第一章 ブタ野郎には明日がない ①
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「やってくれました、日本代表!」
興奮を抑え切れない様子の男性アナウンサーの声で、朝のニュース番組はスタートした。
「おはようございます。今日は六月二十七日。金曜日。早速、サッカーの話題からいきたいと思います!」
リビングのTVに映し出されたのは、地球の裏側で行われているサッカーワールドカップのダイジェスト映像。深夜の時間帯に行われたグループリーグ第二戦の模様だ。
日本代表が、1点のビハインドで迎えた前半終了間際。果敢にドリブルで切り込んだ日本の背番号10番が、相手選手の強引な守備によって転倒する。スタジアムに響くホイッスル。ペナルティエリアの少し外側で得たフリーキックのチャンスだ。
ボールをセットした背番号4番が、一歩ずつ下がって助走の距離を取る。
画面を通しても伝わってくる緊張感。
その映像を、梓川咲太は呆然と見つめていた。
「これ、見たぞ」
深夜に試合の生中継を観戦していたわけではない。このダイジェスト映像そのものを、咲太は『昨日の朝』に見ている。日本の背番号4番が蹴ったボールは、相手キーパーの逆をついて、ゴールネットに突き刺さるはずだ。
息を呑んで、TVに映ったダイジェスト映像の行方を見守る。背番号4番が蹴ったボールは、咲太の記憶と寸分たがわない弾道を描き、ゴールに飛び込んだ。
同点に追いつかれ、下唇を悔しそうに噛み締める相手選手。そのバックでは、フリーキックを決めた日本の背番号4番が雄叫びを上げた。そこへ、集まる日本代表メンバー。盛り上がるサポーターたち。
この得点を勢いにして、日本代表は後半に追加点を決める。そのまま、1点のリードを守って、見事勝利を収めるのだ。
試合結果がその通りになるのを見届けてから、咲太は全身を支配する疑問を払拭するために、一旦自室に戻った。ベッドの脇にある目覚まし時計に目をやる。デジタルの画面には、日付も表示されている。
──六月二十七日
アナウンサーが告げた通りの日付がそこにはあった。
「なんだ、これ……」
咲太が認識する限り、今日は六月二十八日のはず。それなのに、TVも時計も一日前の六月二十七日だと言っている。これでは、今日が昨日で、昨日が今日だ。
「……なるほど、夢か」
咲太はベッドに入ると、毛布をかぶって二度寝をすることにした。
今日が昨日だというのなら、明日まで寝ればいい。
そう思って目を閉じたところで、部屋のドアががちゃりと開いた。
「お兄ちゃん、起きたんじゃないんですか?」
聞こえてきたのは、実の妹であるかえでの声。
小さな足音がぺたぺたと近づいてくる。
「二度寝はダメです。起きてください」
ゆさゆさとかえでが咲太の体を揺すってきた。
「僕は明日まで寝ることにしたんだ」
「学校はいいんですか?」
「ああ」
「なら、かえでも一緒に寝ちゃいますよ」
とか言いながら、毛布を掴んでベッドに潜り込もうとしてくる。
「じゃあ、起きるか」
むくりと咲太は体を起こした。
「え? あっさり!?」
パンダ柄のパジャマを着たかえでとすれ違うように立ち上がる。現実逃避はほどほどにして、部屋を出てリビングに戻ることにした。
朝のニュースは未だにサッカーの話題を伝えていた。
少し遅れて、ぱたぱたとかえでもやってくる。
「なあ、かえで」
「はい」
「変なこと聞くけどさ」
「え、えっちなことですか?」
「違うな」
「お、お兄ちゃんが、そういうのはダメです」
両手で顔を覆ったかえでは、くねくねするだけで咲太の話を聞いてくれない。
「このニュース、昨日も見たよな?」
「……サッカーのニュースですか?」
かえでが指の隙間から画面を見ている。
「そうだ」
「えっと、見てませんけど?」
質問の意図がわからないようで、かえでは眉をひそめて困っていた。
「だよな……なら、いいんだ」
かえでに返事をしながら、咲太は胃の辺りに不穏な気配を感じていた。何かまずいことに巻き込まれている気がする。
狐につままれたような気分のまま、咲太はかえでと朝食を取り、何が何だかわからないまま、ひとまず学校に行くことにした。
外に出れば、何かわかるかもしれない。そう思ったのだ。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい」
笑顔のかえでに見送られて家を出る。エレベーターで一階へ。「ふう」と一息吐き出してから駅へと足を向けた。
いつもとは違って、周囲に気を配りながら駅を目指した。マンションと一戸建ての家々が立ち並ぶ住宅街。公園の脇を抜けて、見えてきた橋を一本渡って大通りに出る。駅が近付くにつれて、ビジネスホテルや家電量販店の大きな建物が視界に収まる。
その間、目立った発見はなかった。咲太と同様に駅へと向かう人もいれば、ゴミ出しをしている主婦もいる。お店の周辺を掃除しているフラワーショップのおじさんもいた。
十分ほど歩いて到着したのは、神奈川県藤沢市の中心地である藤沢駅。通勤通学のサラリーマンと学生たちが数多く行き交っている。東海道線に乗り換えるサラリーマン。小田急の改札口に吸い込まれていく学生。咲太と同じく連絡通路を通って江ノ電藤沢駅を目指す人々。
誰の足取りにも迷いは感じない。目的地に向けてすたすたと歩いている。脇目も振らずにまっしぐら。きょろきょろと人々の行動を観察しているのは咲太くらいのものだった。
「もしかして、僕だけってことか……」
江ノ電藤沢駅の改札口を通り抜ける頃には、そんな嫌な予感がじくじくと疼き出していた。
二分待ってホームにやってきた電車に乗り込む。レトロな雰囲気の短い四両編成。発車のベルを合図にドアが閉まり、電車は動き出した。
約十五分揺られているうちに到着したのは、海沿いにある七里ヶ浜駅。ここから徒歩数分の場所に、咲太の通う県立峰ヶ原高等学校はある。
同じ制服を着た生徒たちがぞろぞろとホームに降りていく。外に出た瞬間、夏を間近に控えた潮の香りがした。あと十日もすれば近隣の砂浜は海開きだ。海沿いの一帯は海水浴客でごった返すことになる。
海の方へと目を向けると、梅雨の時期の晴れ間を狙ってやってきたウィンドサーフィンの帆がいくつか見えた。
見慣れた景色。特におかしな点はない。
校門までの短い道もいつも通りで、峰ヶ原高校の生徒たちのざわめきに包まれていた。クラスメイトとふざけ合う一年生の男子。参考書を片手に持った三年生。昨日の放課後に行ったカラオケの話題で盛り上がる女子生徒たち……。
どこを見ても、日常の風景しか見えてこない。
誰ひとりとして、「なあ、今日、二度目じゃね?」、「やっぱり? 俺も! 俺も!」、「まじ、びびるわー」などと話してはいなかった。
二度目の六月二十七日に戸惑い、夢の中にいるような気分で歩いているのは咲太くらいのものだった。
校門を抜けて昇降口に入ると、ふたりしかいない友人のひとりである国見佑真に声をかけられた。
「うす、咲太。今日も寝癖立ってるぞ」
バスケ部の朝練に出ていた佑真は、膝丈のジャージズボンにTシャツ一枚の運動部スタイル。授業もその格好で受けて、放課後まで制服を着ない生徒は多い。佑真もそのうちのひとりだ。
「これはこういうヘアスタイルなんだよ」
「斬新だな」
そう言って笑う佑真もいたって普通……というか、このやり取りには覚えがあった。咲太の記憶の中の『昨日』と完全に一致しているのだ。
「……」
「どうした、咲太?」
「……いや」
「なんだよ?」
「ほんと国見はイケメンでむかつくよな」
「はあ? なんだそれ」



