1
無限の空間に風間は漂っていた。体がどこまでも広がっていく。広がりながら、感覚は研ぎ澄まされ、頭はさらに冴えていく。
誰かの話し声が聞こえ、死体の山が見え、プラントセクターの花の香りを運ぶ風を感じ、人工池の噴水の水飛沫をあびた。緊張している見張りの心拍数は物音のたびに上下し、人が出入りするたびに酸素の濃度が変わる。
あらゆる感覚と情報が一度に頭の中に洪水となって押し寄せてきた。あわてて情報量を絞り込む。とても人間の脳が正しく判断できる領域ではない。
情報量の絞り込みが終わったら、今度は情報をカテゴリー別に分けていく。視覚、聴覚、触覚、
嗅覚、の四感を区分けし、さらにそれ以外の新しい未知の感覚を脳に適用させていく。
それは人間の体ではとうてい検知できないものばかりだ。当然、その新しい感覚に最初は戸惑うが、それもすぐに慣れて他の感覚と同様に扱うことができた。
新たに覚えた数多くの感覚の代償というわけではないだろうが、味覚が存在しないのは残念だった。
次にそれぞれの情報と、位置関係をつなぎあわせていく。
最初に行ったのは、視覚である監視カメラの無数の映像が、スフィアラボのどの部位にあたるのか、一つ一つ確認していくことだった。
いま自分はスフィアラボという生き物になっているに等しい。体の中に目があるような奇妙な感覚だ。逆に外を向くカメラは極端に少ない。といってもその数はゆうに百を超えるのだが。外では警官隊の船と人がわらわらと動いている。
正確にはスフィアラボの頭脳であるLAFIにシンクロしている。
だいぶ慣れてきた。そろそろ自分の体に戻ろう。
風間はゆっくりとした上昇感に身をまかせる。ふっと一瞬何もかも閉ざされた感覚の後、慣れた、しかしいまとなっては窮屈に感じる人間の肉体に戻っていた。
スフィアラボの刺激的な情報量を人間の体に望めるはずもなく、取り戻した本来の感覚に風間は肩を落とした。
肩を叩かれて振り向いたが、視界は真っ暗なままだ。あわてて頭にかぶせてあるバイザーを脱ぎシートから立ち上がる。このシートとバイザーによって、風間の精神とLAFIファーストは連動する。
視界が戻ると目の前には仲間の一人、光城時貞の姿があった。たった二つしかない目がとても不自由に感じられた。暗い部屋の細部も解らない。スフィアラボの暗視カメラのようにはいかない。
セントラルスフィアと名づけられたLAFIの中枢部。光は部屋全体を覆う電子の光だけで、暗闇に光るそれは、星空のように見える。中央のシートを照らす赤い光だけは不気味に明るい。冷房が効いているため、かすかに肌寒い。唸るような低い電子音。人の五感が感じ取れるのはそれくらいだ。
「どうだ? いけそうか?」
光城が話しかけてくる。
「なかなか難物だ」
風間の答えを聞いて、光城は面白くなさそうに鼻を鳴らす。ばかでかい剣を背負ったコート姿の若い男。顔の下半分はコートで覆われ、人相はさだかでない。切れ長の瞳の底に暗い感情が見える。背中のものは剣というより、人の背丈ほどもあるばかでかいコンバットナイフのような印象である。刀身の全面は電子回路のような光学模様で覆われており、時折その溝に青白い光が走り輝く。
異様な姿は珍しいことではない。峰島勇次郎の遺産の恩恵を受けた人間は、大なり小なりそのような傾向にある。
「時間がかかるってのか? たかだかコンピュータ一個だろ?」
「峰島勇次郎が作り出した、まったく新しい理念のコンピュータLAFI。そう簡単に姿を拝ませてくれちゃ、ありがたみがないだろう」
「こんなに大掛かりな事件を起こしてまで、やってんだ。確実に金になるんだろうな?」
「あたりまえだ。Aクラスの遺産だぞ。欲しがるやつらはいくらでもいる。売る先には困らない」
風間はLAFIファーストと精神レベルでのシンクロ能力、峰島勇次郎から与えられたエレクトロン・フュージョンのことは口にしない。現段階で他のメンバーに知られるのは、風間の本当の目的を遂行するのに都合が悪いからだ。
風間は立ち上がると、セントラルスフィアの奥にある分厚いドアの前に立つ。認証パネルに手を置くと認証エラーと表示され、ドアはピクリともしない。単なるパフォーマンスだ。開けようと思えば開けられる。だが光城はその行動を見た目どおりに受け取り、どこか馬鹿にした口調で言った。
「解った解った。とにかくまだ一番奥には入れねえってことだろ?」
「LAFIのハッキングはあなたしかできないわ。頼りにしている」
光城の隣には、先に潜伏していた宮根瑠璃子がいた。体のラインにそったスーツは妖艶な肢体を浮き彫りにし、その上には体にふさわしい艶やかな顔がある。光城に比べると普通だが、戦いの場であると考えるとまともとは言いがたい。
「俺のすることに間違いはない。まかしておけ」
瑠璃子を見つめ風間は深くうなずく。瑠璃子は少女のように頬を赤らめた。瑠璃子だけは風間の精神レベルでのLAFIとのシンクロ能力を知らされていた。そのためか恥じらいの視線の中に、共犯者めいたなれなれしい雰囲気がある。
しかしそんな目の前の女の様子を歯牙にもかけず、風間は時計に目をやった。LAFIに潜ってから十五分ほど経過していた。体感的にはもう丸一日は潜っていたように感じられた。やはり電子の世界とこの窮屈な肉体の世界では、時間の流れが大きく違う。
風間はまたLAFIに潜りたいと感じた。麻薬的な魅力がそこにはあった。
「予定より遅れている。さっさとハッキングを成功させて、その頑固な金庫を開けてくれ。スフィアラボを乗っ取った時みたいによ」
光城は面白くなさそうに喋るが顔は笑っている。これから起こることが嬉しくてたまらないのだ。
「ふん。予定が遅れて一番喜んでるのはおまえだろう。峰島の遺産犯罪対策部隊、念願のLC部隊と思う存分やりあえるチャンスだ」
「おおよ、亜門のやつも喜んでるぜ。傭兵時代の血が騒ぐってもんよ。ひゃーはっはっはっはっ!」
光城のヒステリックな笑い声は、狂人のそれであった。風間と瑠璃子が意味ありげに目配せをするのにも光城は気づかなかった。
2
闘真が事件のあらましを説明するのは二度目だ。一度目は最初にかけ込んだ警察署。二度目はいま、傍聴者は、たった一人の少女。
「以上で、終わりです。次に気づいたらヘリに乗せられて、ここに向かってました」
同い年の少女に向かって、なぜか敬語。
彼女はベッドの上で目を閉じている。まだ体を自由に動かせないらしい。
「あの、話終わりましたけど?」
瞼がゆっくりと持ち上がり、瞳だけが闘真を見る。
「横田健一か。惜しい男が死んだな」
ああ。闘真は深く深くため息をついた。いまの言葉でずいぶんと救われた。まるで矛盾することなく、深い悲しみもわいた。少女は、由宇は、慰めでもなんでもなく、ただ思ったことを言ったのだ。それがありがたかった。
「横田という男は、まぎれもなくコンピュータエンジニアとして天才だ。LAFI本来の姿に気づき、少しとはいえ自力で解析したか。たいしたものだ」
「そんなにすごいことなの?」
「すごい。生きていたら木梨を首にして、雇いたいところだ」
「あの、木梨って?」
「ADEMのコンピュータ部門の責任者。優秀だがプライドの高さが、それを阻害している。LAFIセカンドをまかせておくのは心配だ」
「LAFIセカンドって?」
質問ばかりしている自分が馬鹿みたいに思えたが、由宇は同じ感想を抱いていないのか表情に出していないだけなのか、幸いにも丁寧な答えが返ってきた。
「三基あるLAFIシリーズの一つ。初代はスフィアラボで使われているLAFIファースト。後継機がこの研究所にあるLAFIセカンドと、ノートサイズのLAFIサード」
「そういえば、ヘリの中でこの研究所のコンピュータでスフィアラボにハッキングをしかけるとか、なんとか言ってたのはLAFIセカンドのこと?」
「だろうな。普通の方法では、ハッキング不可能だ。まあ妥当な判断だが……」
由宇はしばらく思案顔になってから、
「伊達を呼んでくれないか? 興味深いことが解った」
と言った。伊達が来ると、由宇は面白くなさそうに説明を始めた。
「重要な点を三つ言おう」
「聞こう。なんだ?」
「一つ、敵の兵士の中には遺産を所持している者がいる」
「それは聞かなくても解る」
「二つ、敵はLAFIを使いこなしている。カオス領域レベルで操ってるのは間違いない」
「カオス領域って何?」
「横田という人物が言ってただろう。LAFIのOSの下に何かあると。それをカオス領域という。設計思想そのものが、従来のコンピュータとはまったく異なる。使いこなせる人間はいない」
「でも、いま敵は使いこなしてるって」
「訂正しよう。使える人間はごく一部だ。伊達、これまでADEMにかかわった技術者全員の名簿は洗ってるな」
「割り出し中だ」
「無駄なことだと思うが、一応確認してくれ」
「どういう意味だ?」
由宇は伊達の質問には答えず、自分の言葉を続ける。
「三つ、その少年のセキュリティレベル0は、生きている可能性が高い」
これには伊達も驚いた顔をする。
「なんだって?」
「おそらく敵もスフィアラボの職員が、カオス領域まで使っているとは思ってないだろう。セキュリティに関しては、従来のOS上の管理だけしかチェックしていない可能性が高い。だからその少年はLAFIまで奪われたにもかかわらず、ロックのかかったドアを開けて出ることができた」
「確かか?」
「あくまで可能性だ。それにそのときはしていなくても、いまはチェック済みで閉じられた可能性もある。そこまでは解らない。でももし」
「もし?」
「その少年のセキュリティレベルが生きているとしたら、とても貴重だ。無条件でレベル0をクリアできる。一度だけだろうが。今度使ったら、気づかれてセキュリティ権限は消される」
「一回だけの万能キーか」
闘真はポケットの中にある横田から託されたものを握り締めた。心臓がドクンと鳴る。
「あの……僕も協力できるってことですか?」
「いや、気持ちは嬉しいが」
「でも、何かしないと。あのスフィアラボの中には知り合いもいるんです」
「そこまで言うなら、LC部隊がスフィアラボに突入するためのメインゲートを開けてもらおう。それで充分我々の役に立つ。もちろん中には連れて行くことができない。解るね?」
「ゲートのセキュリティはレベル2だ。贅沢な使い方だな」
「子供を巻き込めるか。これでもぎりぎりだ」
「私も同い年だけど?」
伊達は鼻でせせら笑う。
「冗談はよせ。化け物が」
話はそこで終わった。
闘真は再びヘリコプターに乗ることになった。
隅に備え付けられたベッドでこんこんと眠り続ける少女を心配そうに見ながら、闘真は迷っていた。話した後、疲れたといってまた眠り始めたのだ。本調子でないのは、白い肌がさらに白くなっているのを見れば解る。
ヘリコプターの騒音がうるさくないだろうかと心配し、自分もここで寝ていたことを思い出し苦笑いをした。このままスフィアラボに着くまで、寝かせてあげたいと思う。
「伊達さん、本機に近づいてくるヘリがあります」
「なんだと?」
静かな顔で資料に目を通していた伊達が、表情を曇らせる。いつもこんな感じに忙しいのだろうかと、他人事のようにぼんやり考えていると、
「この空域はLC部隊が占有しているはずだぞ」
「はい。しかし侵犯しても、とがめられない組織は存在します」
雲行きの怪しい会話が聞こえてきた。だが何かあったとしても自分には無関係だと思い、闘真は窓の外を見た。
「米軍か? また根拠のない遺産の所有権を主張しに来たか?」
「いえ、それよりももっとタチが悪いです」
「なんだ?」
「真目家のヘリです。坂上闘真の身柄を要求しています」
闘真の顔が引きつった。
「三十分だけ時間をくれと、真目家から連絡が入りました」
パイロットの言葉に、伊達は時計を確認して舌打ちをする。
「まったく、こっちのスケジュールをよく把握している。さすが昔から情報戦を勝ち得てきただけはあるか」
シティヘブンと呼ばれる超高層ビルの屋上に、闘真達の乗るLC部隊のヘリは着陸した。ほぼ強制的な真目家の誘導にしたがってだ。
闘真は屋上に待っていた初老の男性に案内されるまま、エレベーターを降りる。ついたのはビルの中なのかと疑うほど広く上品な内装の客間であった。闘真はソファに腰を下ろし、目をつむって待った。
闘真が真目家にかかわりのある地に足を踏み入れたのは一年半ぶり、あの凶事以来である。
あの事件から最初の半年は、病院の鉄格子の中だった。父である不坐が放り込んだ。たまたま知人の見舞いに来た横田健一に会わなければ、いまも鉄格子の中だったに違いない。
次の半年、横田は闘真のリハビリにつきそい、新たな学校の編入手続きまでしてくれた。一年遅れて、闘真は高校二年へと進級した。
真目家の一子としての過去と、完全に決別するはずだった。真目家からもコンタクトはなかった。見捨てられたのだと解釈した。そのほうが楽だった。そのまま平穏な日常に身を沈めるつもりだった。しかし平穏な日常を教えてくれた横田は死んだ。平穏な死ではなかった。
ここにきて肉体的な疲労と精神的な疲労が、同時に襲ってくる。五分だけ休みをとろうと思い目をつむる。
きっかり五分後、目を開けた。テーブルを挟んだ向かいのソファには、予想通りの人物が座っていた。
「よく、お休みになれましたか、兄さん?」
真目麻耶は柔和な笑みをこぼすと、手にしていたティーカップを置いた。指先まで神経のゆきとどいた洗練された動作は、物音一つさせはしなかった。闘真と一つだけ歳の違う、腹違いの妹。肩口で切りそろえられた柔らかそうな髪、目がくりっとした愛らしい顔立ち。外見だけで評価するなら、どこにだしても恥ずかしくないお嬢様だ。
麻耶が闘真を兄と呼ぶのは、二人きりのときだけである。いまも昔どおりに呼んでくれることに安心し、同時に重荷に感じた。闘真の頭の中のとある懸念が、さらに重圧となる。麻耶は一年半前の事件を、正しく記憶しているだろうか。
つとめて平静な声で、闘真は口を開いた。
「ああ、久しぶりだね」
「元気そうでなによりです。一年以上も会っていないというのに、あまり変わった様子はありませんね」
「もう少し別の方法で会えなかったの? ちょっと強引過ぎるよ」
「時間的な余裕がなかったものですから、強硬手段を取らせていただきました。兄さん、どうぞこれを。必要な書類はそろえておきました」
差し出された封筒の中身を確認するまでもない。渡された書類は、闘真が必要とするものに間違いなかった。闘真がどういう状況でどういう立場なのか、すべて理解しているのだ。
真目家が何百年も権勢をふるってこられたのは、つねに情報戦で先手を取ってきたからだ。その異常ともいえる情報収集能力があるからこそ、峰島勇次郎の技術が隆盛を誇る現在、あえてその技術を排しても世界とやりあっていける。それどころか世界をリードしている。
闘真は一年半ぶりに会う妹の顔を、まじまじと見た。少し大人びたようだが、可憐な雰囲気は変わっていない。麻耶は闘真の視線に少し困ったように、体を縮めた。
麻耶はただ座っているだけで存在感があった。何百人という人ごみの中にいても、麻耶はすぐに解るだろう。麻耶だけではない。現当主であり闘真と麻耶の父である不坐の存在感はそれを凌駕する。
真目家が情報戦をつねに制してきた最大の因子。圧倒的な存在感が人望を集め、人々を心酔させ、信頼を得て、価値ある情報が真目家へと集まってくる。
峰島勇次郎が新しい時代の異端者なのなら、おそらく真目家は数百年続く異端者なのだ。相容れないのは、なんとなく納得できる。
「親父は、どうしてる?」
「ここ半年見ていません。もしかしたら、またどこかで私達の兄弟を作ってるのかもしれませんね」
どこまで本気でどこまで冗談なのか、麻耶は屈託のない笑みをこぼす。
「こっちは、おまえにまかせきりか。上の二人は?」
「北斗も勝司も、いまはお父様の腰ぎんちゃくをしています」
麻耶は闘真より血のつながりの濃い二人の兄を、名前で呼び捨てる。
「だから兄さんと会えます。お父様がいらしたら、首根っこつかまれて追い出されていますわ。それとも殺されるかしら」
半分は冗談だろうが、可能性としてないわけではない。厳格でいながら女にだらしなく、家族より家柄を大事にする男、真目不坐。子供達は真目家を繁栄させる道具でしかない。一番可愛がっていた器量よしの麻耶ですら、初めは政略結婚の道具と考えていたようだ。
しかし策略をめぐらす血筋を一番濃く受け継いだのは、皮肉にも麻耶だった。この一見愛くるしい妹は、あらゆる策略をめぐらし、めぼしい求婚の申し出を相手方から取り下げさせた。何をどうしたのかは知らない。知らないほうがいいかもしれない。
闘真が一度だけ知る父の敗北。まさか目の前の花も折れそうにない娘がもたらしたとは、誰が思うだろうか。
「しかし兄さんは相変わらず、真目家の血筋である自覚が薄いのですね」
「え、何が?」
「スフィアラボは峰島勇次郎の遺産の結集なのですよ。まさか、そこでバイトだなんて」
横田からスフィアラボでの誘いがあったとき、人とのかかわりを疎んじる闘真にとって願ってもない条件だった。真目家のことが頭によぎったが、そこの人間として認められていないのだから、かまわないと考えた。
「どうして、いまになって僕に連絡をしてきたんだ?」
麻耶は少しだけ答えることに躊躇する。
「兄さんが真目家を捨てるのは、しかたないと思いました。あんなことがあったんですから。忌わしい記憶を封じたまま病院で一生をすごすのも、幸せの一つかもしれないとも考えました。いまにして思えば、馬鹿な考えだと思います」
「だから放っておいたのか?」
「私を、真目家を恨みますか?」
「いや、恨んだことなんてないよ」
それは本心である。ただ真目家の禍神の血と呼ばれるそれを、忌わしく思ったことはある。そのことはおくびにも出さない。目の前のほっとした麻耶の顔を壊したくはなかった。
「兄さんが平穏な生活を送るなら、もう二度とかかわるのはよそうと……」
語尾がかすかに震えている。
「一年半前私がどのような想いで、あの事件を聞いたと思いますか?」
麻耶の言葉から、妹が一年半前の事件を正しく記憶していないことが解かった。心の重圧の一つが取り除かれ、代わりに妹を騙しているという罪悪感が生まれる。
闘真が言葉に窮している間、麻耶はカップの紅茶を飲みほした。音を立てて置かれたカップが、彼女のいらだちをあらわしている。
「すまない。麻耶には心配をかけた」
会いにこなかったのは、真目家と決別したいという気持ちだけではない。人の道を外れた自分に会う資格はないと思ったからだ。ただそれは弁明として通じるものではない。だから闘真は頭を下げるしかなかった。
「兄さん……」
顔をあげると、悲しそうな顔があった。自分は何か間違いをおかしたのだろうか。また悲しませてしまったのだろうか。
「一年半前、あの事件を聞いてお父様は……」
「さらに失望してたか?」
「いえ、嬉しそうに笑ってました。さすが禍神の血を濃く引いた男だと」
おそらくそれは闘真の心の中でなかば予想した答えだった。驚きはない。ただ心のそこにあるぽっかりとした穴の存在を自覚するだけだ。
「そうか」
「やっぱりって顔をしないでください。私のほうがやるせなくなります」
「悪かった」
少しだけ沈黙が続き、闘真はおもむろに右手を差し出した。
「あれを」
麻耶にはそれだけで通じる。表情がかたくなったことで、それが解る。
「お父様は、兄さんをさげすんでますが、同時に誰よりも認めている部分があります」
麻耶はかたわらに置いてあった、無骨な木鞘に収まった小刀を手に取った。それを闘真の前にかざす。
「この鳴神尊をたくしたのは、兄さんなのですから」
「……」
父が唯一認めた闘真の才能。真目家を現在の地位にのし上げたもう一つの力。一年半前の事件の元凶とも言うべき才覚。人斬り。殺戮衝動。真目家の男系にだけ現れる禍神の血。
闘真は思った。スフィアラボで現在起こってる出来事を。死んでいった仲間たちを。峰島勇次郎の遺産を。何か思惑のある伊達の顔を。そして地下深く幽閉されていた一人の少女を。
いまは少しでも対抗できる力が欲しい。
小刀をつかむ。一瞬だけ、刀身が震えた気がした。キーンと耳鳴りに似た音も気のせいなのか。
麻耶が少しだけ目を細める。
「鳴神尊も兄さんの手に戻って、喜んでいるようですね」
闘真は少しだけためらい、呼吸を落ち着けてから、手馴れたしぐさで刀を半分だけ抜く。刀身を光にかざすと、美しい光沢を放った。乱れ刃の刃紋、鎬から刃先にかけて雲のような映りが見事である。
しばらく刃の光を凝視する。心は落ち着いている。あのときのような、凶悪な高揚感はない。大丈夫、大丈夫だ。
妹を安心させるため笑顔を作ろうとした瞬間、なんの前触れもなく、心の底から黒いものがあふれてきた。それはあっというまに体中に蔓延し、感情を黒く塗りつぶしていく。両腕が一回り太くなり、血管が破裂しそうなまでに浮かんだ。刀を思う存分振るいたいという衝動がわき上がる。
必死の力でパチンッと刀を納めた。同時に体の中から、黒い衝動が霧散する。
全身が汗でびっしょりになっていた。鼻から大きく息を吸い込み、震える唇から少しずつ吐き出していく。それを数回繰り返し、ようやく落ち着いた。
「気を緩めましたね」
「……面目ない」
「いいえ。私は兄さんを信じていますから」
そして麻耶はふっと表情をほころばせた。
「では出発してください。真目家のバックアップの準備もできています」
そう言って、通信機らしきものをよこす。
「いつでも連絡ください。受信領域は世界中の97パーセントをカバーします」
「いや、これだけで充分だ」
小刀と封筒だけを受け取ろうとする闘真を見て、麻耶の表情から笑みが消えた。
「兄さん。真目家は価値ある情報を武器に、ここまで発展したのです。なのに兄さんが失敗したら? 私が真目家の名をせおって渡した情報は、無価値ということになるのですよ。そのような不名誉をかぶれと、そうおっしゃるのですか?」
「いや、そんなつもりじゃなくて。困ったな。それにあまり僕にかまうと、親父が……」
「兄さん!」
闘真に最後まで言い訳をさせず、麻耶はすくっと立ち上がる。
「真目家に名を連ねる一人として、兄さんを全力でバックアップします。たとえ」
麻耶はそこで言葉を切り、深呼吸をする。
「たとえ、お父様を敵に回そうとも」
おそらくいずれ、そう遠くない将来。麻耶と父、不坐の確執は表面化しそうな気がする。もしかしたら、それは自分がきっかけかもしれない。あくまできっかけであり原因ではないが。
「ですから、安心していってらしてください」
以前から麻耶の笑みが誰かに似ていると思った。それはずっと解らなかったが、今日初めて誰なのか気づいた。父、不坐に似ているのだ。
3
闘真は三度、機上の人となる。輸送ヘリコプターの駆動音に混じり、雨音が激しくなっていく。季節外れの嵐が近づいているのだ。
搭乗してからすでに一時間。ずいぶんと沖に出たようだ。闘真は首を回し、窓の外を見た。窓を叩く雨粒と闇のように暗い海面が、かすかに見える程度だ。
視線をヘリの中に戻す。
無骨なヘリの空間に、十数名の男がせま苦しく納まっている。ほとんどの人物は体格がよく、重装備に身をかためているため、せまい機内はさらに窮屈になっている。
峰島勇次郎の遺産犯罪対策部隊。通称LC部隊(Legacy Counter)の面々だと紹介された。峰島勇次郎のオーバーテクノロジーが生む凶悪犯罪。激化するそれに対抗するために作られた特殊部隊。話には聞いていたが、当然ながら見るのは初めてだ。メディアに露出することもほとんどない。
全員が搭乗してきた闘真の若さに驚いていた。どうして高校生がいるのかと、あからさまに不愉快な顔をした隊員もいる。
しかしいま空気が重苦しいのは、そのせいではない。異様な緊張感に空気が張り詰めていた。その理由を闘真は容易に想像できた。
席のはじに座る一人の少女、峰島由宇。その存在が、彼らに困惑と緊張をもたらしていた。場違い、という理由だけなら闘真自身も充分に場違いである。闘真は線の細いまだまだ少年の面影を残した顔立ちをしている。しかし闘真に由宇が浴びるような奇異な視線は向けられない。
思い出したように闘真に視線を向けられることはあるが、すぐにそれも由宇のほうへと戻っていく。
彼女の人並みはずれた美貌が注目を集めている、というわけでもない。なぜなら彼らは由宇の顔を見ることができない。いまの彼女は初めて会ったときと同じく目隠しをされ、顔の半分が覆い隠されていた。それだけではない。手足には拘束具、そして太いベルトが華奢な体を、座席に縛り付けている。
まるで凶悪な犯罪者の護送のようだ。しかしその扱いを受けているのは、小柄な少女。他の搭乗者の当惑をよそに、由宇は身じろぎ一つせず、唯一自由な唇を固く結んでいる。
装備も何もない。白い薄手のノースリーブのシャツにカーゴパンツ。
もし拘束具がなければ、その格好は彼女の魅力を充分に引き出していると思うところだろうが、これから行くのはショッピングを楽しむ場所ではない。敵地なのだ。
「ブリーフィングを始める」
伊達の声が、異様な緊張感を切り裂いた。
「昨日、十八時零分。環境研究施設スフィアラボが、何者かによって占拠された。久野木、スフィアラボについて簡潔に述べよ」
「はい。スフィアラボには、かの峰島勇次郎の技術がふんだんに使われています。外壁を覆う特殊ガラス、施設内の植物や微生物、そしてすべてを統括するコンピュータLAFI。とくにLAFIはクラスAの遺産で、民間レベルでそのクラスの採用は、他に例はありません」
久野木と呼ばれたLC部隊隊員の一人が、声を大にして答える。
「そうだ。スフィアラボは遺産の宝庫。その手を狙う犯罪者には、宝の山だ。まだ特定はできていないが、犯人グループは手口の類似性より蜃気楼である可能性が高い。そうだな……大場、蜃気楼について簡潔に述べよ」
「はい。四年前より頭角を現してきた遺産強奪グループの一つです。おもな目的は峰島勇次郎の遺産の強奪、非合法のルートでそれらを売りさばくことです。手口に特徴があり、強奪対象がなんらかの組織によって管理されている場合は、内部に仲間を送り込み、強奪の手引きをさせます」
「うむ、今回の事件もその性格が現れている。内部犯の手引きがあった。行動は迅速にして的確。過去何度もLC部隊が出動したが、すべて遺産が奪われた後だった。しかし今回ばかりは彼らもしくじった。警官隊に囲まれ、奴らはスフィアラボに立てこもっている。事件発生当時中にいた民間人は千四十三名。うち二十名以上は、占拠事件発生後殺害されている」
ざわめきが起こる。闘真の表情も硬くなった。犠牲者の一人は横田だ。また千名以上の人質の中には、横田の家族がいるのだ。無事かどうか不安になる。
「それでも千名以上。スフィアラボの敷地面積は、ちょっとした町に匹敵すると聞いています。それだけの人数の人質と、それだけの広さ。占拠できるものでしょうか?」
隊員の一人が質問をした。
「もっともな疑問だ。それを可能にしているのが、スフィアラボを管理しているLAFIファーストだ。LAFIファーストはスフィアラボ全体の大気調整から、ドアの開閉一つすべてを管理している。極端な話、人質達の自由を制限するという目的だけなら、ファーストを使いこなせば一人で充分に可能なのだ。犯人グループは、どのような手段を使ってか難攻不落と言われたLAFIファーストを、一瞬でハッキング。スフィアラボの全制御を奪ってしまった」
「あの……人質の人達の身の安全はどうなんでしょうか?」
闘真はおずおずと手を上げて質問をした。
「大勢の人質を少人数で管理しているという性質上、いらぬ危害は加えないだろう。暴動など起こされてはたまらないからな。過度のストレスからスフィアラボ内の限られた酸素を、よけいに消費するのも好ましくはないだろう」
それを聞いて、闘真の気持ちは少し軽くなった。
「ちょうどいい。今回の作戦に参加する二名の人間を紹介しよう。いま質問をした少年は坂上闘真君という。彼は事件発生当時スフィアラボにいて、唯一脱出できた民間人だ」
「民間人が参加ですか?」
「別に中まで同行させるつもりはない。彼には出入り口のゲートを開けてもらうだけだ」
伊達はなぜ闘真がそのような役になったか、簡単に経緯を説明する。次に由宇へ視線が集まる。全員が事情を聞きたくてうずうずしている様子だ。だが伊達の説明はあっけなく終わった。
「その少女に関しては何も聞くな。何も知るな。以上だ」
「見えたぞ。あれがスフィアラボだ」
久野木の言葉で全員がいっせいに窓の外を見て、そして息を呑んだ。巨大な、あまりに巨大な球形のガラスが海にぽっかりと浮いていた。
まわりを巡回する船が強力なライトで浮かび上がらせている。
「あれ全部ガラスか? よくもまあ自重でつぶれないな」
「いま進んでるスペースコロニー計画の外壁ガラスでも最有力候補。スペースデブリと衝突しても、ビクともしないんだとさ。放射線や有害な宇宙線もカットするらしいよ」
「たいしたもんだね、メイドイン峰島は」
「直径525メートル。普通ならあれほど大きなガラスならば、自重で変形するか割れるものなんだが。峰島勇次郎の作り出した材質は、建築工学をも大きく変えた。あれが顕著な例だ」
「写真で見るのと大違いだね」
隊員たちが次々と感想を漏らす。
「長時間の立てこもりもできそうですね」
「長時間? とんでもない。忘れたか、あれは地球循環環境を再現している。中の資源だけで自給自足が可能だ。その気になれば、一生たてこもっていられる。さらにあの外壁ガラスは破壊不可能だ。おかげで、進入は正規のゲートしか使用できない。しかしそのゲートはLAFIによって管理され、ハッキングはほぼ不可能」
「そこで、そこの坂上君の出番なんですね」
「そうだ」
「しかしこれまでの話を総合すると、メインゲートだけ開けても、中がそれだけLAFIに管理されてるんじゃ、行動制限厳しくないですかね?」
伊達は重くうなずく。
「もっともな意見だ。それは同性能以上のコンピュータでハッキングをしかけることによって、かく乱する」
「同性能以上って、LAFIは世界最高峰なんじゃ?」
「後継機がある。ADEMのLAFIセカンド。ゲートのロックを解除、第一第二部隊で突入をしかける。突入後は部隊を三つに分け、別ルートでLAFIファーストの制御室セントラルスフィアを目指す。ルートはこうだ」
伊達の説明が終わるタイミングを見計らったように、ヘリが着陸した。
「よし、全員降りろ。久野木、坂上君に念のためプロテクターを着せておいてくれ」
そう指示を出す伊達はプロテクターをつけていない。最初に会ったときと変わらず背広姿だ。
「解りました。坂上君、こっちにきて。これを着てくれるか?」
久野木が渡してくれた耐弾防刃スーツは、思ったよりもやわらかい素材でできていた。その上からさらに、見た目のごついいかにも装甲と主張しているプロテクターを着る。
「ほう、なかなか似合うじゃないか。おっと自己紹介が遅れたな。俺は久野木元也。いちおう今回の突入部隊のリーダーだ。よろしくな」
思ったよりも柔らかい久野木の物腰に、闘真はぎこちなく笑った。
「伊達さん、終わりました。あ……」
久野木の顔が由宇を見て曇った。
「そっちの彼女は、どうしましょうか?」
「必要ない」
伊達が答える前に、由宇が喋っていた。
「いや、しかし……」
「動きにくくなるだけだ。必要ない」
動きにくい? その格好で動きにくいもなにもないだろう。久野木の顔はそう言っていたが、口には出さなかった。
ここで初めて由宇の拘束が解かれた。解かれたといっても、席に縛るベルトが取られただけで、目隠しはされ、手はまだ束縛されている。両足も30センチ程の鎖でつながれ、歩くのはなんとかなるが、走るのは不可能な状態だ。
それでも器用に歩き、段差のあるヘリから床へ器用に飛び降りた。とたん、激しい雨が彼女を濡らす。
「濡れるよ」
闘真は肩にレインコートをかけてやるが、反応はない。何かに集中しているのか、ゆっくりと目隠しされた顔をめぐらせていた。
「……雨」
由宇は拘束された不自由な手で、叩きつけるような雨をすくう。
「本物の雨」
手のひらにたまった雨に、愛しそうに頬をよせた。
「つめたい」
不自由な体をせいいっぱい広げて、由宇は全身で雨を受け止めようとしていた。
彼女の頬が濡れているのは、雨のせいだけだろうか。
全身で雨を受け止める由宇を、闘真はずっと眺めていた。
4
スフィアラボ・メインゲート前
「こうも最初から計画が狂うとはな」
伊達はメインゲートの前で憮然と腕を組む。彼が睨みつけているのは、ゲートに設置されているセキュリティ認証用センサーの残骸である。ここで銃撃戦があったときにたまたま壊されたのか、それとも故意なのか。闘真のセキュリティレベルがどんなに高くても、それを判別してくれる装置がないのでは話にならない。
「どうして、もっと早く報告がこなかった?」
いまさら部下をせめてもしかたないと思ったか、伊達はあきらめたように首を振ると、次の案を練る。
「北側にもゲートがあったな。あっちは使えないか?」
「はい、北側のゲートは無傷です」
伊達はスフィアラボの見取り図をしばらく睨みつけ、断念した。
「いや、駄目だ。北側は通路もせまく、多人数で突入するには不向きだ。やはり当初の計画通りメインゲートをハッキングして乗り込むか」
伊達は後ろにいた闘真を見ると、有無を言わさぬ声で告げた。
「坂上君、聞いてのとおりだ。悪いが君の出番はなさそうだ」
「そんな」
「君の気持ちは嬉しいが、民間人を危険な場所に連れてはいけない。いますぐ帰すことはできないが、ヘリで待機していてくれ。責任を持って家に送る」
伊達は肩をぽんと叩くと、あっさりと闘真に背を向ける。もう帰れということなのだろう。
「ADEMに連絡。当初の予定通り。LAFIセカンドでハッキング。メインゲートを開ける。予定通り十八時三十分に作戦を開始する。各員突入準備。怠るな!」
ポケットの中のプレゼントの箱をぎゅっと握り、闘真は唇をかんだ。
とぼとぼとヘリに戻る闘真と入れ違いに、大勢のLC部隊があわただしくメインゲートの前に集結する。その中に拘束具姿の少女を発見した。
「……あっ」
声をかける前に、少女は引っ張られるようにゲートの前に連れて行かれた。闘真はその後ろ姿をただ眺めるしかなかった。
ADEM・LAFIセカンド制御室
LAFIセカンドの関係者達に、脱走を企てた由宇がつかまったという報告が入ったとき、それを聞いた木梨孝は、鼻で笑った。もともとLAFIセカンドのエンジニアを束ねる木梨にとって、由宇という小娘の指示は、うっぷんの溜まるところであった。
木梨がNCT研究所に勤めるきっかけになったのは、ハッキング能力を買われてのことだった。
十七歳の頃、ハッキングにスリルを覚えネット空間を遊びまわっていた木梨の所に、多大な報酬とともにNCT研究所から協力の申し出がきたのがきっかけだった。
それから十五年、世界でも類を見ないコンピュータLAFIセカンドの開発チーフを、まかせられるまでになったうぬぼれの強い実力者にとって、由宇はまさしく目の上のたんこぶである。
確かに峰島勇次郎の残した未完成のLAFIセカンドを、完成一歩手前までこぎつけることができたのは、由宇の指示があってこそだ。しかし現場に接しない人間の意見は無責任すぎるとの持論を打ち立て、公然と由宇の存在を非難していた。
まわりの人間は彼の言動を黙認していたが、だからといって由宇の存在が疎ましくなくなるということはない。
そのうっぷんが頂点に達しかけたころ、スフィアラボの事件と由宇の脱走騒ぎが起こった。そのためかどうか解らないが、LAFIセカンドによるスフィアラボへのハッキングは木梨がまかされることになった。
彼は自分の矜持が保たれたと解ると、嬉しそうにLAFIセカンドのメインコンソールの席に腰を降ろした。
すでにハッキング用のシステムは起動されている。自分の手足として最も適している選りすぐったメンバーも五名、スタンバイされている。
現場からハッキング開始の指示が届いた。木梨は満足げにうなずくと、全員に指示を出す。
「予定まであと三十分だ。これからが勝負だぞ」
木梨は、これから始まる世界最高峰マシン同士のハッキング合戦に、興奮を覚えた。
とうとう、自分の能力が完全に活かされるときがやってきたのだ。
最高のゲームだった。彼の頭に、人命の存在はなかった。
スフィアラボ・セントラルスフィア
風間遼が中央制御室に入ると、室内の温度が一気に下がったような錯覚を覚える。端整な顔立ちでありながら、目の奥に潜める暗い色が見る者に嫌悪と寒気を覚えさせるのだ。
しかしその異端の外見は、ともすればカリスマ的支配力へと変貌する。事実、中央制御室にいた仲間のほとんどは、風間の姿を見て表情を明るくした。特に紅一点である宮根瑠璃子の表情は、歓喜に等しい。対照的に彼女を見ていた光城の瞳は暗く、風間に向かって殺意に近い感情を向ける。
瑠璃子はLAFIのメインコンソールの席から立ち上がった。風間に席を譲るためだ。
「おせえぞ! どこで油を売ってやがった? この計画は、なによりも時間が大切だと言ったのは、おめえ自身じゃなかったか?」
光城が怒気をはらんだ言葉をぶつけても、風間は一瞥をくれただけで、瑠璃子の空けた椅子に座った。間髪なく、瑠璃子はバイザーを渡す。
「はい、これ必要でしょう」
風間は黙ってうなずき、それを受け取った。
光城はその二人の様子を見て、あからさまに舌を鳴らした。光城が瑠璃子に恋慕しているのは、周知の事実である。そして、瑠璃子と光城が過去に恋人同士だったのも。
光城と目が合った一人が、あわててばつが悪そうに下を向く。光城はもう一度、舌を鳴らすはめになった。
「外のLC部隊の動きが、ついさっきあわただしくなりました。突入準備でしょう。馬鹿な連中だ」
「LAFIセカンドが出てくるか。すべてこちらの思惑通りだ」
風間は裂け目のような笑みを浮かべ、そのときを待った。
スフィアラボ・メインゲート前
「あと十五分でLAFIセカンドによるハッキングが行われる」
ゲート前に集結しているLC部隊員に向かって、伊達は雨音に負けない声で怒鳴った。
「いつもどおり通信機で指令を出す。スクランブルコードはCE7Q0。リーダーは久野木。作戦の手順は頭の中に入ってるな?」
レインコートの集団が、いっせいにうなずいた。ただ一人、反応がないのは峰島由宇。コートで体のほとんどが隠れているので、拘束具の異様さは軽減されているが、体は他の隊員に比べてふたまわり以上小さいため、やはり目立つ。
「おまえも解ってるな。いやでも協力してもらうぞ。LAFIでしかハッキングが不可能だと言ったのはお前なんだからな。できればまだLAFIセカンドは使いたくない。せめてメインゲートの解除だけでも普通のコンピュータでは不可能なのか?」
「無理。何万種類ものセキュリティを自動的に生成して、たえず切り替わってる。一つのセキュリティを解く間に、新たなセキュリティがいくつも生まれる。LAFIの尋常でない処理速度と、柔軟な思考能力の賜物だ。どんなに急いでも、既存のコンピュータでは、処理速度が追いつかない。物理的に不可能だ」
伊達の質問に、由宇は意外にもあっさり答える。雨をあびて気分がいいのかもしれない。
「LAFIに対抗するにはLAFIしかない。後はお互いのプログラマの力量しだい」
「ADEM内部のコンピュータを使う以上、失敗は許されない。おまえが愛用している携帯コンピュータ、LAFIサードを持ってきてある。やることは解ってるな?」
そう言って黒いアタッシュケースから、ノートパソコンとしか思えない物を出し、由宇に渡した。
「目隠しで、どうやれって? いくら私でもそれは無理」
「待ってろ」
伊達は目隠しははずそうとせず、ノートパソコンからケーブルを伸ばし、目隠しのこめかみのあたりについているコネクタに接続する。
「これで目隠しの裏に表示されるはずだ。見えるな?」
「モニターが近すぎる。目を悪くしそうだ」
「つべこべ言うな」
「まあいいや。ついでにこれも」
由宇は手錠で不自由な両手を伊達に差し出す。両肘も体の脇に固定され、動かすのはままならない。
「それでやれ。問題ないはずだ」
「もう少しレディとしてあつかってほしいね」
「レディは一人で警備員を何十人も重傷にしたりはしない。おてんばというには度が過ぎる」
伊達が合図すると、由宇の後頭部に銃が押し付けられた。
「気が散るんだけど」
由宇はキーボードに手を置くと、まるで見えているかのように、壮絶な速さでキータイピングをする。モニター上に流れる文字は、速すぎて残像しか解らない。
「すげえ」
誰かがつぶやく。それ以外、口を開く者はいない。キーと雨音だけがしばらく続いた。やがてモニターにコンプリートと表示された。
「状況把握完了。ゴーサインはいつ?」
見えない目で伊達を見る。
「十八時三十分に予定どおりADEMのLAFIセカンドとサードでハッキングをしかける。全員突入準備をしろ」
それからしばらく静寂の時間が続く。全員が固唾を呑み、そのときが来るのを待った。
由宇だけは空を見上げている。いや実際は目隠しの裏に表示されているのだからどこを見ようと関係ないのだが、意識は明らかにモニターから離れている。
「雨、やむかな」
誰に言うでもなく、少女はつぶやいた。どこからも答えは返ってこない。
伊達は腕時計を確認し、表情をいっそう険しくした。
「十八時二十九分。あと一分で始まるぞ。準備はできてるな」
雨脚はさらに激しくなる。
スフィアラボ・ヘリポート
闘真は手の中で横田から預かったプレゼントの箱を転がしていた。
ヘリの中は闘真以外誰もいない。全員が外でなにかしらの仕事に携わっているのだ。
ヘリから出ないように言われた。伊達の言うとおり帰るべきなんだろう。しかし胸の中のもやもやした感情が、踏ん切りをつけさせてくれない。
ヘリの窓から、ゲート前に突入待機しているLC部隊を見た。壁のように大柄な体格ばかりで、少女の姿は見えない。
いらだちがつのる。
自分の手を見つめ、由宇の言葉を思い出した。一度限りのセキュリティフリーパス。
また窓の外を見る。少し角度を変えると、メインゲートから右に伸びる通路が見えた。
あの先には北側のゲートがある。足元には脱いだプロテクターがあった。
──なに馬鹿なことを考えているんだ。
頭を振り、無謀な行為を振り払おうとしたが、こびりついて離れない。
メインゲートのあたりがあわただしくなった。実際に騒がしくなったわけではない。気配が変わり、それが闘真のいるヘリの中まで伝わってきた。
ハッキングが始まったのだ。
LAFIファースト・カオス領域
大海原に漂う感覚だった。無限の水に風間の体が徐々に溶けて広がっていく。それにつれ五感の感覚は冴えていき、知覚できるものが増えていく。
電子の情報が次々と脳にパルスとなって送り込まれた。情報はすでに情報としての認識を失い、五感と同じように感じることができた。
LAFIセカンドのハッキングも知覚できる。風間にしてみれば、幼稚極まりない方法だった。電子の世界を目と指で間接的に知る人間と、五感として知覚できる人間の差と言ってもよい。
あの手この手でアクセスしてくるLAFIセカンドを風間は適当にあしらっていた。適当にあしらいながら、ダミーの中枢プログラムの海へ、LAFIセカンドを導く。ダミーと気がつかないLAFIセカンドは、狂喜して喰いついてきた。
滑稽極まりないLAFIセカンドに嘲笑を向けると、風間はゆっくりと少しずつLAFIセカンドのアクセス経路をさかのぼっていく。LAFIセカンドに悟られるのだけは、避けなければならない。
慎重かつ大胆に、風間は進んでいく。
スフィアラボ・メインゲート前
ハッキングが始まり五分。いまだに由宇の手はぴくりとも動いていない。
「何をしている、もう始まってるぞ」
後頭部を銃で小突かれるが、由宇はやはり動かなかった。
「ここまできて裏切る気か?」
「いや」
「なら早くハッキングを開始するんだ」
「相手は手ごわい」
「ならばなおさら!」
「慢心を待ってる」
「慢心?」
「セキュリティの穴は技術だけじゃない。人の心にも潜んでいる。もう少しで忙しくなる。素人は黙ってろ」
由宇は有無を言わせない厳しい声を出す。表情も硬い。
「……やはり、やつか。やっかいだな」
「やつ? 何か知ってるのか?」
伊達の問いに答えることなく、由宇はモニターに集中していた。一見して解らないが、彼女に余裕はなかった。雨に混じり、汗が頬を流れる。
LAFIファースト・カオス領域
冴え渡っていた電子の感覚の一部に、濁りが生じた。まだこの感覚に慣れていないためか、それとも急速に広がる感覚に脳がついていけないのか。しかし、風間はそれほど不明瞭となった感覚、メインゲート付近の制御を気にとめはしなかった。
いまは目の前にある馬鹿なオモチャの相手をしているほうが楽しかった。いい気になってダミーに喰らいついているLAFIセカンドを尻目に、風間はゆっくりと確実にLAFIセカンドの中枢へ近づく。
いまだ侵食されつつあることに気づかないLAFIセカンドからは、妨害らしい妨害もなかった。複雑かつ多重に張り巡らされたプロテクトを気づかれないように慎重に剥がしていく。
システムの一部を操作すると、知らない人間達の姿が脳に飛び込んできた。初めは驚いたが、それがどこかに設置されている監視カメラであると解ると、次はそれがどこを映しているのか知りたくなった。疑問が頭に生じた瞬間、答えが電子の世界を通じて流れ込んでくる。
風間は笑い出したくなった。
目の前に広がる光景の中で右往左往している男達は、LAFIセカンドを操作する哀れで滑稽なピエロ達だった。音声の情報も流れてくる。リーダー格らしい木梨という男が、指揮をとっているが、その見当外れな指示に、風間は笑いをかみ殺した。
やがて一枚だけのプロテクトを残し、ほとんど裸同然となったLAFIセカンドの中枢を、風間はわしづかみにした。
ADEM・LAFIセカンド制御室
突然の警告音。
木梨はその警告音の意味を知ると、愕然とした。
「馬鹿な」
一面のモニターに、警告を示すメッセージが次々と流れた。
「何者かのハッキングです」
オペレーターの一人が、怒鳴った。
「まさか、そんな……」
もう一人のオペレーターが信じられないとでも言うように、首を振る。
「すでに104プロテクトから005プロテクトまで突破されています。システムの47パーセントが制御不能です。こんなになるまで気づかなかったなんて!」
あちこちで悲鳴にも似た報告が飛び交った。
「アラームがうるさい、切れ! 工藤、誤報の可能性をチェックしろ。木村、ハッキング経路を追え。三浦と直木はLAFIへのハッキングを続けろ。慎重にな」
各オペレーターに指示を出しながら、木梨もモニターを睨みつけ、必死に原因をさぐろうとした。いくらなんでもあんな深部にハッキングされるまで気づかないのはおかしすぎる。彼の常識を遥かに超える出来事だった。
ふと見られている気がした。
振り返ると一台の監視カメラが、木梨のほうを向いていた。
一瞬、レンズの向こうに得体の知れない何かを感じたが、あまりに非科学的な思考を、木梨は頭を振ってすぐに追い払った。
いまはそれどころでないのだ。
スフィアラボ・メインゲート前
険しい表情を続けていた由宇が、初めてニッと笑った。
「きた」
由宇の指がこれまでの静止が嘘であるかのように猛然と動き出した。先ほど見せたスピードの比ではない。
ほぼ時を同じくしてADEMから伊達に緊急の連絡が入る。
「LAFIセカンドが逆ハックされてるだと!」
伊達はようやく由宇の意図を察した。
「こいつ、LAFIセカンドをオトリに使いやがった」
世界最高峰同士のコンピュータによるハッキングの攻防。勝利をつかみかけた人の心の隙、すなわち慢心こそがセキュリティの穴だと言ったのだ。
伊達はいまさらながら由宇の存在が怖くなる。
天才は得てして人を観ない傾向が多い。自分の頭脳の殻に閉じこもりがちだ。しかしこの少女は違う。いやになるくらい人を観察し、暴く。人との交流が少ないあの地下の底にいて、よくもこういう成長のしかたをしたと思う。いや、逆に交流が少ないからこそ、わずかな時間で相手を知ろうとした結果なのか。
由宇の指はさらに加速を続けた。
LAFIファースト・カオス領域
翻弄されるLAFIセカンドを見るのが楽しくてしかたなかった。風間はそれ一つで解析に一ヶ月はかかるようなプロテクトを、紙のようにはがしていった。
次々と送られてくるハッカー撃退用のプログラムを、片手であしらっていくと、分解され用を成さなくなったプログラムの残滓が、散っていく。
ここまで来ると赤子の手をひねるよりたやすい。
風間は絶対の自信と確信を持って、最後のプロテクトに手をかけようとした。
そこでようやく別の方向から、風間の操るLAFIファーストに向かってハッキングする存在に気がついた。外部からの妨害か。ファーストに比べればゴミみたいな性能のコンピュータだ。ひねりつぶすのに、一秒とかからないだろう。
風間は余裕の表情で、招かれざる侵入者に手を伸ばした。手が触れた瞬間、それは内からはじけ、中から現れた無数のプログラムが指に絡みつき、あらゆる手段でファーストの深部へ侵入しようとした。
ゴミのような性能は見かけだけだった。中にとんでもないものが潜んでいた。それにたいした準備もなく安易に触れてしまった。風間は屈辱に歯をかみ締める。
一時LAFIセカンドへのハッキングを中断せざるをえなくなった。いまは思いがけない伏兵をどうにかするのが先だ。
風間の歯軋りはさらに強くなる。二十秒程度だがメインゲートの制御を乗っ取られるのを避けられそうにないからだ。
スフィアラボ・メインゲート前
「二十秒が限界だ」
由宇はなんの説明もなく、それだけを口にする。
「何がだ? ゲートの開く時間がか?」
「他に何がある。ゲート開放まで、後一分」
ノート型のLAFIサードにデジタルタイマーが表示され、一分間のカウントダウンを始める。
「第一部隊、第二部隊、準備はいいな?」
「いつでも大丈夫です」
リーダー久野木が答える。
「久野木、おまえにこれを預ける」
カードキーを久野木の手の中に入れた。
「これは?」
「あの女の拘束具のキーだ。非常事態に使え。それ以外は絶対に使うな。解放すると危険だ」
久野木はキーと由宇を交互に見て、最後に伊達の顔に戻った。
「あと三十秒」
静かな由宇の声は、なぜか雨音の中でも透き通るように聞こえてくる。
「それとキーを持っている間は女に近づくな。あの状態でも危険だ。奪われる可能性がある。近づく必要があるときはキーを誰かに預けろ」
「了解しました」
「あと二十秒」
「頼んだぞ、久野木」
「はいっ!」
「あと十秒」
「全員突入準備!」
LC部隊全員のレインコートが、宙を舞う。
「ゼロ」
「突入!」
静かに、すみやかに、すべるように、LC部隊は開いたゲートに突入した。
メインゲートは由宇の言葉どおり二十秒ジャストで閉じた。LC部隊全員と由宇がゲートの中に消えた後である。
伊達はぬぐえない不安に、しばらくゲートを見つめていた。今度の相手はこれまでの相手と違うように思える。何度も峰島勇次郎の遺産を狙った犯罪にかかわったが、これほど胸騒ぎが起こることはなかった。
峰島由宇をつけたのは正解だろうか。いまだに心に迷いはある。しかしこの勝負にはどうしてもジョーカーが必要だと感じていた。諸刃の剣ではあるが、由宇の能力ははかりしれない。
伊達は司令塔をかねるヘリに向かって歩き出した。途中、闘真が乗っているヘリに顔を出す。
「坂上君、悪いがもう少し待っていて……」
開けたヘリの中は空だった。脱いだはずのプロテクターもない。
「まさかあのガキ」
5
LC部隊がゲートを走り抜けると、広い空間に出た。一辺50メートル四方くらいの広さ。天井も高く、20メートルはある。そこにいくつも積み上げられているコンテナの山。
「資材の一時搬入倉庫か。間違いないか?」
「はい、図面にあるとおりです」
久野木は部下に確認をとると、広い倉庫にLC部隊を散開させた。
由宇は最後尾にいた。入ってきた出入り口の近くである。あちこちに首を傾け耳を澄ましている。何度か形のいい眉を不愉快そうによせると、愛用のラップトップのコネクタを目隠しの端子につなぎ、キーをカタカタと打ち始める。
「よし、だいたい解った。ここを拠点に、少しまわりの様子を調べる」
久野木は予定通りであることを通信機で伊達に知らせると、由宇の様子が気になった。何かノートパソコンをいじっている。LAFIサードとかいうとんでもない物らしい。不気味だ。それにどう扱っていいのかも図りかねている。不確定要素が多く、作戦の支障にならないか不安だった。
「何をしている?」
「少し気になることがある」
問うと意外と素直に答えてくれた。しかし不用意に近づくなという忠告は守った。
「なんだ?」
「設計理念と言うべきかな。閉鎖型循環環境、というコンセプトなのは解るんだけど……、この違和感はなんだ? そもそも完全に球形にする必要性なんてないのに……」
後半は独り言に近い。
「それから、調べに行くなんて悠長な暇はないと思ったほうがいい」
「どういうことだ?」
「相手はこの施設の全制御をあずかるLAFIを使っている。もう私達の侵入は気づいているだろう。ああ……さっそくお客さんだ」
「お客さん?」
「上だ」
由宇の口が開くより早く、天井の一部が開いて何かが次々と落下してきた。高さ20メートルはある距離をものともせず、それらは盛大な砂埃と振動を従え、次々と着地する。
大仰なマスクにコンバットスーツ、手にはアサルトライフル。同じ格好の戦闘スタイルをした男が五人。LC部隊の中央に飛び込んできた。
「おいおいおい、冗談じゃねえぞ。なんで飛び降りて平気なんだよ」
LC部隊の一人が叫ぶ。驚きはそれで終わらなかった。
「撃て!」
久野木の号令とともに、突然の乱入者に向かって銃がいっせいに火を噴いた。しかし彼らは銃弾の雨をよけようともしなかった。
十秒ほど続いた銃声が、尻すぼみに消える。
LC部隊の銃弾によってぼろぼろになったコンバットスーツ。その下に見える金属質の輝きには、曇り一つない。LC部隊全員がひるむ。
「君はもっと下がれ。ここはLC部隊にまかせろ」
「へえ、あれ実用化したんだ」
久野木の忠告が聞こえなかったのか無視しているのか、由宇は移動することなく感心したようにうなずく。何かを知っている口ぶりに、久野木はすかさず聞き返した。
「あれを知ってるのか?」
「ゼクト社のA9汎用特殊装甲だ。銃弾はもとより、各部の関節にある対ショックギアが、体の衝撃を最小限に抑える。まだ試作段階かと思ったけど、思ったより半年実用化が早い。それとも試作品が流出したか」
由宇は壁に寄りかかったまま無感動に説明する。姿が敵に丸見えだ。これでは撃たれる、と久野木が動く前に、敵兵が動いた。LC部隊総勢三十名の発砲などものともせず、悠然とライフルを構えトリガーを引く。そのたびに悲鳴と血が、宙を飛び交った。たかだか五人相手に、LC部隊は後退を強いられ、追い詰められていく。
銃弾は最後尾にいる久野木達のところまで、飛んできた。
「危ない。隠れるんだ!」
久野木の叫びなどまるで気にした様子もなく、由宇は壁に寄りかかったまま。顔のすぐ真横の壁が、銃弾ではじける。
「問題ない。状況は把握している」
由宇が首をかしげると、すぐ真横で壁がはじけた。偶然か否か。
「……見えてるのか?」
見えているかどうかの問題でない。たとえ見えていても、首をかしげて銃弾をかわすなぞできるわけがない。
「耳が聞こえていれば充分だ」
──冗談だろ?
しかし現に由宇は最小限の動きで、弾の軌道から体をそらしている。彼女の背後の壁は、銃痕で十以上もの穴があるのに、いまだ由宇はその壁によりかかり平然としている。伊達が気をつけろと言った理由が、おぼろげに理解できた。敵か味方か解らないが、あれは普通じゃない。
「大場、あれを使え。一掃しろ」
久野木が戦局を打破すべく、部下の一人に指示を飛ばす。
「了解」
大場と呼ばれた男は、肩にかけてある大きなケースを開けた。中から取り出されたライフルは、呆れるばかりに大きかった。威力を追求した凶悪なフォルム。マガジンにおさまっている弾は人の指より太く長い。
「バレットM82A。こいつの徹甲弾は装甲車も突き破るぜ」
雨のような銃撃にびくともしなかった敵兵も、それを見てひるんだ。
「喰らいな」
大場が引き金を引くと、まるで大砲のような銃声がし、敵兵の一人がきりもみしながら、真後ろにふっとび壁に激突した。床に落ちた体は、ほとんど半分に千切れかかっている。
「あまり人道的な武器ではないね」
由宇が眉をひそめつぶやくうちに、二発目が火を噴いた。二人目は上半身が消し飛び、腰から下だけが地面に倒れる。
「どうした、さっきの威勢は!」
さらに大場は二発撃つ。一人はコンテナの裏に隠れたが遮蔽物ごと貫通され、一人は逃げようとして背中から粉砕された。
残った一人は恐怖のあまりか、何もできず震えて立ちつくす。股間のあたりが濡れているのは、失禁したからか。
「最後の一人と」
「大場、撃つな。そいつからいろいろと情報を引き出すんだ」
「はい」
LC部隊が体勢を立て直す中、由宇だけは相変わらず、天井へ見えないはずの視線を向け、柳眉をかすかにひそめた。それに気づかない久野木は現状の把握に努める。
「被害を報告しろ」
「第一部隊は死亡一、重傷三。第二は死亡二、重傷四です」
「くそっ、しょっぱなから被害が大きいな。そいつをここにつれてこい。いろいろ聞くことがある」
LC部隊の何人かが一人残った敵兵に近づく。大場のバレットM82Aは狙いをさだめたままで、逃走を許さないかまえだ。
「……まずいな」
由宇は天井を見たまま、つぶやく。
「どうした?」
「まずい」
「まずいって、何がまずいんだ?」
その答えはすぐに降ってきた。巨大な何かが先ほどと同じように落下してきたのだ。それは下にいた隊員の一人を踏み潰し、仁王立ちになる。2メートルを軽く超える巨漢に踏まれた隊員はピクリとも動かない。
まだ事態が把握できず、呆然としているそばの隊員の頭を、ウチワみたいに大きな手がわしづかみにした。巨漢はそのまま軽々と持ち上げると、耐弾ヘルメットごと握り潰してしまう。
「亜門様!」
一人生き残っていた敵兵がすがるように近づいた。しかしあろうことか、味方であるはずの兵士を、亜門と呼ばれた男は文字通りうなりをあげる拳で殴りつけた。M82A以外まるで銃弾をうけつけなかった特殊装甲があっさりとひしゃげ、地面に叩きつけられた生き残りは動かなくなった。
「負け犬に生きる資格はない」
亜門は低く唸る。
「それじゃ、てめえに生きる権利はあるってのかよ!」
大場のM82Aが続けざまに大砲のような銃声をあげた。全弾が亜門に命中し、爆煙につつまれる。
「へっ」
笑いかけた大場の表情が一変する。爆煙をかきわけて出てきた亜門には、傷一つついていない。大場はさらに撃つが、巨漢は多少のけぞりこそするものの、それだけに終わる。
「な、なんなんだ、あれは!」
「まいったな。オリジナルだ」
そう喋る由宇の様子は、あまりまいっているようには見えない。
「オリジナル?」
「A9汎用特殊装甲のオリジナル。Eランクの遺産の一つ。さっきまで戦っていたのは、粗悪な模造品にすぎない。……次々とよくまあ」
最後の一言は、天井を見ていた。
「もう一つ、くる」
「なんだって?」
天井からさらに一つ、黒い影が亜門の隣に降りた。これもまた、異様な姿をしている。全身に漆黒のコートをまとい、その肩には幅の広い剣がかつがれている。剣の表面には電子回路のような光学模様。
「くくく、かかか、ひゃぁぁはっはっはっ! 雑魚雑魚雑魚雑魚雑魚雑魚、雑魚だらけじゃねえか!」
エキセントリックな甲高い声。どこか病的な雰囲気がある。
「なんだあLC部隊って言ったら、遺産犯罪のエキスパートじゃねえのかよ? なあ亜門、拍子抜けもいいところだぜ」
「だったら出てくるな、光城」
「おいおいおいおいおいっ! 亜門よお、おめえ一人で全部喰おうってか? そりゃムシがよすぎるぜ。俺にも半分くれや」
「好きにしろ」
屈辱に大場が怒鳴る。
「ふざけるな!」
亜門にはきかないと悟ったか、M82Aを光城に向けた。光城はけだるそうに銃口を見つめ、剣をふりかぶった。
大場は怒声をあげながらトリガーを引いた。銃声と剣の一振りはほぼ同時。他には何も起こらなかった。大場が撃ったはずの弾丸が、どこかに着弾した音もない。
不発か。誰もがそう思った。大場もそう思い、トリガーを何度も引いた。そのたびに剣が音もなく無造作に振られ、弾はいずこかへ消えた。
「つまんねえつまんねえつまんねえつまんねえんだよっ!」
光城は剣を振りながら、一直線に大場に近づいていく。
「斬った? いや消したのか?」
久野木は目を見開く。どんなカラクリなのか、光城はその馬鹿でかい剣で、弾丸を消している。
「消えるわけがない。よく見るといい。足元が解りやすいはずだ」
由宇の言われたとおりに目を凝らすと、鉄色の砂塵が一振りごとに地面に散らばっていくのが見えた。
「鉄の砂?」
「弾のなれの果てだ。聞いたところ、LC部隊に対抗できそうな武器はないな。遺産犯罪対策部隊と名乗るなら、もっと規制を緩くしてもいいのに」
由宇の言葉はどこか他人事のようだ。
「くそ!」
大場は銃を構え、吼えながら光城に突進した。得体の知れない恐怖が、彼を無謀へと動かした。銃声だけがむなしく響く。
「馬鹿が」
光城がすべるように間合いを詰め、大場を剣の間合いに引き込んだ。
閃光一閃。大場が斬られた、と思った。しかし地面に転がった肉体は、ピシャッと妙に水っぽい音をたてる。ヘドロ状の肉塊が散らばっていた。服の間から、まるで溶けたアイスみたいに、どろどろの肉が流れ出る。人間の姿をとどめていない。血と肉のまじったすさまじい臭いが、部屋に充満する。
何人かがそれを見て口を押さえ嘔吐した。
「な、なんだ……あれは?」
久野木も呆然としている。
「霧斬か。またやっかいなものを……」
由宇がぽつりとつぶやく。
「む、ざん?」
「液状化現象と似た現象を引き起こす」
「液状化現象だって?」
「そうだ」
液状化現象なら久野木も聞いたことがある。
地震などの振動により地盤を構成する粒子同士の結合力が弱まり、地面がヘドロ状になる現象のことだ。
「昔から刃物に超振動をあたえ、威力を増加させる方法は考案されていたが、あれはそれをさらに発展させた武器だ。対象物の構成する物質の結合力を弱める振動数を瞬時に割り出し、液状化現象を最速に発生させる。水分のない鉄では砂のように砕け、人だとああなる」
「あれも遺産の一つなのか?」
「そう。クラスDに相当する遺産だ。いつか回収したいと思っていたが、もう人の手に渡っていたか。指先にかするだけで、腕一本まるごと持っていかれる。体が液化する苦痛に耐えられる人間はいない。ショック死するか発狂するか」
久野木が青ざめる。これほど強力な遺産を有した相手だとは思わなかったのだろう。
「LAFIを使いこなし、いくつかの遺産を手にしている。最悪の予想があたりそうだ」
顔下半分しか見えないが、苦々しい表情をしているのが解る。
「最悪の予想?」
「撤退しろ。お前達がかなう相手ではない」
「だ、駄目だ」
「全滅したいのか。撤退しろ」
「駄目だと言ってるだろうが!」
久野木が怒鳴り返した。
「ならば、私のいましめをとけ」
「なんだと?」
「助けてやる。いましめをとけ」
久野木の目に迷いが生まれる。非常事態以外、この少女を解放するなと指示されている。いまは非常事態か。否。由宇に対する不気味さと不信感も手伝って、久野木は即断した。この少女は解放してはならない。
「第一部隊はあの扉から、第二は向こうの廊下にそれぞれ応戦しながら移動しろ。オトリを各隊二名ずつだせ」
久野木は通信機で各隊に伝えると、由宇は少しだけ不愉快な表情を見せた。
「オトリ?」
「無傷で通れると思っているほど、甘くはない。吉田、その娘を引っ張って来い。行くぞ」
久野木が走り出そうとしたそのとき、コンテナが爆発するようにふっとび、その裏から亜門が姿を現した。
「なんだ、この娘は?」
亜門は鎧のような装甲の奥から、束縛された少女を見つめた。
6
闘真は真っ暗な通路を一人で歩いていた。
スフィアラボを夜一人で歩くのは慣れていたがいまは違う。心臓はめちゃめちゃに暴れ、自分の足音がやけに大きく聞こえる。
途中、ロックのかかっているドアの認証パネルに手を置くが、開く様子はない。
「やっぱり一回限りか」
北側のゲートからこっそり入ったはいいが、どうやって合流しようか。しかし迷うまでもなかった。なんの前触れもなくけたたましい銃声が続けざまに鳴る。せまい通路に耳が痛いほど反響した。
──どこかで、近くで戦闘が起こってる。
足がすくみそうになる。しかし闘真は己を鼓舞し進む。この先の銃撃戦の中に、自由に動けない少女がいるかと思うと、足を止めるわけにはいかなかった。
途中、二、三人のLC部隊の隊員とすれ違う。一様に恐怖が張り付いた表情をしていた。通路の先に開けた空間が見えた。銃声も悲鳴もあそこから聞こえる。
知っている顔が、ふらふらと廊下に現れた。ヘリで一緒だった人である。名前も覚えている。久野木だ。全身血まみれで、鉄片が背後から胸を貫いている。倒れる体をあわてて支えた。
「久野木さん!」
呼びかけても返事はない。すでに絶命していた。
久野木の腕が力なくたれると、カランと足元に何かが落ちた。見慣れたカードキー。
闘真はそれを拾い上げると、迷うことなく銃声の鳴り響く通路の奥へ走り出した。
7
亜門は戸惑っていた。
「おん……な? 女か?」
確かに女だろう。拘束具で拘束された体は、女性的なラインを強調し一目瞭然だ。しかし亜門が言いたいのは女がいるということではない。あまりに意外なものが目の前にあるため、言葉がいろいろとはしょられてしまっただけである。
LC部隊の中にどうして武装もせず、代わりに拘束具で動けなくした女がいるのか。その必然性がまるで理解できず、彼はしばし硬直した。
細い腰なら片手で一掴みしてしまいそうな大きな手を、由宇に伸ばした。それは捕まえるというより、目の前のものが現実か幻か、確かめるという意味のほうが強い。
しかし由宇は床を転がるようにしてそれを避け、亜門の手はむなしく空をおよぐ。拘束された体とは思えないほどすばやい回避行動は、残像を残しやはり幻だったかと、一瞬勘違いさせたほどである。
同じことをもう一度繰り返し、呆然とする亜門に、夢か幻のごとき少女は一言口を開く。
「のろま」
亜門の体が先ほどとは別の意味で止まる。鎧のような装甲の隙間からわずかに見える顔が真っ赤になり、熱風のような威圧感をまきちらす。
「おや、心拍数が上がったね。もしかして、のろまとか愚鈍とか鈍重とか愚図とかカメとかウドの大木とか、言われるの嫌いなタイプ? 許せ。私は嘘がつけないたちなんだ」
目隠しは依然されたままなのだが、言動はとてもそうとは思えない。
亜門は無言のまま、突進する。とてものろまという動きではない。巨漢からは想像できない俊足。軽量級のボクサーに匹敵する。しかし由宇は、それを苦もなく後ろに宙返りしてかわした。弓のようにそった体が空中で綺麗に一回転する。
驚嘆すべきはその動作に、亜門がついていったことである。
「ふんっ!」
迷うことなくさらに一歩踏み出し間合いをつめ、いまだ宙にいる由宇に充分な破壊力ののった拳をお見舞いする。しかし亜門の腕に手ごたえはなかった。綿を殴ったような奇妙な感触。由宇の足の裏が拳を受けとめていた。膝の関節を絶妙のタイミングで曲げ、豪腕を柔らかに殺したのである。
息つく暇どころか着地するまもなく、新たな攻撃が由宇を襲う。いまだ宙にいる由宇の頭上に影が落ちた。
「ひゃっほおおぉぉ!」
真上には高々とジャンプした光城の姿。剣を大上段に構え、体重を乗せた一撃を振り下ろした。人体ならそれに触れるだけで、振動により液状化させ絶命させる必殺の武器。まして剣の軌道は、由宇の体を真っ二つにするに充分な速さと正確さを兼ね備えている。
由宇は鋭い息を吐き、亜門の拳を蹴り、それをかわす。かに見えたが、それより早く亜門は拳を引き、キックを無効にした。よほどのろまと言われたのが、しゃくにさわったのか。由宇は拘束具をつけ不自由なまま、宙に取り残された。
もうかわすすべはない。光城の凶刃が由宇を両断、否、肉と骨のゼリーにするかと思われた。しかし刀はなんの手ごたえもなく、そのまま地面のコンクリートを粉砕して終わる。由宇の体はなぜか、跳ぼうとした方向とは逆方向に引っ張られるように移動した。
亜門の引いた拳に、拘束具の足と足を結ぶ鎖が引っ掛かっていたのだ。由宇にしてみれば、引っ掛けていたと言ったほうが正しいか。そのまま引っ張られた遠心力を利用し、由宇は鎖をはずすと、体操選手みたいに綺麗に両足で着地する。
一瞬の沈黙。それはわずか数秒の攻防で見せた、峰島由宇の実力がもたらしたものである。
亜門と光城は小柄な少女を凝視する。この娘は何者なのか。どうして束縛されているのか。本当に目が見えていないのか。そしてなによりも、束縛されていなければ、どれほどの実力があるのか。同じ疑問が二人に浮かぶ。それは恐れであり、戸惑いであり、期待でもあった。
「おもしれえじゃねえか。おい亜門、そっちに回れ」
光城と亜門は左右からじりじりと距離を詰めていく。スピードで翻弄するタイプはかえってじわりと攻められるほうが弱い。
「やめろっ!」
そこへ思いがけない声が、聞こえた。めったに驚かない由宇が驚いた顔をする。
「なんでここに!」
現れたのは坂上闘真。高く上げた右手にはカードキーが握られている。
「これを!」
闘真はそれを思い切り投げた。カードキーは空高く、なぜか光城のほうへと飛んでいく。
「へたくそっ!」
光城の剣をかいくぐり、由宇は大きくジャンプする。見事口でカードキーをキャッチし着地するやいなや、さらに大きくとんぼ返りをしコマのように体をひねり、今度は膝をつくように着地した。髪がふわりと舞い降り、同時に外れた拘束具が次々と由宇のまわりに落下する。由宇が凜然と立ち上がると、最後に顔半分を隠していた目隠しが落ち、そのたぐいまれな美貌をさらした。
その容姿すら戦いの道具となるのか、つかの間の時間、停滞する光城と亜門に、由宇は間髪をいれず間合いを詰めた。目指すは二人の間合いのちょうど中間地点。光城と亜門はお互いの戦い方を熟知している。間合いもである。それがかえってアダとなった。寸分の狂いもなく二人の間合いの中間を射貫かれたため、躊躇が生まれた。先の隙と合わせて一秒にも満たない時間だが、それは寸刻みの戦いの中では決定的に大きい。
生まれた空白の時間を縫って、由宇は亜門へ向かい、まるで慣性がないかのごとく進路を鋭利に変更した。同時に手にしたカードキーを指ではじく。手裏剣のように回転するそれはまっすぐ光城に向かい飛んでいく。
虚をつかれた亜門が気づいたときには、由宇との間合いが近すぎた。あわてて体重の乗った拳を振っても、破壊力が最大限になる打点はずれ、威力は半減してしまう。それでも小娘一人を撲殺するのには充分な一撃。
だが由宇は跳躍すると羽のように拳の真横に着地した。顔が膝に激突しそうなほど、体を屈伸して威力を殺す。拳は勢いを殺さず少女を乗せたまま、吹き飛ばそうと振りぬく。それこそが由宇の意図するところであった。その勢いを利用し光城の方角へ、弾丸のごとく飛翔する。なんと先に投げたカードキーすらも追い越し、光城の頭上を超えた。
頭上を飛び越える由宇を追い、思わず振り返った光城の耳と頬が、遅れて到着した手裏剣のように回転するカードキーにより深く裂けた。
光城が耳を押さえうめくと同時に、由宇は突き刺さるような着地を決め、その反動を余すことなく足へつぎ込み、あっというまに光城の懐へともぐりこむ。
距離を開けようと後ろに下がったのは光城のミス。いや誘発されたということか。あわてて由宇へ向かおうとした亜門と絡まるように激突してしまった。
由宇はそこで軽やかに、足をトンと止めた。長い髪だけが慣性の法則に従い、一瞬だけ彼女を包み込む。
「ふむ……こんなものか」
激突し倒れた光城と亜門に追い討ちをかける様子は見せず、由宇は体の各部を点検するように、手足をぶらぶらとさせたり体をひねったりを繰り返した。
「まだ多少誤差はあるが」
「て、てめえ!」
光城はようやく立ち上がると、コケにされた屈辱に体をわなわなと震わせた。逆に亜門のほうは冷静である。彼への禁句は『鈍い』だけか。
その一部始終をあますことなく見ていた闘真は、ただただ呆然としていた。体のキレは地下で会ったときの比ではない。
どう見ても尋常でない敵二人を相手にして、由宇にはまだ余裕がある。しかも彼女の動きは戦いとは思えないほど美しい。指先まで緊張と神経を行き届かせた動作は、まるで洗練されたバレエを見ているようだ。
──あの娘の身体能力は、我々と根底が違う。人間工学を遥かに発展させた自己管理能力にある。
伊達の言葉の意味が徐々に頭の中に浸透していく。
──あの娘にとって体を動かすというのは、運動を意味するのではない。頭脳労働なんだよ。
彼女にしてみればいまの行動すべては、計算ずく、予測済みということなのだろうか。多少誤差があると言ったのは、そういう意味なのか。
由宇の運動能力は驚嘆の一言であり、驚嘆は感動に変わり、感動は闘真の底に眠る黒いうねりを呼び起こした。
「あ……」
不意打ちに近いそれに闘真は膝をついた。突然呼び覚まされる殺戮衝動。右手が勝手に、腰の後ろの短刀を握る。由宇を助けるためではない。殺すためだ。
あわてて左手で右手首を押さえた。押さえられた右手の指は、まるで壊れたみたいにデタラメに動く。
「う……くく」
黒いうねりが体の中を徐々に蝕んでいく。いけない。このままではいけない。理性が必死に警報を鳴らすが、侵食は止まらない。
体に異常を起こしたのは闘真だけではなかった。偶然にも同じタイミングで、光城がガタンと剣を落としていた。
「ちちちち、ち、ち、ちく、しょうおおお、ひっ、ひゃっ」
ろれつの回らない声で、悪態をつく。剣を何度も拾おうとするが、すぐに落としてしまう。まるで極寒の地のように体を震わせている。闘真の症状に似ていなくもないが、闘真の衝動に対し、光城は病的な感じである。
「禁断症状か」
由宇は冷めた声を出す。
「あああも、あもんんん、ははははなななはなせええええ」
抗議を無視して、亜門は片手に光城、もう片手に剣を持つと、由宇を警戒しながら、少しずつ下がっていく。
由宇は少しだけ迷う様子を見せるが、うずくまり、うめいている闘真に視線をやると、緊張を解きさっさと行けといったしぐさをした。
「次は殺す」
短い言葉を残し、人一人抱えているとは思えない俊敏さで、亜門は走り姿を消した。光城の悪態も遠くなり聞こえなくなる。
由宇はゆっくりと闘真に近づき、膝をついて顔を覗きこむ。
「さて君の場合は薬物中毒、というわけではなさそうだな」
「あ……に、逃げて」
暴れる右腕を、闘真は必死に押さえていた。汗がしずくとなって、いくつも落ちる。
「真目家ゆかりの人間となると、なるほどそれが禍神の血か。初めて見た」
観察するように闘真の顔を覗きこんだ。由宇の瞳が目の前にあった。綺麗な瞳だ。とても綺麗なのに、その奥に闇よりも深い色があった。それがなんであるか闘真は瞬時に悟った。かつて自分も通った非情の決意。その意味に闘真の理性は戦慄し、内なる狂気は歓喜した。
汗が押さえていた手を滑らせた。警告する暇もなかった。右手はすばやく小刀を抜いたかと思うと、由宇の首筋へ蛇のように走った。
次の瞬間訪れる惨劇に、闘真は思わず目をつむった。しかし予想された感触はいつまでも右腕から伝わってこなかった。うっすらと目を開けると、小刀は止められていた。刃が二本の細い指ではさまれている。由宇の指だ。ほんの少し首筋に触れた先端から、血が伝い、刃を赤いラインで彩る。
闘真を見つめる由宇の表情に変化はない。
「遺伝子レベルで組み込まれた殺戮衝動と、人格の二面性。技の練磨は骨格選別の域にまでおよんでいるか。真目家も古いだけがとりえではないようだ。禍神の血、なかなか奥が深い」
「あ……あ……」
「落ち着いて。衝動を無理やり押さえると、反発が大きい」
冷たい手のひらが、闘真の頬に当てられた。
「衝動は押さえるのではなく、向きを変えるとイメージしたほうがいい。目をつむって、集中する」
言われたとおりに目をつむる。由宇の冷たい手のひらから熱が奪われるように、体の底の黒いうねりが収まっていく。呼吸が徐々に落ち着いた。暴れていた右手の力が抜け落ちる。
「深呼吸を、ゆっくりと」
「ふうううう、はああああ、ふうううう」
「落ち着いたか?」
「うん」
「衝動は?」
「……おさまった。大丈夫」
「うん、目を開けていい」
目を開けた闘真に新たな衝撃が来る。目と鼻の先に由宇の顔があった。呼吸が闘真の鼻をくすぐる。
「うわあああ、たったったっ」
思わず大きくのけぞり、盛大に後ろにひっくり返ってしまった。ゴンと後頭部を床にぶつけ、しばらく苦痛にのた打ち回る。
「騒がしいな君は。本当に衝動はおさまったのか?」
由宇は呆れたようにため息をつく。
「いや、だって!」
反論しようとした闘真は、由宇の首筋を見てあわてて言葉をとめ、暗い顔になった。
「ん? ああ、気にするな。私のミスだ」
指で血をぬぐい、由宇はあっけらかんと喋る。
「だって」
「私には一つ悪い癖がある。なんでもきわどいラインで見切ろうとする。本当は1センチ程度手前で止める予定だった」
「でも」
「悪いと思うなら、少し手伝ってくれ。十分程度でいい。それでチャラにしよう」
「そんな、その程度で……」
「手伝うのはいやか?」
「そ、そんなことないよ」
あわてて手を振り、必死に否定する。
「禍神の血か。あの距離で1センチの誤差は大きい」
立ち上がりホコリを払う闘真に、由宇は厳しい視線を一瞬だけ向けた。
「え、何?」
「いや、なんでもない」
8
あれは、あの少女はいったい? 情報の海の中で、風間は驚嘆していた。
光城と亜門は戦力の両翼である。LC部隊への対応は、この二人にまかせておけば大丈夫という程度の信頼は置いている。事実、そのとおりになるはずだった。戦いに興じるあまり目的を忘れがちな一面もあるが、それは指揮官である自分がうまくコントロールすればいいこと。問題といえば、その程度のはずであった。
しかしたった一人の少女によって狂わされた。何者なのか。
少女の動きをあらゆる見地から分析する。スフィアラボに備えられた各種センサー、可視光線はもとより赤外線、紫外線、マイクロ波による映像分析、超指向性マイク、床の圧力センサー。それらを駆使し、少女の動きを解体していく。
すぐに少女のエネルギー消費量が算出された。本来スフィアラボに備わっている機能なだけに、簡単に割り出せる。それは驚くべき事実を発覚させた。
少女の体の動きにエネルギーロスはほとんどない。無駄な動きがない。これは普通ありえないことだ。歩くという行為だけでも、人は無駄にエネルギーをロスする。小さな小石一つ踏みつけただけで、影響が出る。
それを二人の男相手に戦い、エネルギーロスがほとんどないのは不可能に等しい。相手がどんな動きをしてくるか解らない以上、臨機応変がどうしても必要になる。予定外の行動は、エネルギーのロスにつながる。だからおかしい。
結論は一つしかない。少女は光城と亜門の二人の行動を完璧に予測してみせた、ということになる。それも拳や剣を振り回すタイミングなどを百分の一秒以下の精度でだ。
それこそ不可能だ。風間は概念的な存在の頭を振る。
もう一人の少年も気にかかる。誰なのかはすぐに解った。坂上闘真、十七歳、単にスフィアラボにバイトに来た学生にすぎない。それなのに、なぜかカオス領域に直接アクセスするセキュリティ権限を持っていた。すぐにその権限は削除したが、気にかかる。何をしに戻ってきたのか。
他の職員も総ざらいし、一人だけカオス領域に侵食したセキュリティレベルを発見した。横田健一、システムエンジニア。地位は主任どまりだが、有能なのは残っているデータの仕事振りを見れば解る。本来のセキュリティレベルも0と、その地位を考えると破格の好条件だ。現場では認められ上の人間には理解されない、典型的な職人気質だ。
この三者につながりはあるのか。そもそも少女は何者なのか。外部のデータを洗いざらい調べてみるが、まだ引っかからない。
少女の行動をすぐに束縛すべきなのだろうが、あのあたりのドアロックの制御は先ほどのハッキングで、ままならない状態である。あと十分程度の時間が必要だ。
最要注意人物として、少女の行動の監視を強化した。
9
闘真は嘔吐した。
どろどろに溶けた人間の死体なんて見たことがない。見た目も酷いが臭いも相当なものだ。それに比べて由宇は血肉の塊に、顔色一つ変えることなく触り、服を点検している。
「な、何してるの?」
「身元を調べている。名前は解らないがLC部隊の認識番号は書いてあるはずだ。闘真、君もあっち側を調べてくれないか。番号は叫んでくれればいい。こっち側の死体は私が調べる」
口のまわりの汚物をぬぐい、言われたとおり死体の服をひっくり返し番号を由宇に伝える。こちらの死体も酷い。目を背けたくなるような状態が多い。ただ闘真は十七歳の高校生にしては、昔から死体を見慣れていた。禍神の血は死を振りまく。嘔吐したのはどろどろの死体だけで、後は気丈に調べていく。
「終わったよ」
「こっちもだ。計十一名か」
由宇は通信機を手に取ると、スイッチを入れる。
「伊達、聞こえるか? 私だ」
『由宇、おまえか? 久野木はどうした? 他の隊員は?』
「戦闘が起こった。久野木は死んだ。他にも十人」
『まさか一人なのか? そこで何をしている?』
「自由を満喫している。あ、でも一人じゃないね。坂上闘真君が一緒だ」
『坂上君? やっぱり中にいるのか。彼は無事なんだな? とにかく経緯を説明しろ』
「あいかわらず外から偉そうに命令するな。まあいい。いまから殉職した隊員の認識番号を読み上げる」
それから由宇は淡々と番号を羅列していき、事の経緯を説明する。
「以上、これまでの経緯と確認できた範囲での殉職者の番号だ」
『ご苦労だった。では、すぐに残りのLC部隊と合流しろ、作戦を立て直す』
「それは断る」
『なんだと?』
「足手まといは少ないほうがいい」
少ないってのは、自分のことなんだろうなと闘真は思った。まわりには誰もいない。
「D、Eランクの遺産をむこうは所持してる。LC部隊じゃ対処しきれない。撤退させろ」
『それはお前が決めることではない。命令にしたがえ』
「それなら、そっちはそっちで勝手にすればいい。私は私で勝手にする」
『忘れるなよ、お前の体の中にある毒の猶予時間は、後十三時間あまりだ』
「たまに忘れたくなる」
由宇が通信を切ると、闘真が詰め寄った。
「毒ってどういうこと?」
「あと十三時間で体に埋め込まれたカプセルが溶け、中の毒が私を殺す」
「伊達さんがやったことなの?」
「うん。ご丁寧にも彼みずから注射をしてくれた」
「なんて酷いことを! まさかそんなことまでする人とは思わなかった」
「そうか? いつ噛みつくか解らない狂犬を、飼いならすには悪くない手段だ」
「そんな他人事みたいに……」
「錯乱しても無意味だ。それよりここを出る。そろそろLAFIファーストの能力が回復するころだろう。まったくあの男が相手となると、いろいろと面倒だ」
闘真は息を呑み、かすれた声を出す。
「犯人の正体が解ってるの?」
「主犯格の想像はついている。説明は気が向いたらしよう。相手が誰であれ関係ない。私は私の目的を果たすだけだ」
「君の目的って、なんなの?」
由宇は少しだけ困った顔をし、首をかしげると、
「内緒だ」
といたずらっぽく笑った。
その瞳に、つい先ほどまであった闇の色がないことに、闘真はほっとした。
由宇はいくつか荷物を選別すると、プラントエリアに行く通路を歩く。カツカツと颯爽とした歩調で、敵地にいるとは思えない。
闘真もいくつか荷物を抱えながら横に並ぶ。並ぶと彼女の小柄な体格が、よりいっそう明確になる。小柄といってもモデルのような体格をそのまま縮小した彼女の体のラインバランスは、絶妙の一言である。
「本当にプロテクターつけなくて大丈夫なの? 一応つけたほうが」
「前にも言ったけど動きが鈍くなる。空気の流れも読みにくい。まあ、君はしっかりとつけておいたほうがいいと思うが」
言われなくても闘真はそのつもりだ。軽く頑丈なプロテクターは心強い。動きが阻害されるということもない。しかし同じ重さが増えても体重比を考えると、彼女にしてみれば、そうではないのかもしれない。
「あの峰島さん、一つ聞いていい?」
「その姓は嫌いだ。名前でいい」
由宇は憮然と言い放つ。
「あ、じゃあ、えーと、由宇さん?」
「ただ由宇でいい」
「え、ええと、じゃあ由宇、一つ聞いていい?」
「うん、私に答えられることなら」
少し気恥ずかしく感じながら名前を呼ぶと、由宇は機嫌よくうなずいた。
「さっきの戦い方なんだけど」
「うん」
「どうやればあんな動きができるの?」
「簡単だ。体の各筋肉の強さをグラム単位で管理し、物理法則をリアルタイムで計算すればいいだけのこと」
「……それ簡単って言わない。敵の動きも、なんか読んでたみたいだけど」
由宇は少しだけ目を細めて、
「どうしてそう感じたのか興味深いな」
「なんか全部、あらかじめ決めていた行動を、やっただけですって感じだったから」
「なかなかいい洞察力をしている。君に対しての認識を少し改めよう」
「ど、どういう認識だったのかな?」
「なぜ君は、そんな自虐的な質問ができるんだ? 特殊な性癖を持っているようには見えないが」
つまり聞かないほうがいい内容なのだろう。質問を切り替える。もとい、もとの軌道に戻した。地下で会ったときは、質問してもけんもほろろだった。気まぐれな性格なのか、気分がいいのか、いまは質問に素直に答えてくれる。聞くだけ聞かなければ損だ。
「じゃあ、あの、それって相手の行動も予測済みってことだよね?」
「筋肉のつき方や骨格から、身体の動きの特徴とその限界、戦いにおける行動はある程度限定できる。他にも五感の情報をいろいろと加味すれば、思考を予測するのも難しくはない」
「それって僕のも読める?」
「ん? 読んで欲しいのか?」
「まだ読んでない?」
「当たり前だ。読めば相手が不快感を覚える程度には解ってしまう。一種のプライバシーの侵害だ。私はそれほどモラルが欠如した人間ではない」
由宇のモラルがいったいどの程度の定義なのか、闘真はいささか疑問を禁じえなかったが、口にしないだけの賢明さはあった。
「でもさっき僕を見て、遺伝子レベルとか骨格がどうとかって。僕自身よく知らないのに」
「あんなのは庭先を見た程度だ。問題ない」
「モラルって言葉が、どの程度のものかよく解ったよ」
「そうか。理解を得てなによりだ」
由宇は満足そうにうなずくと、魅力的な笑みを浮かべた。皮肉はまるで通じていない。ただ単に、通じていないフリかもしれないが。
「逆に私から質問していいか?」
「あ、いいよ。なんでも聞いて」
「なぜ君はスフィアラボに入ってきた? 無謀にも限度というものがある」
「あ、それは……その」
「人には言えない類のものか? やましいのか?」
「いや、そうじゃないよ。ホントに、違う。約束があるんだ」
ポケットの上から、中のプレゼントの感触を確かめる。
「ある人に会って、渡したいものがある。ここでバイトしていたとき、いろいろと世話になった人の頼みなんだ。死んじゃったけど」
「横田健一という男性の頼みか?」
由宇がその名前を覚えていてくれたことが嬉しく、闘真の暗く沈んだ気持ちが少しだけ明るくなった。
「うん、いい人だった」
「しかしそれは事件が解決してからでも、可能な頼みごとではないのか?」
「誕生日プレゼントなんだ。今日が横田さんの娘の。最後の誕生日プレゼントが遅れて届くなんて、悲しすぎるだろう。それに横田さんが死んだことを家族に伝えないと」
「君は余計な苦労を背負うタイプだな」
「よく言われる」
妹の麻耶の顔を思い出す。
「悪いことではない。それだけ誠実に生きているということだ。しかしここに来た理由は、本当にそれだけなのか?」
由宇は横目で探るように闘真を見た。
闘真はどう答えていいか迷った。拘束具で自由を奪われ、連れて行かれる由宇の姿が思い出される。
「心配だったから……」
「何が心配だったのだ?」
「何がって、その」
「うん?」
「だって……その、由宇は女の子じゃないか」
闘真が喉を振り絞ると、由宇は大仰にうなずいた。
「うん、当然だ。私の体を見て男性と判断する人は少ないと思う」
「違う……そうじゃなくて」
急に由宇は不安そうな顔をした。
「違うって……あ、まさか、私の体に何か欠点があるのか? 女性として何かおかしいのか?見たくらいでは解らないのか?」
何を思ったか、自分の顔をぺたぺたと触りだした。
「やっぱり顔か? 顔がおかしいのか? 大抵の者は私の顔を初めて見ると、呆然とする。戦いのさ中なら戦術的に効果があると思い、あえて気にしないようにしてきたのだが。や、やっぱり変なのか?」
「いや、だから違うって」
手をぱたぱたと振り、闘真は脱力した。
「嘘は言わないで、本当のことを言ってくれ。心の準備はできている」
──なんの?
「だから大丈夫。由宇はどこから見ても女性だと解る。顔も、うん、そう、そうとう控えめに見ても、女性的だと思う」
「なぜ奥歯に物がはさまった言い方をする?」
「もう、なんで解らないのさ!?」
「解らないのは君だ。私が生物学的に女性であるということと、君の言った放っておけないというのは、何か関連性はあるのか? この問題は一向に解決していない」
──これのどこが人の心を読むのに長けているんだ?
呆れかけた闘真はしかし、その理由が突然ひらめき、暗澹たる気持ちになった。
由宇は人の心を読むのに長けている。悪意、殺意、不安、恐怖、不快、すなわち負の感情に機敏で、それは見事に読むのだろう。戦うことに関してはそれで充分なのだ。
しかし人から心配されたり、気づかってもらったりなどの好意は読めない。いや解らない。きっと由宇はそうした感情を、向けてもらった経験がほとんどないからだ。
あの地下で恐れられ、敵意を向けられ、利用され。やりきれない気持ちになった。
由宇が突然憮然とした声を出した。
「君は人を不快にさせることに関しては、エキスパートのようだ」
「え? え?」
「なぜ私がそんな哀れみの視線を、受けなくてはならない? じつに不愉快だ」
なんて言い訳をしようか、闘真はまた頭を悩ますことになるとは思わなかった。しかしその時間は短くてすんだ。
「思ったよりも回復が早いな」
歩きながら由宇がまわりを見る。声が硬い。彼女の緊張感が一気に高まるのが解った。
「早いって何が?」
「LAFIファーストの制御を取り戻すのがだ。どうやら最悪の予想が当たりそうだ。走るぞ。このままでは閉じ込められる」
闘真は訳が解らないまま、由宇と一緒に走り出す。廊下のシャッターが行く手を阻もうと、ゆっくりと閉じ始めたのはそのときだった。