第一章 ブタ野郎には明日がない ②
今日が二度目だとは言わず、咲太は適当にごまかして教室に向かうことにした。
午前の授業は、数学、物理、英語、現国の四教科。その内容もまた咲太が昨日受けたものとまったく同じだった。数学教師の「ここ期末に出すからな~」も、物理教師の寒いギャグも、英語教師の「ミスターアズサガワ、リッスントゥーミー」も、現国教師のYシャツの襟に口紅がついていたのも、咲太が『昨日』見たまんま。
時間の経過は、咲太の中にあった疑惑を確信へと変えていく。
──僕の記憶だけをそのままに、昨日に戻っている
その考えは、一見平和そのものの教室の日常風景を、どこまでも薄気味悪い空間へと変えていた。
世界がおかしくなったのか。それとも咲太がおかしくなったのか。
「そりゃ、世界だろうな」
体の感覚はいたって普通。あるのは現実感だけ。夢だと疑う余地はひとつもなかった。
そんな中で訪れた昼休み。
「今日が昨日ってことなら……」
この昼休み、咲太には大事な約束がひとつある。それを確かめるために、咲太は二年一組の教室を出た。
十分後、咲太は校舎の三階にある空き教室にいた。海が見える窓際。机をひとつ挟んだ正面には、三年生の先輩である桜島麻衣が座っている。
凜として整った顔立ちの彼女。芸能人顔負けの美人……というか、麻衣は正真正銘の芸能人だったりする。子役時代から活躍している実力派の女優さん。国民的知名度を誇る超有名人。ここ二年ほどは活動を休止していたが、最近になって再開したのだ。
その麻衣が咲太のために作ってきてくれたお弁当が机の上には置かれている。献立は咲太が昨日食べたものと同じだった。
鶏の竜田揚げ、卵焼き、ヒジキと豆の煮もの、ポテトサラダにはプチトマトが添えられている。
一品ずつ箸で摘んで口に運んで味を確かめた。少し薄味だけど、どれもやさしい味わい。見た目だけでなく、味の方も咲太の記憶通り。
「……」
一体、何が起きているのだろうか。さっぱりわからない。
「おいしくないの?」
「ん?」
声に反応して顔を上げると、麻衣のむすっとした表情が目の前にあった。不満を隠すことなく、咲太に全力でぶつけてきている。
考え事に夢中で、お弁当の感想を言うのをすっかり忘れていた。というか、すでに一度は言っているので、咲太はもう言った気になっていた。
「めちゃくちゃおいしいです」
「全然そうは見えない」
「ほんとですって。毎日食べたいくらい」
「昭和のプロポーズみたいなこと言ってもだまされないから。私のお弁当を食べながら、一体、何を考えていたのよ」
さすがに麻衣は鋭い。
「麻衣さんの手料理を食べられる幸せを噛み締めてただけですって」
今の段階で、麻衣に話すべきではないと思った。咲太自身、何が起きているのかよくわかっていない。そんな曖昧なことを麻衣に伝えても、余計な心配をさせるだけだ。
「ふ~ん」
少しも納得していないと麻衣が態度でアピールしてくる。
「麻衣さん、変なこと聞いていい?」
「エロいこと?」
かえでもそうだが、どうしてそこに結び付けるのか。心外極まりない。
「下着の色なんて教えないからね」
「それは想像するのを楽しんでるから平気」
「うわ、きもっ」
冗談のつもりだったのに、麻衣は素で引いている。
「で、変なことってなに?」
「麻衣さんにとって、僕はなに?」
「ただの生意気な後輩でしょ」
一瞬の思考時間もなく、麻衣はさらっとそう答えた。『ただの』の部分を、咲太が意識するようにちゃんと強調するのも忘れていない。
「……そっか。じゃあ、僕にとって麻衣さんはなんだと思う?」
「片想い中の……とても美人で、とてもやさしくて、心から憧れている先輩」
「当たり」
言いながら、卵焼きを口に運んだ。もぐもぐと咀嚼する。
非常に残念なことではあるが、やはり、麻衣との関係性もすっかり元に戻ってしまっている。一度はお付き合いのオッケーをもらっているのに。
彼氏彼女の関係のはずが、生意気な後輩に逆戻りとは悲しい限りだ。
だが、よくわからない現象が、咲太の恋路を邪魔するなら逆らえばいい。もう一度、麻衣からお付き合いのオッケーをもらえばいいだけだ。
この程度の障害でふてくされてはいられない。諦めるなどもってのほか。
「変な質問して、ほんと、なんなの?」
訝しげな視線が目の前にあった。
「今後のために、現状を正確に把握しておこうかと思って」
もっともらしい理由で咲太ははぐらかすことにした。嘘は言っていない。わけのわからないこの現状をよく知っておきたいのは本当だ。
「なんか、怪しい」
目をす~っと細めて、麻衣が顔を覗き込んでくる。
「そんなことより麻衣さん」
「話を逸らさない」
聞こえなかったことにして、咲太は続けた。
「好きです。付き合ってください」
じっと麻衣を見据える。
「だから、話を逸らさないの」
「告白を無視しないでほしいんだけど」
「だって、それ聞き飽きたし」
心底退屈そうに麻衣がもらした。
「そっか……失恋か。じゃあ、新しい恋を探すしかないな」
「ちょっ……」
「今までありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をしてから、「はあ~」と失恋の深いため息を咲太は落とした。
「だ、だめとは言ってない……なに、諦めようとしてるのよ!」
拗ねた瞳で麻衣が睨んでくる。
「なら、いいの?」
「う……咲太のくせに生意気」
「いいの?」
諦めずにもう一押しすると、
「……うん」
と小さく頷き、
「いいよ」
と、消えそうな声で麻衣は呟いた。
恥ずかしさを隠すように、麻衣が卵焼きを無言で頬張る。なんともかわいらしい仕草だ。全身がぞくぞくする。
「麻衣さん」
「な、なによ」
「抱き締めていい?」
「理由は?」
警戒するように、麻衣が上目遣いで様子を窺ってくる。
「今の麻衣さんがすげえかわいいから」
「なら、ダメ。絶対ダメ」
「えー」
「そのまま押し倒されそうだし……だいたい、そんなこと聞かれて『いいよ』なんて言えるわけないじゃない」
その後も、麻衣はなにやらぶつぶつと文句を言っていた。
予鈴が鳴ったところで、お昼デートはお開きとなり、咲太は麻衣と別れて教室に戻ることにした。
その途中、通りかかった階段の踊り場に、見知った人物を見かけた。今風のおしゃれなふんわりショートボブ。うっすらとメイクした頬は、ほんのりと色付き、表情全体をとてもやわらかい印象にしている。
古賀朋絵だ。
一ヵ月ほど前、咲太を変質者と間違えたひとつ下の一年生。印象的な出会い方をしたので、名前を覚えてしまった。あのとき、咲太は迷子の女の子のお母さんを捜してあげようとしていただけだった。それは穢れのない親切心に他ならない。にもかかわらず、「くたばれ、ロリコン変質者!」の掛け声と共に、鋭い蹴りを尾骶骨にもらったのだ。
その朋絵だが、今はしおらしい感じで俯いている。よく見ると、正面に誰かいた。すらっと背の高い男子生徒。でも、体つきはしっかりしている。恐らく、運動部。髪は茶色。踵を踏んだ上履き。制服のくたびれ具合からして三年生だろうか。いわゆるイケメン。
「前沢先輩……話ってなんですか?」
緊張した様子で、朋絵が見上げる。どうやら、男子生徒の方は前沢と言うらしい。
「あのさ、よかったら俺と付き合わない?」
「え!?」
「嫌かな?」
「い、いえ、その、あの……少し考えさせてください」
必死な感じで、朋絵がそう返事をする。
「わかった。返事待ってる」



