一章 遺産の剥奪者

        1


「注意してください。エネルギー消費量が規定値を超えています。注意してください。エネルギー消費量が規定値を超えています」


 女性的な電子音声に再び注意されて、さかがみとうはめげた。水中モニターを見れば、マニピュレータからうんぱんしている機材がいまにも落ちそうになっている。

 ──へたにいじらないほうがいいな。

 賢明な判断をすると闘真は、マニピュレータのそうじゆうかんからそっと手を離した。ちゆう、機材ががくんとさらに傾いたが、なんとか難はしのげたようだ。

 モニターのすみには赤い文字で、すいしようされるマニピュレータのエネルギー消費量と、いま闘真がに使ってしまったエネルギー消費量が点滅していた。ダブルスコアに近い値をさしている。しかもまだ作業は半分も終わっていない。さらにめげた。今日中に終わらせなければならない作業なのだが、やりとげられない自信ならある。

 ため息をつき、気分転換に窓の外を見た。外といっても野外ではなく、直径525メートルのほぼ球形をした大規模な研究施設内の光景である。

 研究施設の名はスフィアラボ。完全閉鎖型での自然かんきようじゆんかんを再現した研究所である。

 この実験が成功すれば、外部からの補給はいっさいなしに施設内の資源のみで、人が生きていける。宇宙時代を先駆けた未来の希望とまで言われ、はやしたてられた。極端な話、循環環境が整ったら、太陽光が充分に届くはんという限定つきで、宇宙のどこに放り出してもだいじようなのだ。

 以前、ロシアやアメリカでも同等の実験が行われたが、それらは失敗に終わっている。

 先の実験とは異なり、自然の力に最新鋭のバイオテクノロジーとコンピュータ管理が行き届いたスフィアラボは、実験開始から半年、順調に事が運んでいた。

 ほとんどの職員と一部の家族が、闘真と同様この研究所で暮らしている。小さな町といってもいい。実験の性質上、外との交流も最小限である。といっても、まわりは見渡す限り海なのだが。

 発表当時はマスコミも世間も注目し、大きくさわがれた。しかしいまでは一部の科学雑誌を除けば、取材に来るマスコミはほとんどいない。

 闘真がここで働くようになったのは十日前。春休みを利用した衣食住完備の割のいいバイトのつもりだったが、まだまだ不慣れなことが多く、笑いたくなるくらいミスが多い。

 特に発表当時もう一つ話題になったスーパーコンピュータLAFIによる、てつていした管理体制はどうにもしっくりこなかった。

 十七歳の青春をこんなところでろうしていいのだろうかと、自問自答する。モニターに映る失態からとうするすべを見つけたとうは、しばしその疑問を頭の中で転がした。

 そこに太い笑い声とともに、豪快な男が現れた。


「はっはー。また。何回やっても上達しないな、おまえは」

「あんまり笑わないでくださいよ、よこさん」


 横田は笑い声こそ消したものの、ニヤニヤと口に浮かべた笑みはそのままで、闘真に近づいてくる。三十歳前後のきたえられた体と、しまりのない表情、そしてしようひげが印象的だ。これでも一セクターをまかなう技術主任だ。

 どこかじゆうじみている。知り合って一年以上経過するが、第一印象は変わらないどころか、よりけんろうになるばかりだ。高校生のバイトにマニピュレータの操作などという高度な作業を、やればできるの一言でまかせてしまうアバウトさも含めて。


「今日何回目だ、三回か?」


 闘真は無言で指を四本立てた。

 笑っていた横田も渋い顔をして、あごをなでる。


「ああ、そりゃいただけねえな。センスないにしても、限度ってものがあるだろう」

「難しすぎですよ! 同時に七軸も操るなんて、僕にはできません。そもそも荷がくずれたのに、先にエネルギー消費量が警告されるなんておかしくないですか?」

「まあ、そういうな。このスフィアラボは一日のエネルギー消費量が決まってる。おてんさまと海流のエネルギーだけで、この鹿でかい建物をまかなってるんだ。小さな地球、限られた資源は大事に使おう」


 最後の言葉をキャッチフレーズのように歌った。このスフィアラボで働く人々は、なにかにつけてそれを口ずさむ。確かにスフィアラボ内のじゆんかん環境施設は、地球環境のミニチュア版だ。


「そうだな、おまえがいま消費したエネルギー量を地球規模に考えて換算するとだな、ああ、うーん、ざっと東京が一日に消費する電力の三倍にひつてきするな」

「そんなに?」

「スフィアラボにいると、資源の大切さを実感するだろう。まあ実用化なんて夢のまた夢かもな」


 思い出したように横田は時計を見る。


「そろそろミツバチの時間だ。引き上げるぞ。飯もまだだろ?」


 闘真は一度大きくのびをすると、横田に続いて部屋の外に出た。

 そこには巨大な密林が広がっていた。とても建物の中の景色には見えない。直径525メートルのスフィアラボの実に六分の一を占めている密林である。7000万立方メートル以上の空間の酸素供給をまかなうには、これだけの植物が必要なのだ。それでも不十分らしく、より多くの酸素を生みだすよう、ここにある植物類はどれも遺伝子改良されている。

 密林を割るようにそうされた、なんともミスマッチな道を急ぎ足で二人は進んでいく。


「おっと、時間だな。走るぞ」


 腕時計を見て、二人は走り出した。

 てんじようから黒いかたまりが降りてきたかと思うと、水にたらしたインクのように広がっていく。ここからだとよく見えないが、一つ一つがミツバチと呼ばれる指先程度の小型ロボットである。

 スフィアラボの酸素の大部分をまかなうため、ジャングルのように草木が密集しているプラントセクター。その植物の管理育成をまかされているのがミツバチである。役割の一部がミツバチに似ていることからそう呼ばれているが、四枚の羽で宙を飛び交う姿も似ていなくはない。


「なんかぞっとしない光景ですね」


 とうのつぶやきに、横を走るよこは豪快に笑った。


きもたまがちいせえな。安心しろ。ありゃ無害だ。草木の病気調べたり、ミツバチのように花粉を運んだり、みつをあつめたり。ぶつそうどころか、あれがなきゃ人様の手でそのぼうだいな作業やんなくちゃなんねえ。ぞっとしないなんて、ばちがあたるぜ」

「でもミツバチの時間、人追いだされますよ」

「そりゃ危険なんじゃなくて、人が無意味にうろうろされたら、その回避行動で余計なエネルギーうからだよ。ほら、おれたちじやにならねえように、さっさと出て行くぞ」


 道を曲がると扉が見えた。飛び込むようにかけこむ。


「横田けんいちさん、さかがみ闘真さん、運動によるエネルギー消費量が規定値を超えています」


 扉を閉めたとたん、女性的な電子音が警告する。闘真と横田は顔を見合わせて、苦笑いした。


「人のエネルギー消費量も誤差0・1パーセント以内で観測可能なんだとよ。すごいね、メイドインみねしまは。ただちょっとうるせえな。しゆうとめってのは、こんな感じなのかね?」

「僕に聞かれても、わかりません」


 窓の向こうでは、ミツバチと呼ばれるロボットが、せわしなく飛んでいる。

 いささか奇異な光景ではあるが、スフィアラボ内ではまだ平和な日常が続いていた。




「人のエネルギー消費量管理、もうちょっとゆるめていいんじゃないのか? 今日はやけに厳しくないか?」


 モニターを監視していたがねは、をくるりと回して、同僚に同意を求めた。モニター上には今日すでに警告が二千以上あったことを示している。研究員五百七十三人、警備員百五十人、その他スフィアラボをどうしていく上で必要なスタッフや家族達が三百二十人。計千四十三名の人間がスフィアラボで暮らしている。一人平均二回弱程度の警告量である。


「明日ラボで例の実験やるだろ。あれがばくだいなエネルギーをうらしい。そのしわ寄せが、いまおれたちに来てるんだよ」

「スフィアラボの中にラボって施設ってのもねえ。なんかおかしくない?」

「知るかよ」


 答えた男が、大きなあくびをする。

 スフィアラボの状況を監視するこの中央制御室は、建物の規模を考えると、人は極端に少なく、常時五人しかいない。それでもじつは多いくらいなのだ。これも統括管理するスーパーコンピュータLAFIの恩恵なのだが、監視員にとっては退たいくつこのうえない。


「そんな実験、内部電力でまかなわなくていいんじゃないのか? 通常運行下なら、ありえない状況だろ」

「さあね。エネルギー供給の限界でも調べておきたいんじゃないの。実際30パーセントほど余裕あるから、申請するか? この調子だと、午後には警告鳴りっぱなしで、うるせえし」


 そのとき来訪を告げるノックが、耳に届いた。がね達は同時に、外に設置されている監視カメラの映像を見る。


「おお、ラボのマドンナ、みやさんでは、ありませんか!」


 喜び勇んでドアを開けようとする小金井に向かって、同僚がぽつりとらす。


「お前、幸せだよな」

「おおよ。うらやましいか」


 同僚はあきれたため息をつく。

 小金井が扉を開けて瑠璃子を招き入れるそのとき、ちょうどその音が聞こえた。かすかににじいろのグラデーションを見せる外壁ガラスの外に、大型の輸送用ヘリコプターが姿を見せた。


「なんだ?」




 スフィアラボの全景を説明するなら、一言で事足りる。直径500メートル以上のガラス玉。それが海上にぽっかりと浮かんでいるのだ。

 スフィアラボにりんせつする形で、大きな板が浮いている。スフィアラボの玄関口、ヘリポートと小さな港だ。

 着陸した一台のヘリに向かって、警備責任者のかんが険しい表情で近づいていった。後ろからは部下が何人かついてきている。

 神田は警備の仕事に誇りを持っていた。スフィアラボは世界的にも注目されている実験施設だ。導入されている技術は、あのみねしまゆうろうのオーバーテクノロジーがふんだんに使われている。産業スパイや他国にとっては宝の山である。

 だから彼は少しでも怪しいものは、受け入れないという姿勢を持っていた。

 すでにヘリからは何人かが降りて、コンテナを下ろす作業をしている。


「ちょっと待ってくれ。資材のはんにゆう予定は来週と聞いていたが?」


 指示を出している責任者らしき男に向かって、かんは声をはりあげる。


「ああ、なんですかあ?」


 ヘリのローター音がうるさいのか、どこか暗い目をした男は聞き返した。


「だから、搬入は予定では来週のはずなんだが?」

おれたちに文句言われても困るよ。今日この時間に運んでくれって言われただけなんだから」

「コンテナの中はなんだ?」

「ああ、テロリスト1セット」


 あまり面白くないじようだんに、神田は顔をしかめた。




「おおっと、いけねえ。大事なこと忘れてたぜ」


 きゆうけいじよのテーブルで配給の夕食を食べながら、とうがヘリコプターのどうをぼんやりと目で追っていると、よこがさもわざとらしい演技で、手をぽんとたたいた。なにか面倒なことをたのむつもりだ。一年以上の付き合いの中で、闘真がまっさきに学習したことである。しようひげもつらの皮の厚さのうちに入るのか、白い目で見てもびくともしない。


「おまえに頼みがあるんだ。聞いてくれるよな」


 ほおら、きた。闘真は聞こえなかったフリをしようかと思ったが、横田はおかまいなしに話を続ける。


「明日一日、セントラルスフィアで俺の代わりに管理しちゃくれねえか」


 あーあ。闘真は口に出さずにため息をついた。

 セントラルスフィア。スフィアラボの全制御をになうコンピュータLAFIのちゆうすうが設置されている、この施設の最重要区画だ。


「あのですね。僕、バイトの身ですよ。セキュリティレベル7。この意味わかります?」

「おお、おまえがしただっていうあかしだ」

「ええ、ええ、どうせ下っ端ですよ。その下っ端がどうやったら、セントラルスフィアに入れるんですか!」

「無理か?」

「無理に決まってるでしょうが。あそこはレベル0ですよ! 入ろうとしてもドアは開かず、代わりに警備員が飛んできますよ!」


 へえ、などとわざとらしく感心する横田は放置して、晩飯をパクつく。品数はなかなか豪勢で、味も申し分ない。完全じゆんかん環境施設とうたうだけあって、材料から調味料にいたるまで、すべてスフィアラボ内でまかなわれている。簡単に言うと自給自足だ。外からの補給は、おてんさまの光と海流のエネルギーのみ。


「なあ、どうしてそんなことたのむのかって、聞いてくれないのか? 気になるだろ、な?」

「気になりません」

「そうか気になるか。しかたない。おまえには特別に教えてあげよう」


 びくともしねえし。とうは疲れたようにはしから口を離す。

 よこはぼろきれのようなバッグから、とても似つかわしくない可愛かわいらしくこんぽうされた箱を取り出した。プレゼント用なのは、いちもくりようぜんだ。ごていねいにメッセージカードまでついている。


「明日はきようちゃんの誕生日なのでーす」


 鏡花とは横田の四歳になる娘の名前だ。目に入れても痛くないを体現する親バカぶりは、横田を見ればインスタントラーメンより早く理解できる。

 体をくねらせる中年男に闘真は頭痛を感じながら、


「そういえば、横田さんも家族組でしたっけね」


 などと当たりさわりのない言葉を返す。

 家族組とは、スフィアラボに家族で住んでいる人たちのことである。スフィアラボの実験の性質上、月単位から年単位で暮らすことを要求されるため、家族ぐるみで住んでいる人達も多い。そうした家族組と言われる人達は百組をゆうに超え、独身組と呼ばれる人達と合わせて、スフィアラボの中にちょっとした町を形成している。

 独身組の中にはいつのまにかくっついて、家族組になる人達もいる。意外と多い。娯楽が少ないスフィアラボの中では、男女の仲は発展しやすいものらしい。いま独身組の男性達の話題の的は、同じ独身組のみやと、どうやって家族組になるかということである。闘真も何回か会ったことがある。バイト君と気安く呼びかけてくれるが、大人おとなっぽく美しい彼女はどことなく近寄りがたい雰囲気があった。


「まあ気持ちはわかりますが。さっきも言いましたけど僕のセキュリティレベルじゃ、セントラルスフィアに入ることは無理なんですよ」

「ほう、気持ちは解ってくれたか」


 横田はにんまりと笑う。いやな予感に闘真は逃げ出そうとしたが、もう遅い。


「つまりだ、セキュリティレベルさえどうにかなれば、おまえは引き受けてくれると。そういうわけだな! ようしおまえの心意気買った!」

「買わなくて……いいです」


 横田はきゆうけいじよのコンピュータターミナルを引っ張り出すと、ごつい指でキーボードを器用にたたく。


「へへ、ちょっと仕掛けがあってな。前に言っただろう? このLAFIってコンピュータには、いま使ってるOSのさらに下に何かあるって。覚えてるか?」

「ええ、まあ。それより、くわえタバコやめませんか? 火ついてなくても、管理部から苦情来ますよ」

「ウチのかみさんみたいなこと言うなよ。まあ聞けや。少し前、OSの下に何が眠っているか、その手がかりをつかんだんだ。本当のLAFIの姿だ。どえらいもんだったぜ。いままでのコンピュータとはまったく設計理念が違う。ようやく少しわかりかけてきたところだ」

「よく解んないんですけど?」

「つまりだ、LAFI社では社長が一番えらいと思ってたら、その裏に会長がいた。おれはその会長にコンタクトできる、直通回線を手に入れたってことだ」

「はあ? 会長と話せると、何かいいことがあるんですか?」

「あたぼうよ。いろいろだれにも知られずいじることができる。たとえば……ほら、できた。今日からおまえはビップになる。セキュリティレベル0だ。どうだ気にいったか? 好きなところ見て回っていいぞ」

「それものすごく問題ありそうなんですけど……」

「気にするな。管理部や保安部が使ってるOSには記録は残らねえ」

「いや、だからそういう問題じゃなくて」

「じゃあたのむな、セントラルスフィアのチェック」


 やはり聞いていない。


「そのあいだ、俺はきようちゃんと誕生日バースデー! 待っててねえ」

「英語と日本語、ちようふくしてます」


 銃声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。




「さあ、どうぞどうぞ。むさくるしいところですが」


 マドンナを案内するがねの態度は、としたものだった。


「ごめんなさい、お仕事のじやだったかしら?」


 中央制御室に招くと、みやはいつものようにつつましい態度で入ってくる。目鼻立ちは派手なのだが、そのギャップが人気の秘密でもある。手には彼女によく似合う可愛かわいらしいバッグ。そこに立っているだけで、硬い雰囲気の中央制御室は花が咲いたように華やかになった。


「いえいえ、瑠璃子さんなら大歓迎ですよ。ちょうど退たいくつしてたんです」


 同僚の冷たい視線をものともせず、小金井が瑠璃子に進みでる。


「それで何か御用ですか?」


 同僚は、なるべく事務的になるように努めて尋ねた。

 しかし瑠璃子はそれには答えず、数多く並ぶモニターの一つに目を向けていた。


めずらしいですね。今日ヘリが来るなんて。何かはんにゆうの予定はありました?」


 のマイペースな態度に同僚は肩をすくめた。


「こちらにも連絡が入ってなくて。なんか手違いらしいんですが」


 何か口論をしているらしい映像を見て、肩をすくめる。めずらしいが、ないわけではない。三ヶ月前も似たような手違いがあって、同じようにもめた。


「しかし、今日は暑いですね。ここの真下にある貯水池にダイビングしたくなりますよ」


 瑠璃子はがねの言葉に、口に手を当てておかしそうに笑った。


「知らなかったよ、お前に自殺願望があったなんて」


 同僚の口調はますますあきれていく。

 窓の外のちょうど真下には、大気調整用の電気分解を目的とした貯水池があるが、中央制御室からは、50メートル以上の落差のため、飛び込むなど自殺こうに等しい。


「でも小金井さんの気持ちもわかりますわ。こんな暑い日ですと、涼しげな貯水池の水面の揺れは、見ているだけで気持ちいいですもの」

「そうでしょ、そうでしょ」


 小金井はが意を得たりとばかりに、おおぎようにうなずく。


「おい、待て! 外の様子が変だ」


 同僚が鋭い声を上げる。モニターに信じられない光景が映っていた。次々と倒れる警備員。銃を撃っているのは、ヘリのパイロット。ヘリからは銃器を手にした兵士が何人も現れる。


「くそ。なんだあいつらは。早く警報を鳴らせ!」

「それは、困ります」


 瑠璃子は小さなバッグに手を入れ、中から出したものを後ろから同僚の首に押し付ける。


「え?」


 次のしゆんかん、同僚ののどから勢いよく血が吹き出し、コンソールをに汚した。瑠璃子の手の中できようのナイフが、くるくると回る。

 他の監視員がとっさに反応し銃を抜くが、瑠璃子のあまりに思いがけない、次の行動に動きが止まった。全員が注視する中、瑠璃子は自分の服に指をかけると、一気に左右へ引き裂いた。しかし体があるはずの空間には、何もなかった。空っぽだ。瑠璃子が服をかなぐり捨てると、残ったのは最初からしゆつしていた肌の部分、頭と手、それに手の中の血にれたナイフだけが宙に浮いている。


「うふふふふ」


 あでやかな笑い声と共に、頭と手がうっすらとかすむように消え、瑠璃子の姿は完全に見えなくなった。

 全員の硬直が解けたのは二人目のせいしやが、喉から血を吹き出して倒れたときだ。混乱する中、さらにもう一人。姿の見えないナイフのさつりくしやは、犠牲者を次々と増やしていく。

 十秒とたたないうちに中央制御室は血に染まり、死体が散らばった。その間小金井はぜんとしているしかなかった。何が起こったのかまるであくできなかった。


「いったい、どういう……なんのじようだん?」


 震えるがねのどに、ナイフの冷たいかんしよくが押し当てられる。消えたときと同じように、がにじむように現れた。


「革命の始まりよ」


 せいえんな笑みをこぼし、瑠璃子は小金井の喉を引き裂いた。



 とうよこの聞いた銃声は一つで終わらなかった。最初は立て続けに、次に断続的に、それもやがて収まり、痛いくらいの静けさが訪れる。


「横田さん、いまの!?」

「闘真、ここにいろ! おれは制御室に行ってくる!」


 そう言って、横田はだん見せたことのないしゆんびんさで、かけていく。闘真も動くべきかどうか迷ったが、しばらく静観するほうを選択した。へたに動いて横田にめいわくをかけたくなかった。

 五分待ち、十分待ち、しかし何も起こらなかった。おかしい。いまの銃声はどう見ても警備上問題ありそうだ。警報の一つも鳴らないのは、おかしすぎる。

 ──何かが起こってる。

 闘真は確信すると行動を起こした。制御室に行くのはもしかしたら危ないかもしれない。しかし横田の身が心配だった。

 廊下を走り、建物をつなぐチューブ通路を抜け、制御室まで行く。このときまで闘真はだれにも会わなかった。

 おかしい。おかしすぎる。頭の中の警報はますますひどくなる。現実は冷めたように静かだ。

 闘真が制御室の前まで来ると、扉が開けっ放しになっていた。鼻に異臭がこびりつく。見なくても、中の様子が想像できた。扉の横に体を張り付かせ、そっと顔をのぞかせる。

 血の海だ。中の人間全員が血まみれになって倒れていた。


「そんな」


 予想通りの光景でも、闘真の動揺は激しかった。しかし悲観しているひまはない。早くこのことを知らせなければ。中は血まみれの警備の人間以外、誰もいない。

 おそるおそる中に入る。物音一つしない。

 コンソールの上につっぷしてすでに事切れた人の体をどかすと、両手に血がべっとりとついた。ねばつく感触にあわててぬぐったがとれない。服を汚しただけで終わった。

 警報のスイッチを見つけ、闘真はたたくようにそれを押す。しかしあたりは静まり返ったまま。闘真は何度も何度も押したが、何も変わらなかった。


「なんでだよ、なんで鳴らないんだよ」


 嘆くとうだれかが気づいたのか、うめき声がした。生きている人がいると思って振り返ると、闘真の顔がさらに青くなる。


よこさん!」


 急いでかけよろうとして、足が血ですべって転んだ。服が雨でれたようになる。それでもうようにして横田のそばに行った。


「横田さん、横田さん、だいじようですか、しっかりしてください!」


 手遅れなのは見てすぐにわかった。服はぐっしょりと血で汚れ、横田がうめくたびに、それはさらに広がっていった。


「よお、……坊主か」


 横田の口からごぼごぼといやな音がした。き込むと大量の血をき散らした。


「いま助けを呼びます」


 立ち上がろうとする闘真を、横田がつかむ。


だ。おれはもう助からねえ」

「そんなことない!」


 叫びながら、横田の言葉が正しいことをすでに自覚していた。横田は長くもたない。あと一分か二分か。冷静な分析ができてしまう自分にけんかんいだく。


「早く逃げろ。通信機は使えねえ。外の人間にこのことを伝えるんだ」

「絶対伝えます。だから……」

「それと一つ、たのみがあるんだけどよ」

「解りました。だからしやべらないで!」

「悪いな、いつもいつも……、おめえには本当に感謝してる」

「僕だって横田さんにどんなに世話になったか。だから、お願いだから!」

「これを……」


 横田の震える手には、血で汚れたプレゼントの箱。


「……俺、届けられそうにねえから。おめえに頼むわ」

「届けます。届けますから。だから……」


 横田の体から流れる血は、じゆうたんのようにまわりに広がる。


「悪いな……きよう。今年も約束……やぶっちまった……」


 横田の目から光が消えた。眠るような死ではない。見開いた目とゆがんだ顔は、はっきりと怒りと悲しみが刻まれている。すべてを無理やり奪われた、無残な死である。


「……横田さん、横田さん」


 涙がぼたぼたとこぼれた。こぼれた涙が、床の血だまりではねる。握り締めたこぶしの中で、プレゼントの箱が、ひしゃげた。


「感動のお別れはおしまい、バイト君?」


 突然、後ろから女性の声がした。聞き覚えのある声に、あわてて振り返ったがだれもいない。


「うふふ、やっぱりあなた可愛かわいいわ」

「まさか、みやさんですか!」

「あら、いつも言ってるじゃない。でいいって」


 部屋のすみずみまで見渡す。誰もいない。目に入るのはむごたらしい死体だけ。頭がおかしくなったのだろうか。


「じゃあ、あなたも後を追いなさいな。バイト君」


 首筋に寒気が走った。反射的に体を引こうとしたが、足を血ですべらせた。何かがのどをかすめる。ころんだ拍子に床の血がはね、それは空中で止まった。見えない何かに付着したかのようだ。しかしその血もすぐにかすむように消えた。


「と、透明人間?」

「あはははは。そうね、そうとも言えるわ。光学迷彩。あなたも高校生なら、このくらいのSF用語は知ってるでしょう?」


 知っている。光のくつせつをコントロールしてカモフラージュする技術だ。効果は見てのとおり、と言っていいのかわからないが、とにかく見えなくなる。


「ふふん、おしゃべりはここまで」


 とうはしりもちをついた体勢から無理やり後ろに下がった。鼻先で何かが通り過ぎる。それがきっとここの人たちの命を奪ったものだと、直感した。

 人の足音がいくつも迫る。希望をたたえ部屋の外を見たとうの目は、だがすぐに絶望に染まった。ゆいいつの扉の先には知らない格好をした武装集団。控えめに見ても、味方なんて雰囲気ではなかった。

 スフィアラボは何者かにじゆうりんされようとしている。よこが死に、大勢の人間が死に、さらに自分が殺されようとしている。じんな暴力に、闘真の中で怒りの感情が芽吹く。

 がいるはずの空間を、闘真はにらみつけた。


「なに!?」


 闘真の視線に込められた殺意の濃さに、姿なきさつりくしやいつしゆんひるむ。

 闘真はそのすきを逃さない。瑠璃子の背後にひび割れた窓ガラスがあった。ガラスの向こうは、50メートル以上の高さがある空間。だが闘真にためらいはなかった。その隙に乗じてわきを抜け、窓ガラスに体ごとぶつけた。

 闘真の体が窓ガラスの外に落下する。


「まさか自殺?」


 おどろいた声と同時に、何もない空間に女の体が現れた。みや瑠璃子だ。体にフィットしたみようなスーツを着ている。それが女の体を視覚から隠していたのか。


 瑠璃子があわてて割れたガラスの下を見ると、はるか下方で大きく揺れる水面が目に入った。うかつだった。制御室の窓の下は貯水池だ。しかしまさかこの高さを飛び降りるとは。いや、それよりもほんの一瞬だけ見せた、瑠璃子がされたあの殺気はなんなのか。とてもだんの、のほほんとした少年のものではない。


「首尾はどうだ、瑠璃子?」


 背後からの声に瑠璃子の雰囲気が一変した。険しい表情が、一瞬にしてこうこつへと書き換えられる。


「申し訳ありません。一人逃がしてしまいました」


 うわずった声で報告した相手は、線の細い若者。長身、整った顔立ち、黒ずくめの衣装、数ある特徴を圧倒して、表に出ているのは自信。表情から、立ち振る舞いから、全身から、自信をあふれさせる若者の名はかざりよう。スフィアラボをせんきよしつつある武装集団の若きリーダーである。


「かまわん。LAFIファーストのコントロールルーム、セントラルスフィアに降りるぞ。そこを制圧してしまえば、だれもスフィアラボから出ることはできない」

「はい、風間様」



        2


 TV局や新聞社名のロゴが描かれた取材用ヘリコプターが何機も、ところせましといつしよに集中し、ひしめいていた。眼下にはおおうなばらの中にあってもひけをとらない巨大な研究施設スフィアラボ。彼らの取材の対象である。


「みなさま見えますでしょうか、海上にそびえる巨大な建築物が。直径525メートル、日本の、そして世界の未来をかけて作った巨大研究施設スフィアラボが、何者かによってせんきよされました」


 リポーターがこうふんを隠しきれない声で、報道する。みねしまゆうろうの発明、遺産と呼ばれる物をねらった事件はいくつかあるが、今回の事件はいままでの中でもとびきりの規模である。


「すでに事件発生より十七時間経過していますが、いまだに犯人グループからの要求はなく、警官隊も目立った動きを見せず、依然こう着状態が続いています。はたして何が目的なのか、中で何が起こっているのか、時間が経過するごとに不安は高まっていきます」


 報道ヘリコプターをけん制するかのように、警察しよかつのヘリも何機も飛んでいる。


「未確認の情報によりますと、犯人グループの占拠からただ一人難を逃れた少年がいるとのことです。その少年の勇気ある決死の行動により通報が警察に届き、今回の事件、スフィアラボ占拠事件が明るみになったという、そういうけいのようです」


 リポーターはイヤホンに集中するしぐさをし、さらに興奮した様子を見せた。


「あ、いま、通報した少年らしい姿を別のカメラが捕らえたとのことです。では、カメラを」


 リポーターの声がちゆうで途切れ、カメラは別の上空からの映像に移った。


「はい、こちらXXX町の警察署の上空です。たったいまうわさとなっている少年らしき人物がたんで運ばれています。見えますでしょうか? ……あれです。いまヘリコプターに乗せられました。ヘリコプターのロゴが見えます。レガシーカウンター! LC部隊のロゴです。やはりと言うべきでしょうか。峰島勇次郎の生み出したオーバーテクノロジー、遺産と呼ばれる技術にかかわる犯罪対策部隊。やはり彼らが、LC部隊がでてきました! しかし少年がLC部隊のヘリコプターに乗るとは、どういうことなのでしょうか。考えられるのは、なんらかの情報提供なのでしょうが、ヘリコプターはどこに向かうというのでしょうか」


 こちらのリポーターもイヤホンに耳を傾け、残念そうな顔をした。


「え? しかし……はい、わかりました。……ええ、失礼しました。ここから先は航空管制に規制がかかり、LC部隊のヘリコプターを追うことが不可能になりました。それではカメラを……」



        3


 古い色あせたセピア色の光景。とうは、ああ、またあの夢かといんうつな気持ちになる。夢と自覚する夢、めいせきと呼ばれるものだが、夢の映像は闘真のおくから構成されている。いまわしい、あの事件の記憶から。

 夢はまるでフィルムをでたらめにつなぎ合わせたように、一部は欠落し、時間の流れもばらばらである。何もかもあいまいで、しんろうのようだ。それなのに血のにおいだけはいやになるくらい明確で、その臭いにしよくはつされ、色あせた記憶の中で赤だけがせんめいになる。

 めいりような像が形を結ぶ。人が倒れていた。一人や二人ではない。広い平原を敷き詰めるように、何人も何人も。闘真の立つ丘の頂を中心に、無造作に。

 みんな死んでいる。一目見ただけでだれでもわかる。五体満足な体は一つもない。ばらばらになったマネキンのように、細かいパーツに分断され、散らばっている。恐怖と苦痛に顔をゆがめ、恨みがましく闘真をにらんでいる。睨んだまま、死んでいる。

 ──ああ、なんてことだ。

 言葉にならない嘆息をこぼす。しかしそれは意識だけで、夢の中の闘真の像はそんなことはしない。ただ口元に笑みを浮かべるだけ。


「た、助けて……」


 誰かの声が足元から聞こえる。


「死にたくない……」


 一人の男が、地面をはいずり遠ざかろうとしている。闘真とその男の間には、延々と血の川が、いまも生きて流れている。

 闘真の目が、笑った。喜悦の笑みである。

 ──やめろ。

 心の叫びは、しかし笑う闘真には届かない。


「誰か……」


 笑ったまま、右手を振り上げた。

 ──やめるんだ。


のろわれた子供め……」


 右手にはれた刀が握られている。

 ──やめろおおお!

 それはに、振り下ろされた。視界がさらに赤くなる。


「見事!」


 父の姿がいずこからともなく現れ、さも痛快に叫んだ。


まががみ、ここにかいげんせり」



        4


 とうの意識はかくせいした。悪夢だったが目覚めは静かだった。

 ここはどこだろう。もうろうとした意識の中、体がかすかに揺れている。何かの乗り物に乗っているらしいことに気がついた。


「事件発生からもう十八時間たちますが、いまのところ犯人側からなんの要求もありません」

「そうか。だいたい書類には目を通した。さかがみ闘真、十七歳……母子家庭か。現在は一人暮らし。母親は海外」


 書類をめくりながら、四十前後の男性が、となりの若い背広姿の男性と話している。二人とも目つきが鋭く、かたといった雰囲気ではない。


「報告が入りました。スフィアラボの全セキュリティロックは解除不可能。非常回線も通じないとのことです。スフィアラボもそれを制御するLAFIファーストも完全に敵の手に渡ったと思っていいでしょう。このままだと突入は不可能ということになりますね」

「やはり、あれを使うしかないか。あまりいい顔をしないだろうな、きし博士は」

さんも、人の顔色を気にするんですね」

「君は、私をどう思っているんだね? ふむ、しかしこの少年は、なかなかの行動力だな。まだ肌寒い海をしかも夜に、十六時間も泳いできたか。精神力も相当なものだ。水泳部にでも入ってるかと思えば、何も活動はなしか」

「そうなんですよ。でも見れば体はきたえられている。実戦向きの鍛え方なんです。ちょっとおかしいと思って、さらに調べさせました」

「何かあるのか?」

「そのお手元の資料の作成には間に合わなかったんですが、父親がだれなのか見当がつきました。おどろきますよ、その名を聞いたら」

「もったいぶらずに言ってみろ」

「あのまな家の当主、真目らしいです」


 伊達と呼ばれた中年の男の険しい顔がさらに厳しくなる。


「……確かか?」

「間違いありません」

「真目家はみねしまゆうろうを毛嫌いしていると思ったが。系列会社は峰島製の技術をいっさい排除するてつていぶりだ。そんな真目家の血縁者が、峰島勇次郎の技術のけつしようであるスフィアラボで働くか? それで、この少年と真目家の交流はあるのか? 時々会いに行くとか」

「いえ、父親とはなさそうなのですが、娘の真目を知ってますか? その娘とは時々会っていたようです」

「ナンバー2とはこんにしてるというわけか。なかなか複雑そうな家庭環境だ。あそこの男子は、なんとか流だかの武術を受け継ぐのがならわしだったな」

なるかみりゆうです。海を泳ぎきったのもうなずけるかと」

「ほお。しんちように事を運べ。まな家にケチをつけられたら、後々面倒だぞ」

「あの……」


 とうは恐る恐る言葉をはさんだ。ずっと言葉をかけるタイミングをいつしていたのだ。


「起きたか? さかがみ闘真君。私はしんADEMアデムの責任者をしている」


 そう言って、ごういんに握手を求めてくる。


「ここ、どこですか?」

「ヘリの上だ。心配ない。君がさっき警察署で話したことを、もう一度ある人物に聞かせてもらいたいだけだ」

「はあ」


 本人のしようだくもなしに連れて行かれるのかと思ったが、細かいことは気にしないでおく。考えるのもおつくうなくらい疲れていた。


「それで、どこに向かってるんですか? あのアデムって?」

「The Administrative Division of the Estate of Mineshima。略してADEM。日本語ではみねしまの遺産管理局と言ったところか。現在向かっているのはADEM施設の一つ。NCTを研究しているところだ」

「NCT?」

「Non-CognizableTechnology。略してNCT。認識外テクノロジー。峰島ゆうろうの発明は総じて常識はずれの物が多い。皮肉を込めて、我々はこう呼んでいる」

「伊達さん、目的地が見えてきましたよ」


 ヘリはゆっくり降下し、静かに着陸した。

 闘真はヘリを降りてあたりを見渡すが、道らしい道は何もない。目の前にある鹿でかいコンクリートのかたまりみたいな建物とヘリポート以外、人工の香りはしない。


「車ではこられない場所なんですね」

「そうだ。行くぞ、時間がない」


 何もわからないまま状況に流されている気がしないでもないが、たぶんそうしたことをあくしている時間はないのだろう。スフィアラボの出来事を思い出し、闘真は体を一度大きく震わせた。

 伊達に導かれ、コンクリートの塊に近づいていく。いつしよだけ、何かのじようだんのように扉があった。その扉の前に、初老のかつぷくのいい男性が待ち構えている。


「お待ちしていました。わざわざこんな山奥に出向かなくても」

「出向く理由がある。だから来た。例のモノの用意はできているか?」

「準備はできています」


 初老の男は少しだけ顔をゆがませ、いやな話題から話をそらすようにとうを見た。


「その前に、そちらの少年がそうですか?」

さかがみ闘真君だ。スフィアラボせんきよ事件で、ゆいいつあの場から逃げ出せた少年だ。彼の話を、アレにも聞かせたい。坂上君、こちらはこの研究所の責任者、きしぐんぺい博士だ」

「はじめまして、坂上闘真です」


 研究所というのは目の前のコンクリートのかたまりのことだろうか。いったい何をこんな場所で研究しているのか興味がわいた。


「岸田です。わざわざこんなところにようこそ」

あいさつは終わったな。では例のモノのところに案内してもらおうか」


 の態度は一分一秒でもしいと言いたげである。

 岸田博士は少しだけ伊達をにらみつけると、建物の中に向かって歩きだした。伊達は当然のごとくその後に続き、闘真もあわてて二人の後ろ姿を追った。いまだに状況があくできず、右往左往している自分が少しくやしい。


「ここに何があるんですか?」

「来ればわかる」


 しかし建物の中に入っても、ドアがいくつか左右に並んだだけの無機質な通路を進むだけで、どういうところなのかまるで見当がつかない。


「ここはNCTの研究所なんですよ」


 闘真の様子を察してか、岸田博士が柔らかい口調で教えてくれた。

 うわっ、と闘真は口に手を当てる。いまになって、NCTにかかわるうわさを思い出したのだ。アメリカに宇宙人の基地があるというくらい、怪しげにささやかれている研究所。


「き、聞いたことはあります」

「ふむ。どんなことです?」

「いわく日本は一人の天才科学者の技術の独占をねらっている。いわく裏から世界をぎゆうろうとしている。いわく……」

「独占とは人聞きが悪いですな。危険な技術を保護しているとかいしやくしてほしい」


 前を歩く岸田博士が顔だけ振り向いて、苦笑いをした。


みねしまゆうろう氏は数々の発明発見をしましたが、あいにくそれは世界中に散らばったままなんですよ。その中には無害なものもあれば、とても危険なものもある。運良く我々がそれらを先に手に入れた場合は、みつに保護し、ここに眠らせておくのです。そしてしかるべき時にしかるべき形で、世に送り出す。しかし諸外国にとってはそれは面白いことではないでしょう。だからこのNCT研究所は、極秘扱いになってるんですよ」


 それってやっぱり独占って言うんじゃないのか、ととうは思った。スフィアラボは公開され、国連の認知も受けた正式なものだ。しかしここは違う。いんぺいにおいがぷんぷんする。

 しかし思うだけで口には出さないでおく。と違い、きしは人がよさそうで、あまり彼がかいになりそうなことは言いたくない。

 思ったよりもえない状況にいる自分に、闘真は少し焦りを感じていた。安易についてきすぎたかもしれない。いまからでも引き返そうか。


「あの、どうしてなんですか?」

「何がだ?」

「ただの高校生をこんな場所に案内して。僕に何をやらせようというんです?」

「君がただの高校生かどうかはともかく、あまり身構えないでいい。話をするだけだ。何をそんなに警戒している?」

「ほら、よくあるじゃないですか映画とかで。ここで見たことは外にらすな。もしも秘密をばらした場合は……」


 闘真は自分の首を切るまねをする。


「はっはっはっ、カンがいいな」


 伊達はおかしそうにひとしきり笑うが、顔はじようだんを言っていない。


「まあ、言いたくなっても言えないと思うがね」


 意味深な言葉を残して伊達は口を閉じた。


「この先に地下に降りるエレベーターがありますが、その前にセキュリティチェックが入ります。そこから先は、日本でも数えるほどの人間しか知らない最重要機密エリアです」


 岸田博士の説明に、闘真の顔はますますこわった。



 案内されたのは、四畳程度の小さな部屋だ。

 ドアを閉めると同時に、青いランプがともった。てんじようすみから、糸のような赤い光が、三人を格子状にスキャニングしていく。


「大脳皮質番号〇〇〇〇一〇一、岸田ぐんぺい、特級権限、二十七項目の照合一致しました」


 どこからか電子的な女性の声が聞こえる。


「大脳皮質番号一〇〇二〇〇七、伊達しん、一級権限、二十七項目の照合一致しました」


 つづいて伊達の名を呼ぶ。

 最後に闘真を赤い格子状の光がおおうと、


「大脳皮質番号の登録がされていません。ただちにこうそくします」


 とたん、けたたましいサイレンと共に壁のあらゆるしよが開き、銃口が突き出た。スキャニングとは別の意味を持つ、赤外線照準の赤い光が、全身を埋め尽くす。


「え、あ、ちょっと?」

「動かないでください。指示に従わない場合は、強制排除します」


 うろたえるとうに、電子音声は冷たい言葉をあびせかける。冷や汗が全身から吹き出た。


「いや、あの、どうにかしてくださ……」


 銃声が一発、ほおをかすめた。血のかんしよくが、頬からのどのほうに流れていく。


「次はかくではありません。動かないでください」


 電子音はどこまでも冷たい。言われたとおり闘真は一歩も動かず、口も開かず、彫像のようになることにてつした。おそらく次に行動を起こした場合はいやおうなく、壁から突き出ているあらゆる銃口が火を噴くだろう。

 いったい自分は何をされているのか。どうしてこんなところにいるのか。どうして説明もなくこんな目にあわなければならないのか。

 命の危機とじんさ。

 何かが腹のそこでぞわりと、波打った。そのしゆんかん、まるで比べ物にならない恐怖が、闘真の心をおおいつくした。腹の中のうねりは、徐々に徐々に大きくなっていく。全身をくまなく染め上げ、外にい出そうとしている。

 それはじゆんすいなまでに暴力的な力であった。

 ──まずい。

 本能よりさらに深いところで、闘真の心は危険信号を発していた。恐怖に目をつむる。かつて人間だったモノの肉片が散らばっている光景が、まぶたの裏に克明によみがえった。

 きようぼうなうねりはさらに速度を増し、全身に広がる。恐怖がさらに深くなった。あらがえない。いや、あらがうという発想すら生まれない。肺がつぶれそうにしゆくし、喉の奥から熱い息がこぼれる。火傷やけどしそうに熱い。自分が吐き出したと信じられないほどに熱い。

 うねりは心までしよくしゆを伸ばす。心が壊れる。れつが入る。

 突然、なんのまえれもなくうねりは去った。いや消えたといったほうが適切か。心と体が一気に軽くなった。

 放心し体がくずれそうになるのを、一歩手前で踏みとどまる。ここで動いたら撃たれる。


「ああ、忘れていたな」


 がみょうにのんびりした声で言った。


「彼はゲストだ。私の権限により二十四時間だけ、三級、いや二級権限を与えてくれ。名前はさかがみ闘真」

「了解しました。一級権限により、未登録者に限定二級権限を発行します」


 電子音が答えると同時に、放心する闘真の側頭部にまばゆい光が集中する。なんだろうと思うまもなく、なぐりつけるようなしようげきが頭部をおそい、体が真横に吹っ飛びかけた。


「大脳皮質番号二〇〇三一二三、坂上闘真、限定二級権限を発行しました」


 激しい頭痛と耳鳴りのなか、ようやくその声だけを聞き取る。大脳皮質番号という言葉に不安を感じる。


「だ、大脳皮質番号?」

「脳に直接認識番号を書き込む。複製は不可能だ」

「の、脳に?」


 しようげきを受けたこめかみの上あたりを恐る恐る指でなぞる。心配したようなも異常もなさそうだ。


だいじようなんですよね?」

「いまのところ、これで障害を起こした人間はいない」


 安心していいのか悪いのかよくわからない答えが返ってくる。


「心配いりません。神経細胞はけて刻印してあるので」


 きしがあわてて付け足した。

 頭も開けずどうやって脳に刻むのか聞きたかったが、理解不能な答えが返ってきそうなのでやめた。


「さ、行くぞ」


 胸に手を当て目をつむる。大丈夫、うねりは消えた。あんな悲劇はもう起こらない。


「どうかしましたか?」


 岸田が心配そうにエレベーターの中から顔をのぞかせる。とうはあわてて首を横に振り、小走りにエレベーターに乗り込んだ。

 ついらくしているとさつかくしそうなほどに、エレベーターの下降速度は速かった。頭に血が上る。

 ──まががみ、ここにかいげんせり。

 父の言葉が脳裏によみがえる。ずっと封印していたおく。夢に見たせいさんな光景。悪夢ならまだいい。あれは現実だ。スフィアラボの出来事にしよくはつされて、眠っていたものが再び目覚めようとしている。


「本当に大丈夫ですか? 気分が悪くなったりしていませんか?」

「はい、大丈夫です。ただ、ずいぶんと降りるんだなと思って」

「地下1200メートルまで降ります」

「そんなに? いったいそんな地下に何があるんですか?」


 そろそろまんの限界だという意味を込めて、にらんだ。


「まあ、いいだろう。説明しよう。みねしまゆうろうの発明が起こす事件の危険さは知っているな。その対処のためレガシーカウンター、通称LC部隊が創立されたが、いずれそれでも対処できない事態は予測されていた。思ったよりも早く起こってしまったがな」

「スフィアラボの事件ですか?」

「そうだ。その事態にそなえての切り札が、この地下にある」

「切り札?」

みねしまゆうろうの最高けつさくです」


 誇らしげに語るきしの言葉と共に、エレベーターが止まった。地下1200メートルに到着したらしい。

 エレベーターを降りると、みような光景が目に入った。

 床が全面ガラス張りになっている。ガラスの下の光景の意味を、とうははかりかねた。

 それはなんてことはない普通の、しかしこの状況においては異常きわまりない光景であった。ガラスから大きく見下ろす形で下に広大な空間が広がっている。その空間にはソファやテレビ、テーブル、など日用品が並び、床にはカーペットが敷き詰められている。一面の壁の棚は本でびっしりと埋まり、その量はちょっとした図書館並みといえた。空間を仕切る壁もある。

 少々広すぎるが、家の屋根を外し、上からのぞいているような状況であった。

 だれかが生活しているのだろうか。こんなところで。プライバシーも何もない。


「さあ、この先です」


 岸田博士の案内に従いさらに奥へと進む。



 体育館程度の広い空間だ。

 何十人もの銃を構えた警備兵が、かべぎわに並んでいる。吹き抜けの二階の回廊にも、同じように警備兵が並び、銃を構えていた。銃口はすべて、部屋の中央一点に向けられている。いったいどれほどのものが、そこにあるのかと思えば。

 少女が一人、ただ立つのみ。

 しかしその姿が普通ではない。

 病院で着るような薄手の服、そこから伸びる白い手足は、冷たい色を放つこうそくで固定されていた。顔もよくわからない。目も口も大きくふさがれているのだ。拘束具だけではあきたらず、四方から伸びるピンと張ったくさりが、少女をいま立つ位置に固定していた。

 少女の中でゆいいつ自由を感じさせるのは、背中に大きく広がる黒髪だけである。

 もう一点、場にそぐわないものがあった。いや聞こえてきた。ロック音楽が大音量で部屋いっぱいに鳴りひびいているのだ。耳が痛いくらいに。

 闘真はまるで理解できなかった。いったいこの状況はなんなのか。


「これは……」


 このあくしゆな光景はなんなのかと、に問いただそうとして、さらにもう一つ奇妙な点に気づく。

 目隠しをされ拘束された少女と、銃を構える警備兵。非常に大げさな規模ではあるが、どこか銃殺刑を連想させる光景と言えなくはない。だが、一つだけ決定的に異なる点がある。震えているのは、なぜか銃を構えている警備兵のほうだった。一人二人ではない。全員が青ざめた顔をしている。

 それに比べ表情は見えないが、少女におびえる様子はなく、それどころか余裕すら感じられる。まるで逆ではないか。となりさえもきんちようしているのがわかった。

 少しだけ少女が身じろぎをした。そのしゆんかん、警備兵たちの間に流れる緊張がさらに高まった。誤って発砲してしまう警備兵がいてもおかしくない。緊張がクモの糸一本で保たれている。

 ただいつしよ、少女のまわりだけは、その格好と裏腹にどこか涼しげである。

 ──みねしまゆうろうの最高けつさく

 きし博士の言葉を思い出す。この状況でまわりを圧倒している、あの少女がそうなのだろうか。だがとてもそうは見えない。じんで非人道的な扱いを受けている、ただの少女にしか思えない。


「彼女が、峰島勇次郎の最高傑作です」


 岸田博士はエレベーターの中と同じ言葉を繰り返す。違うといえば、その口調にかすかな悲しみがまじっていることくらいだ。


「最高傑作?」

「ええ」


 とうの質問にうなずく。


「いつもと曲が違うな。どうしたんだ、これは?」


 部屋のすみのスピーカーを見て、伊達は顔をしかめる。


「こういう音楽は、しょうに合わないな」

「同じちようかくを狂わせるものなら、せめて彼女の要望をと思いまして。まずかったでしょうか?」

「いや、それでおとなしくしてくれるなら願ってもないが。こういうのがしゆだとは知らなかった」


 伊達は不審をぬぐいきれない表情でロックに耳を傾けている。


「音楽ならなんでもきますよ。クラシック、ポップス、演歌、ハードロック」

「聴覚を狂わせる?」

「ええ、危険なんですよ、彼女に周囲の音を聞かせるのは。いや、音に限ったわけではないのですが。危険というなら五感の刺激全部が危険です」


 闘真の質問に岸田博士は答えてくれるが、どれもこれも説明不足で何を言おうとしているのか解らない。おひとしそうな顔で、わざとそうしているとも思えなかった。


「もしかして、彼女は遺産の技術で、肉体的に強化されているとか? そういうことですか?」

「いえ、そんなことはありません。きたえられてはいますが、筋力ならあなたのほうが上でしょうね。五感も鋭いですが、超人というわけではありません。誤解のなきよう言っておきますが、彼女に遺産の技術はいっさい使われていないのですよ」


 ますますわからなくなる。ならこの扱いはなんなのだ。


ばなしをしているひまはない。行くぞ。きし博士はここで待っていてくれ。私とこの少年で行く」


 不満そうな岸田博士を残して、とうを連れて部屋の中央目指して歩く。そこには一人ぽつんと立っている少女。

 警備兵たちきんちようかんが、さらに高まっていくのが解る。いつのまにか伊達の額にも汗が浮いていた。

 どう見てもこの少女に何か特別なことがあるとは思えない。どうしてだれも彼もがこんなに警戒しているのか。この大げさすぎる包囲網はなんなのか。答えはまったく見つからなかった。じん、不可解、何か大変なことが起こりつつある。闘真の頭の中の警報は、いまや最高潮に達しようとしていた。

 そのとき、ぱらぱらと何かが上から降ってきた。足を止め上を見ると、全面ガラス張りてんじようから観察している研究員達の姿が見える。場所こそ違えど、さっき通った通路と似たような構造だ。天井から見下ろされて観察されるなんて、あまり気分のいいものではない。


「どうした? ん、あれか。あれは厚さ20センチの特殊強化ガラスだ。ちょっとやそっとで割れることはない。さっき通った通路も同じ材質だ。今度はおれ達が見下ろされる側だがな」


 説明をしながら伊達は歩く。その先にこうそくされ動けない少女。近づけば何か解るかと思った。しかし何も解らなかった。肌が白いということくらいだ。警備兵が震える理由にはならない。

 何も解らないまま、少女の前にたどり着いた。闘真と伊達の気配に気づいたのか、うつむいた顔を持ち上げる。細い首の上は無残だ。目隠しとさるぐつわが、きつく肌に食い込んでいた。


「顔だけでも、はずしてあげられないんですか? ひどいですよ、これは!」


 伊達はちらりと闘真のほうを向いただけで、いいとも悪いとも言わない。どっちでもいい。闘真は体が先に動いていた。少女に近づき「だいじよう?」と声をかけ、顔の拘束具をなんとかはずそうとする。


「あ、あれ? はずれない。おかしいな」

「特注の電子ロックだ」


 伊達が投げよこしたカード式のキーを受け取ると、さぐりで長い髪に埋もれた拘束具のスリットにそれをスライドさせる。キーを口にくわえ、顔からていねいに、拘束具をはずした。

 少女の顔があらわとなる。


「あ……」


 呼吸が止まった。闘真の手から拘束具がこぼれ落ちる。少女の顔は、心臓が止まるかと思うほど美しかった。

 まばたきすれば音がしそうなほどに長いまつげ、伏せられたそれがゆっくりと開く。奥にあるひとみは、底のないやみを連想させる。吸い込まれそうなほどに深い。


 けいこくの美女という意味では、確かに彼女は危険かもしれない。ただし三国志の時代ではだが。

 少女が真正面からとうを見る。気負いもおくれもないまっすぐなひとみ。闘真のほうが一歩下がってしまう。いや実際は下がる余裕もなかった。足が地面に張り付いてしまっていた。


 少女はわずかに視線をそらせ、闘真の背後にいるを見る。こくようせきの瞳が、さらに鋭くなった。


「ひさしぶりだな。半年近くになるか」


 伊達の声は少し硬い。

 少女は少しだけ顔をゆがめ、何かを床に向かって吐き捨てた。えきにまみれた布が転がる。舌をかまないようにだろうか。ぼうにそぐわない粗野な振る舞いが、なぜかよく似合った。


「ひさしぶり」


 少女は笑う。初めて見せた感情らしい感情は、日本刀の切っ先を思わせた。怖いくらいに美しくそうぜつである。

 少女は部屋の中をすみずみまで見渡す。視線があうたびに、警備兵たちの空気が一変する。警備兵達は少女の美しさにれるより、警戒心と恐怖を強めているようだ。


「ずいぶんと物々しい。あいかわらずおくびよう

「臆病で結構。それで生きながらえるならいくらでも臆病になろう。とくにおまえに会うなら、臆病すぎるに越したことはない」

「それは賢明」


 少女はのどの奥で笑う。


「それでなんの用事?」

「おまえに手伝って欲しいことがある」

「答えはいつもといつしよだけど」

「今日はうなずいてもらう」

「それはどうかな?」


 少女はロックの音楽に合わせて、少々調子っぱずれな鼻歌を歌った。ロックの音に混じり、てんじようの強化ガラスがビリビリと鳴っている。


きし博士、少し音量を下げてくれ。天井のガラスが振動している」

「いえ、いつもと同じ音量なんですが。おかしいですね」


 パラパラとまた何かが降ってきた。とうは少女の顔から視線を無理やり引きがして天井を見る。何も異常はない。床に落ちたそれを指ですくった。ホコリではない。砂の粒子みたいに硬く、ライトの明かりを反射して輝いている。


「なんだ?」


 のぞき込む。その表情には、焦りがあった。得体の知れない何かを感じ取り、不安をいだいている。それは闘真も同じだ。胸の中に渦巻く不安は、ますます大きくなる。闘真たちだけではない。まわりの警備兵にも動揺がれんてきに広がりつつあった。


「ホコリではないようだが」


 伊達が天井を見上げる。天井のガラス板に立っている研究員達も何か異常を察し、さわいでいるようだ。


「さあ、なんだろうね」


 ゆいいつのんびりとした声が、少女の口からこぼれ出た。

 またホコリが、今度は伊達の肩に落ちる。それを指ですくった伊達は、厳しい目で見つめた。その目が徐々に大きく見開き、きようがくへとへんぼうする。


「音楽を止めろ! 早く!」


 伊達の叫び声が終わらないうちに、頭上からピシッ、ピシッと音が立て続けに聞こえた。天井のガラスに無数の細かいヒビが入り、あっというまに真っ白になった。パンッと破裂するように、ガラスがいっせいに粉々になり、雨のように降る。


「うわああああ!」


 警備兵達は悲鳴をあげ、顔や頭を守る。混乱してだれかが発砲しなかったのは、奇跡に近い。

 いったい何が起こったのか。こんわくする闘真の目の前に何かが迫った。

 どきりとするほど目の前に少女の顔があった。闘真の口にくわえているカードキーの反対側をくわえていた。鼻先がくっついている。


「んふっ」


 少女の鼻にかかるようなほほみが、とうすきを作る。ゆるんだ口から簡単にカードキーを奪われた。少女はそのまま器用に口で宙に放り投げ、背中側にこうそくされている手でキャッチする。次のしゆんかんには、両手が自由になっていた。

 そこでの視線が少女に向き、ようやく事態をあくする。いや、ようやくと言ってはこくか。そのときまだ砕けたガラスは空中にあり、二階にいる警備兵たちの頭に降り注ぐところだったのだから。

 少女は信じられないぎわのよさで、ひじひざ、足首と、拘束具を次々とはずしていく。伊達が止めようと手を伸ばしたが、少女は腕一本でそれを軽々といなした。きたえられた伊達の大きな体が空を舞った。

 伊達が落下するのと、ガラスの雨が床に到達するのと、少女が自由になるのは同時であった。

 一階にいた警備兵やきし博士はガラスの雨に悲鳴をあげる。

 ガラス片が床ではね、その間に少女はすでに次の行動に移っていた。

 警備兵達の並ぶかべぎわまでおよそ20メートル。その距離を二秒で縮める。ちゆうカードキーを闘真の口に戻すのを忘れない。

 パニックになっている警備兵達の目前で、少女は大きく跳躍し壁をった。三角とびの要領で、そのまま二階の手すりにつかまる。軽々と手すりを乗り越え、ぜんとする警備兵達の中に飛び込んだ。

 警備兵が一人倒れたときには、少女の手にそのきやしやな体に似つかわしくない、きようあくつらがまえのマシンガンがおさまっていた。

 ようやく一人が反応して、発砲する。信じられないことに、少女はその弾丸を軽々とよけ、結果、少女の背後にいた警備兵に当たった。撃たれた警備兵は苦痛に悲鳴をあげる。

 それが冷静を取り戻し始めたほかの警備兵達の動きをいつしゆんだけ止めた。凍った時間の中で少女だけが、そくばくを受けずに行動する。無造作に構えたマシンガンで、一階に並んでいる警備兵達に、ためらいもなくトリガーを引いていく。足を撃たれ、警備兵達は次々と倒れた。服は耐弾仕様なのか出血はない。が、骨折はまぬがれないだろう。

 混乱する警備兵をしりに、少女は再び壁を蹴り、てんじようの割れたガラスの縁に手をかけ、体を引き上げた。上の部屋にいた研究員達は、我先にとあわてふためき逃げまどう。


「いいこと教えてあげる。この強化ガラスは欠陥品だ。特定の周波をぶつけるともろい。じゃあね」


 ようやく起き上がった伊達が銃を構え少女にねらいをつけた。しかし引き金を引く前に少女の姿は、天井の上へと姿を消した。


「岸田博士、警戒体制をレベルSに引き上げろ。なんとしても捕らえるんだ!」


 伊達がる。

 ガラスが割れてから、わずか二十秒たらずの出来事だった。




「まさかあのロック音楽の中に、強化ガラスを共鳴反応させる周波があるとは思いませんでした。うかつです」


 急上昇するエレベーターに乗っているのはとうきしを初め警備兵が十名程度。重苦しい空気につつまれている。闘真はしんちように疑問を口にした。


「あの、聞きたいことがあるんですけど」

「なんですか?」

「彼女、普通の人間の体だったんじゃないですか?」

「そうですね。普通というにはへいがあるかもしれませんが、人としてきたえられた肉体のはんちゆうは超えていません」

「あれのどこがですか? 彼女のしたことは、人間わざじゃなかった!」

「肉体構造は、人の範疇だ」


 今度は伊達が答える。


「でも、あの動きは普通じゃないですよ!」

「体は普通だ。ただ……」

「ただ?」

「頭脳が普通じゃない」

「頭脳? 確かに頭はよさそうですけど。でも僕が言いたいのは、そういうことではなくて」

「あの娘の身体能力は、我々と根底が違う。人間工学をはるかに発展させた自己管理能力にある」

「どういうことですか?」

「筋肉の流れの一つ一つ、骨格の作り、心肺能力、あらゆる状態を彼女はあくし、それらのデータを総合し可能となる動きをしゆんに頭の中に構築する。体の動作効率を極限まで高め、最適化をほどこし、再現する。自分の体だけではない。まわりの状況もすべて彼女の頭の中では、数値化され恐ろしい精度でシミュレーションされる。あの娘にとって体を動かすというのは、運動を意味するのではない。頭脳労働なんだよ」


 何がおかしいのか、伊達はちようてきに笑った。


「あれに言わせるなら、我々の動きは非効率的で体力のづかいなんだそうだ」


 伊達の言葉を頭の中ではんすうする。くつでは理解できる。しかし本当にそんなことが可能なのか。闘真は自問自答する。いや、それは無意味なことか。なにしろ目の前で、それを実践されたのだ。


「彼女、何者なんですか? どうしてこんな地下に閉じ込められてるんです?」

「ああ、そういえばまだ言ってなかったな」


 少しだけ訪れるちんもく。エレベーターの階数を示すパネルだけが勢いよく回る。


「彼女は、彼女の名前は……」


 そのとき、なんのまえれもなくエレベーターが停止した。上昇する勢いだけが体に残り、かかとが宙に浮く。ライトも消え、くらやみになった。


「な、なんだ? どうしたんだ? 停電か?」

「そんな、停電なんてありえない。電源は三重に管理されてるはずです」


 数秒後、非常灯の赤いランプだけがともり、なんとか視覚は確保された。


きし博士、現状があくできるか?」

「はい、通信系統は生きているようです」


 岸田博士はエレベーターに設置されているコンピュータターミナルをせわしなく操作する。すぐにスピーカーから人の声がした。


『岸田所長、ご無事ですか? 大変なことが起こりました』

なし君か。なんだ? 何が起こった?」

『メインコンピュータのLAFIセカンドに、何者かがハッキングをしています。現在、第六から第十二区画、および第十五区画が……くそ、第二と第三もだめか。以上の区画のコントロール系統が制御できません』

「なんだと!」

『現在もハッキングは進行中です』

「どこからハッキングを受けている? 割り出しを急げ!」

『すでにやっています。十秒待ってください。……ああ、第五、第十四、第十六区画も制御不能』


 次々と届く報告は、とうにあることを思い出させる。なすすべもなくハッキングされ次々とのっとられたスフィアラボ。あのときのさんげきがよみがえってきた。

 報告の中には聞きなれた単語も混じっている。LAFIセカンド。スフィアラボを管理するコンピュータと同じ名前だ。違うといえばファーストとセカンド。同系のコンピュータでここも管理されているのか。


『逆探知成功。第二十七区画、研究所下層部からです!』

「くそ、やはりあの娘か!」


 が乱暴に壁をたたいた。

 闘真は伊達がどうしてここにきて、あの少女に会わねばならなかったのか理解した。

 スフィアラボをせんきよした犯人グループに対抗するには、このきようてきなハッキング能力が必要なのだろう。

 あわただしい空気の中、エレベーターの下から、何かのどうおんが近づいてくる。


「なんの音だ?」

「これは……。おい、どうしているエレベーターがあるぞ! どういうことなんだ?」

わかりません。一基だけ、最下層から地上に通じる第六エレベーターの電源が生きています。搭載重量41キロ』

「41キロ……あの娘と同じだ」


 きし博士が青ざめる。


「こしゃくなマネを。我々を動けなくして、一人のうのうとエレベーターで逃げるつもりか」


 下から昇ってきたエレベーターはとうたちの乗るエレベーターを追い越し、上へ消えた。


「LAFIセカンドをきんきゆう停止。強制システムダウン急げ! 全システムを手動に切り替えるんだ」


 岸田博士が声を荒げる。


『しかし、それでは全システムの99・5パーセントが使用不可能になります』

「それでいい。あのエレベーターをなんとしてでも止めるんだ」

『了解しました。LAFIセカンド、強制システムダウン実行します』


 明かりがまた、いつしゆんだけ消える。


『システムダウンしました。全システムを手動および守秘回線に移行します』

「ここのエレベーターの電源を手動で戻すのに何分かかる?」

『復旧まで五分かかります』

「遅い! 三分だ。それ以上は待てん!」


 岸田博士が初めてった。


『善処します。システムダウン直前のNCT施設状況をあくできました。転送しますか?』

たのむ」


 エレベーターのターミナルの画面の中、ダウンロードを示すインジケーターがのろのろと進む。全員が、その目盛りを見つめていた。


「あのエレベーターはどこで止まった?」

『第七層と八層の間で止まっています』

「第七層と八層から外に通じるドアロックの状況を調べろ。それに換気口も。想定できるあらゆる逃走経路を調べるんだ」


 が指示した図面を見て、岸田博士が伊達の言葉をすばやく補足した。


「ここと、ここ。それにここも。考えられる逃走経路は三つ。それ以外のドアはロックされている。電源が通っていないので開けるのは不可能です」

「解った。そこにありったけの警備兵を集結させろ。ドアを手動で閉じて溶接するんだ。あらゆる逃走経路はふさげ」

『了解しました。あ……エレベーター電源、復旧します』


 エレベーターが再び動き出す。

 ずっと傍観していたとうは、頭の奥で何か違和感を感じていた。何かが引っかかる。何かが間違っている。いや、間違えさせられている。くつではない。ただそう感じるのだ。

 エレベーターが地上にたどり着く。全員が出て行く中、闘真だけが中に残った。


「何をしている? 早く降りろ」

「すみません」


 闘真はそれだけ言い残すと、エレベーターの最下層を示すボタンを押した。おどろきし博士の顔が、ドアの向こうに消えた。



 最下層につき、闘真は自分のカンが正しかったことを知った。

 警戒を知らせる赤いランプが明滅する中、兵士たち全員が床に倒れている。その中の一人を調べ、生きていることにほっとした。

 闘真達がエレベーターで昇った後、だれかが来た証拠だ。いや、誰かと考えるまでもない。


きんきゆう事態発生、緊急事態発生。全システムがダウンしました』


 電子音のエマージェンシーコールがけたたましく鳴りひびいた。


『ADEM規定E─999が発令されました。残っている職員は、ただちに緊急脱出用エレベーターで脱出してください。緊急事態発生、緊急事態発生』

「緊急脱出用エレベーター?」


 いま降りてきたエレベーターではないだろう。システムダウンで、電源は手動でつないでいると言っていた。つまり緊急脱出用エレベーターとは、そうした制約を受けないしろものに違いない。

 降りてきたほうとは反対側にある三つのドアに注目する。上部に緊急脱出用を意味するプレートがあった。さっき来たときはすべて閉まっていた、と思う。それが開いている。いや、一つだけ閉まっているドアがあった。誰かが使用したのだ。

 開いているドアに乗りボタンを押すと、ものすごい速さで上昇を始める。耳が痛い、と思ってまもなくエレベーターがチンと鳴って、目的地についたことを知らせた。おそらくは地上階。

 ドアが開くと長い通路があり、その先に少女の後ろ姿が見えた。病院の入院着のようなすそがその走りに合わせひらひらと舞っている。あの少女だ。

 少女は振り返る。夢でも幻でもない。人の思考を一気に奪うぼうがそこにあった。


「電源止められたのに、よくエレベーター動くね」


 闘真はどう声をかけていいかわからず、思いついたことを口にする。


「それは逆。電源が止められたからこそ動作する。緊急用のエレベーターが、停電で止まってどうする? ガス圧による独立動作だ」

「ああ、そうか。言われてみれば、そうだよね」


 とうはしきりに感心したようにうなずいた。少女はそれに厳しいまなしを向ける。


「どうして、わかった?」

「え、え? 何が?」

「どうして、あのエレベーターがオトリだと解った?」

「あ、いや……解ったというより、感じたっていうか。なんかおかしいって」

「それでこの緊急用エレベーターに気づいたか」

「気づいたわけじゃないんだけど、とりあえず逆に行ってみようかなって。ほら、オトリ使うなら、反対側に逃げるだろ。そうしたら、なんか動いてるエレベーターあったし。乗ってみたら君がいた」


 少女の顔があきれたものになる。


「それで私を、どうする?」

「何を?」

「ここで私を止める気か?」

「ああ、それなんだけど。正直状況がよく解らなくて。なんか知らないうちにこんなところに連れてこられて。君が何者で、どうしてあんな地下に閉じこめられていたのか解んないし、もしかしたら悪者は、さんたちのほうかもしれないし」


 言っているうちに本当に困ってしまって、闘真は頭をかいた。


「どうしようね?」

「私に聞くな!」


 少女は怒ったように、背を向けると、長い廊下をすたすたと歩いていく。


「ちょ、ちょっと待ってよ」


 少女に止まる様子はない。あわてて腰まで伸びる黒髪が揺れる背中を追った。


「まだ、僕としてもどうするのが正しいか解らないんだ。せめて君の名前だけでも教えてくれないか?」

みねしま


 ふりむきもせず少女は名を告げる。


「峰島由宇か。いい名前だね。峰島由宇……峰島……峰島って、まさかだよね?」

「なんだ、知らなかったのか? 信じがたいのんびり屋だな、君は」

「だって君、まさか、もしかして」


 口を金魚みたいにぱくぱくさせる闘真に、由宇と名乗る少女は冷ややかな視線を送る。


「お察しのとおり。私はあのいまいましいマッドサイエンティスト、峰島ゆうろうの娘だ」

「……本物?」

にせものがいるならぜひお目にかかりたい。こんな施設の地下深くにゆうへいされていたことが、なによりの証明だと思うけど」

「え、でもだって、娘だからって、どうしてこんなところに閉じこめられてるの?」

「私の頭の中には、みねしまゆうろうの遺産の知識が詰まっている。危険な知識も少なくない。充分な理由になる」


 立ち尽くすとうを置いて、はさっさと通路を進む。


「ちょっと、待って。待ってったら」


 後ろから由宇の肩をつかむ。世界が反転した。何をどうやったのかわからないが、投げられたことだけ解った。闘真はすかさず体を反転させ、でやわらかく着地した。

 わけも解らず顔を上げると、何かが鼻先に迫っていた。それが何か理解するまもなく、首がもげそうなほどのしようげきおそう。体が真後ろに一回転するなか、あれは足の裏だと悟った。素足で助かった。靴をいていたら、顔面はさんなことになっていた。意識を根こそぎ刈り取る鋭さもある。

 ──くそっ。

 背後の壁に足で着地し、床に下りる。

 追い討ちがくると思ったが、何もなかった。それどころか由宇の姿がない。前と左右、どこを向いても、隠れる場所はない長い通路と、コンクリートの壁があるだけだ。ゆいいつ残されているのは。

 とっさに体を真横にねさせる。一歩遅れ、真上からすさまじい衝撃が首筋をたたく。とんでもないちようやくりよくと滞空時間で、真上から攻撃してきたのだ。

 すかさず体をねじり、なんとか威力をそいだ。

 地面に着地した由宇は、予備動作もなくそのまま軽やかに体を後転させ、闘真と距離をとる。まるで体重を感じさせない、羽のような動きだ。音もほとんどしなかった。


「力の殺し方はなかなかうまい」


 由宇は面白そうに目を細める。


「普通なら、こんとうしている」


 闘真は鼻を押さえたまま、荒い声を出す。


「一つ、大事なこと聞いてもいい? すごく大事なこと」

「聞くだけなら、ごずいに。答えるかどうかは解らないけど」

「いや、大事な話だから、答えてもらわないと困る」


 由宇は肩をすくめる。言うだけなら勝手にしろという雰囲気だ。闘真は意を決した。


「あの、もしかして……下着はいてない?」

「はっ?」


 とっさに何を言われたのか解らないのか、少女は目を白黒させる。


「いや、だから下着、もしかしてはいてないのかなって。病院で検査するみたいな服着てるし……」


 少女の目がだんだんとつりあがっていく。


「そういうときってほら……、えーと、その、チラッと……、不可抗力?」


 鼻を押さえた指の間から、血がボタボタと床にしたたる。


「あ、誤解しないで。これはられたから出た鼻血であって」


 は目をこれ以上にないほどつりあげ、顔をにさせる。すごく怖い。とうおびえていた警備兵の気持ちが痛いほど理解できた。


「そんなに私の裸が見たければ、ここの職員になればいい。いつでもおがめる」


 怒りを押し殺した声は震えていた。


「え、なんで?」

「私にプライバシーはない」


 闘真は研究所で見たみような部屋を思い出した。家の屋根をはずしたような構造。それを見下ろす研究員たち。確かにあそこに住んでるならプライバシーゼロだ。としごろの少女が住むには、あまりにもこくな環境だ。


「もしかしてっていうか、やっぱりっていうか、怒ってる?」

「面と向かって言うからだ! ハレンチなやつめ!」


 怒りが頂点に達したのか、足を思い切り床にたたきつけた。コンクリートの廊下に、彼女の剣幕が大きくはんきようする。


「貴様みたいなバカに付き合ってるひまはない」


 由宇は顔から感情を消すと、もうここまでといったように闘真を無視して走り去る。


「だから待って」


 すでになんで追いかけているのか、闘真自身よくわからなくなってきた。なかば意地のようなものだ。ようやく追いついたのは、廊下の曲がり角。なぜかそこで彼女は、棒のように立っていた。

 曲がり角の先の長い長い廊下のはるかむこうに、四角い形に切り取られた明かりが見えた。人工のそれではない。陽光の柔らかさと優しさがある。

 由宇のまばたきを忘れた大きなひとみは、ただただ一心にその四角い光を見つめていた。


「あ、……ああ」


 声も出せずくちびるを震わせる。それをなんと表現したらいいだろう。喜び、悲しみ、おどろき、不安、あまりにも多くの感情が一つとなり、ただえつとなってこぼれていく。

 何かが彼女の髪を揺らした。


「……風?」


 風を含んだ黒髪は、優しく波打つ。

 見えない風をつかむかのように、由宇は震える手を前に伸ばした。その手に引っ張られるように、体が前に傾き、走り出す。


「あ……」


 離されてはならないととうも必死で後を追うが、みるみる離されていく。決して足が遅いわけではない。むしろ速い。闘真は100メートルを十秒台でかけぬける。なのにとの距離は、加速度的に開いていく。

 駿しゆんのように美しくかける雄大なフォーム。ただ光を目指し走るじゆんすいな姿。しかしその時間はとうとつに終わりを告げる。

 前を走る由宇が、突然倒れた。何かにつまずいたわけでもない。不自然な倒れ方である。起き上がる様子もない。


「どうしたの!?」


 ようやく追いついた闘真は由宇を抱き起こそうとし、そして、闘真はそこで一生忘れることのできないであろう少女の顔を見た。

 由宇は左の胸に指を食い込ませ、苦しそうにうめいていた。大量の汗が額から流れ、床にこぼれ広がる。もんゆがんだ顔は、それでも美しさを損なわず、ひとみだけがけもののようにらんらんと輝いていた。ただまっすぐに光を目指し、腕の力だけで体を引きずろうとしている。


だいじよう?」

さわるな!」


 由宇は闘真の手をはねのけた。


「くっ、こんなときに。あと少し……少しなのに」


 胸に食い込む指はさらに深くなり、血がにじむ。


「あ……がっ……げふっげふっ」


 突然き込んだかと思うと、血のかたまりが白い床にぶちまけられた。


「もう……少し……なのに」


 体が言うことをきかないくやしさか、か細い白い手が床をなぐるが、それも力がない。


「そ…と……」


 最後の力で由宇は少しでも光に近づこうと手を伸ばした。しかし、それもついに力尽き、床に落ちていく。

 落ちようとする手を闘真が受け取った。意識がもうろうとしている由宇の体を、抱き上げる。この少女が何者で、味方なのか敵なのか、もうどうでもよかった。あんな場面を見せられて、この娘につかないなんて男じゃない。闘真の思考はシンプルだ。一度決めたら行動は早い。

 由宇を抱きかかえたまま、明かりのある出口に向かって歩き出す。

 うつろに開いた由宇の目は、ただ光を見ている。意識はほとんどない。闘真に抱きかかえられていることすら、もうわからないのかもしれない。


さかがみ君、よくとめた。お手柄だ」


 一番聞きたくない声が、闘真の背中にかかる。振り向くまでもない。


さん、このまま行かせてください」

だ」


 伊達の背後には、銃を構えた警備兵が何人もいた。


なつとくできません」

「甘い考えを許すな。その娘の恐ろしさのへんりんは見ただろう。軽傷者二十八名、重傷者十二名。わかるか? 全部その娘がやった」

「でも」


 とうの言葉が詰まる。

 みみざわりな金属音がした。明かりのこぼれる扉がゆっくりと閉まろうとし、外の光は徐々に細くなる。光が細くなるにつれ、ひとみに宿る悲しみの色は濃くなっていく。

 闘真が走り出そうとすると、銃声が耳をかすめた。


「動くな」


 従うしかなかった。

 扉は冷たい金属音をさせ、光をった。同時に闘真の腕の中で、由宇の体が急に重くなった。気を失ったのだ。


        5


 由宇が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのはいくつものまぶしいライトだった。

 意識はまだもうろうとしていた。自分自身もまわりの現状もあくできていない。あたりを見渡そうとしても、体に力が入らず、わずかに身じろぎしただけに終わった。


「気づいたか」


 ぼやけた視界にだれかが入ってきた。聞き覚えのある声のはずなのに、さだかでない。意識の混乱は、まだ続いていた。


「脈拍も脳波も安定しました。もうだいじようです」

「例の処置をいまのうちにしておくか。また暴れられてはかなわないからな」


 腕が持ち上げられる。何か塗っている。アルコールのにおい。続いて鋭い小さな痛み。注射をされた。


「聞こえているか? いま注射した液体には極小のカプセルが約一万含まれている。中は八十七種類の致死性の毒だ」


 由宇はうっすらと目を開け、声のする方向を見た。ぼやけた視界がりんかくを結ぶ。そこには彼女がもっとも嫌う人物、伊達がいた。


「カプセルのゆうかいリミットは、二十四時間。それを越えると中の毒がおまえを殺す。逃亡してどくざいを作ろうとは考えないことだ。いくらおまえでも二十四時間以内に、百種類近い解毒剤は作れないだろう」


 口を開こうとしてやめた。いまの体には憎まれ口をたたく余裕はない。


「助かりたければ、我々に協力しろ。おまえの知識を貸せ」


 そのときにもっともみ深い声が、飛びこんできた。きし博士だ。


さん、ちやです! スフィアラボ制圧作戦に参加させるなんて! 発作を起こして、まだ間もないんですよ」

「岸田博士、その話はもう終わったはずだ。さっきも言ったとおり作戦開始は十八時だ。回復する時間はある」

「五時間しかない! 反対です。あなたは由宇君を殺すつもりですか!」

「死にはせんよ。遺産をねらった犯罪は何度もあったが、今回の相手は手ごわい。その娘の協力が必要だ」

「せめて私を同行させてください」

だ」

「しかし!」

「また発作を起こしたときのために、カンフル剤は用意しておけ。話は以上だ」

「伊達さん!」

「意識が会話できるくらいになったら、その娘に必要なものを聞いておけ」


 伊達の足音が遠ざかる。


だいじようか? なんとかするから」


 岸田博士もその言葉を残すと、伊達の後を追った。人の声は消え、無機質な電子音だけになった。

 視線をてんじように戻す。ライトの明かりがまぶしいだけで、温かみはない。長い通路の奥の、四角い光とは違う。

 ──届かなかった。

 くちびるをかみ締め、由宇は声もなくうめいた。

刊行シリーズ

9S<ナインエス> XIII true sideの書影
9S<ナインエス> XII true sideの書影
9S<ナインエス> XI true sideの書影
9S<ナインエス> X true sideの書影
9S<ナインエス> IXの書影