっと傍観していた
エレベーターが地上にたどり着く。全員が出て行く中、闘真だけが中に残った。
「何をしている? 早く降りろ」
「すみません」
闘真はそれだけ言い残すと、エレベーターの最下層を示すボタンを押した。
最下層につき、闘真は自分のカンが正しかったことを知った。
警戒を知らせる赤いランプが明滅する中、兵士
闘真達がエレベーターで昇った後、
『
電子音のエマージェンシーコールがけたたましく鳴り
『ADEM規定E─999が発令されました。残っている職員は、ただちに緊急脱出用エレベーターで脱出してください。緊急事態発生、緊急事態発生』
「緊急脱出用エレベーター?」
いま降りてきたエレベーターではないだろう。システムダウンで、電源は手動でつないでいると言っていた。つまり緊急脱出用エレベーターとは、そうした制約を受けない
降りてきたほうとは反対側にある三つのドアに注目する。上部に緊急脱出用を意味するプレートがあった。さっき来たときはすべて閉まっていた、と思う。それが開いている。いや、一つだけ閉まっているドアがあった。誰かが使用したのだ。
開いているドアに乗りボタンを押すと、ものすごい速さで上昇を始める。耳が痛い、と思ってまもなくエレベーターがチンと鳴って、目的地についたことを知らせた。おそらくは地上階。
ドアが開くと長い通路があり、その先に少女の後ろ姿が見えた。病院の入院着のようなすそがその走りに合わせひらひらと舞っている。あの少女だ。
少女は振り返る。夢でも幻でもない。人の思考を一気に奪う
「電源止められたのに、よくエレベーター動くね」
闘真はどう声をかけていいか
「それは逆。電源が止められたからこそ動作する。緊急用のエレベーターが、停電で止まってどうする? ガス圧による独立動作だ」
「ああ、そうか。言われてみれば、そうだよね」
「どうして、
「え、え? 何が?」
「どうして、あのエレベーターがオトリだと解った?」
「あ、いや……解ったというより、感じたっていうか。なんかおかしいって」
「それでこの緊急用エレベーターに気づいたか」
「気づいたわけじゃないんだけど、とりあえず逆に行ってみようかなって。ほら、オトリ使うなら、反対側に逃げるだろ。そうしたら、なんか動いてるエレベーターあったし。乗ってみたら君がいた」
少女の顔が
「それで私を、どうする?」
「何を?」
「ここで私を止める気か?」
「ああ、それなんだけど。正直状況がよく解らなくて。なんか知らないうちにこんなところに連れてこられて。君が何者で、どうしてあんな地下に閉じこめられていたのか解んないし、もしかしたら悪者は、
言っているうちに本当に困ってしまって、闘真は頭をかいた。
「どうしようね?」
「私に聞くな!」
少女は怒ったように、背を向けると、長い廊下をすたすたと歩いていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
少女に止まる様子はない。あわてて腰まで伸びる黒髪が揺れる背中を追った。
「まだ、僕としてもどうするのが正しいか解らないんだ。せめて君の名前だけでも教えてくれないか?」
「
ふりむきもせず少女は名を告げる。
「峰島由宇か。いい名前だね。峰島由宇……峰島……峰島って、まさかだよね?」
「なんだ、知らなかったのか? 信じがたいのんびり屋だな、君は」
「だって君、まさか、もしかして」
口を金魚みたいにぱくぱくさせる闘真に、由宇と名乗る少女は冷ややかな視線を送る。
「お察しのとおり。私はあの
「……本物?」
「
「え、でもだって、娘だからって、どうしてこんなところに閉じこめられてるの?」
「私の頭の中には、
立ち尽くす
「ちょっと、待って。待ってったら」
後ろから由宇の肩をつかむ。世界が反転した。何をどうやったのか
わけも解らず顔を上げると、何かが鼻先に迫っていた。それが何か理解するまもなく、首がもげそうなほどの
──くそっ。
背後の壁に足で着地し、床に下りる。
追い討ちがくると思ったが、何もなかった。それどころか由宇の姿がない。前と左右、どこを向いても、隠れる場所はない長い通路と、コンクリートの壁があるだけだ。
とっさに体を真横に
すかさず体をねじり、なんとか威力をそいだ。
地面に着地した由宇は、予備動作もなくそのまま軽やかに体を後転させ、闘真と距離をとる。まるで体重を感じさせない、羽のような動きだ。音もほとんどしなかった。
「力の殺し方はなかなかうまい」
由宇は面白そうに目を細める。
「普通なら、
闘真は鼻を押さえたまま、荒い声を出す。
「一つ、大事なこと聞いてもいい? すごく大事なこと」
「聞くだけなら、ご
「いや、大事な話だから、答えてもらわないと困る」
由宇は肩をすくめる。言うだけなら勝手にしろという雰囲気だ。闘真は意を決した。
「あの、もしかして……下着はいてない?」
「はっ?」
とっさに何を言われたのか解らないのか、少女は目を白黒させる。
「いや、だから下着、もしかしてはいてないのかなって。病院で検査するみたいな服着てるし……」
少女の目がだんだんとつりあがっていく。
「そういうときってほら……、えーと、その、チラッと……、不可抗力?」
鼻を押さえた指の間から、血がボタボタと床に
「あ、誤解しないで。これは
「そんなに私の裸が見たければ、ここの職員になればいい。いつでもおがめる」
怒りを押し殺した声は震えていた。
「え、なんで?」
「私にプライバシーはない」
闘真は研究所で見た
「もしかしてっていうか、やっぱりっていうか、怒ってる?」
「面と向かって言うからだ! ハレンチな
怒りが頂点に達したのか、足を思い切り床に
「貴様みたいなバカに付き合ってる
由宇は顔から感情を消すと、もうここまでといったように闘真を無視して走り去る。
「だから待って」
すでになんで追いかけているのか、闘真自身よく
曲がり角の先の長い長い廊下の
由宇の
「あ、……ああ」
声も出せず
何かが彼女の髪を揺らした。
「……風?」
風を含んだ黒髪は、優しく波打つ。
見えない風をつかむかのように、由宇は震える手を前に伸ばした。その手に引っ張られるように、体が前に傾き、走り出す。
「あ……」
離されてはならないと
前を走る由宇が、突然倒れた。何かにつまずいたわけでもない。不自然な倒れ方である。起き上がる様子もない。
「どうしたの!?」
ようやく追いついた闘真は由宇を抱き起こそうとし、そして、闘真はそこで一生忘れることのできないであろう少女の顔を見た。
由宇は左の胸に指を食い込ませ、苦しそうにうめいていた。大量の汗が額から流れ、床にこぼれ広がる。
「
「
由宇は闘真の手をはねのけた。
「くっ、こんなときに。あと少し……少しなのに」
胸に食い込む指はさらに深くなり、血がにじむ。
「あ……がっ……げふっげふっ」
突然
「もう……少し……なのに」
体が言うことをきかない
「そ…と……」
最後の力で由宇は少しでも光に近づこうと手を伸ばした。しかし、それもついに力尽き、床に落ちていく。
落ちようとする手を闘真が受け取った。意識が
由宇を抱きかかえたまま、明かりのある出口に向かって歩き出す。
うつろに開いた由宇の目は、ただ光を見ている。意識はほとんどない。闘真に抱きかかえられていることすら、もう
「
一番聞きたくない声が、闘真の背中にかかる。振り向くまでもない。
「
「
伊達の背後には、銃を構えた警備兵が何人もいた。
「
「甘い考えを許すな。その娘の恐ろしさの
「でも」
闘真が走り出そうとすると、銃声が耳をかすめた。
「動くな」
従うしかなかった。
扉は冷たい金属音をさせ、光を
5
由宇が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのはいくつものまぶしいライトだった。
意識はまだ
「気づいたか」
ぼやけた視界に
「脈拍も脳波も安定しました。もう
「例の処置をいまのうちにしておくか。また暴れられてはかなわないからな」
腕が持ち上げられる。何か塗っている。アルコールの
「聞こえているか? いま注射した液体には極小のカプセルが約一万含まれている。中は八十七種類の致死性の毒だ」
由宇はうっすらと目を開け、声のする方向を見た。ぼやけた視界が
「カプセルの
口を開こうとしてやめた。いまの体には憎まれ口を
「助かりたければ、我々に協力しろ。おまえの知識を貸せ」
そのとき
「
「岸田博士、その話はもう終わったはずだ。さっきも言ったとおり作戦開始は十八時だ。回復する時間はある」
「五時間しかない! 反対です。あなたは由宇君を殺すつもりですか!」
「死にはせんよ。遺産を
「せめて私を同行させてください」
「
「しかし!」
「また発作を起こしたときのために、カンフル剤は用意しておけ。話は以上だ」
「伊達さん!」
「意識が会話できるくらいになったら、その娘に必要なものを聞いておけ」
伊達の足音が遠ざかる。
「
岸田博士もその言葉を残すと、伊達の後を追った。人の声は消え、無機質な電子音だけになった。
視線を
──届かなかった。