第一章 ブタ野郎には明日がない ③
前沢先輩はさらっと告げて、階段を上がってこようとする。鉢合わせすると面倒なので、咲太はさっさと廊下を歩き出した。
「あいつ、モテるんだな。ま、かわいいもんな」
普段なら不幸になればいいと思うところだが、今日は他人の幸せを祝ってあげてもいい気分だった。なんたって、麻衣からお付き合いのオッケーをもらえたのだから。
「あとは……明日さえ来れば完璧だ」
今の咲太にとって、それが一番深刻な悩みだった。
その夜、咲太はまた同じ日が繰り返されてはたまらないので、ひとつの思いつきを実行することにした。
それは、徹夜。
朝起きて昨日に戻っていたのだから、寝なかったらどうなるのか。こうなったら、寝ないで明日が来るまで待てばいい。
深夜二時を回ったところで、咲太はあくびを噛み殺しながら、暇潰しにTVをつけた。画面に映し出されたのはサッカーの試合。濃い青のユニフォーム。つまり、サムライブルー。日本代表の試合だ。しかも、A代表。
「おいおい、二日連続かよ……」
過密な日程だとしても、中三日程度に調整されるはずなのだが……。
「ん?」
何かが引っかかる。
試合の様子を見守っていると、咲太はあることに気が付いた。
「これ、見たな」
時間帯は前半終了間際……ピッチの中央で味方のパスを受けた背番号10番が、スピードに乗ったドリブルで敵陣に切り込む。ふたりをかわしたところで、たまらずに相手選手が背中からぶつかってきた。吹かれるホイッスル。ペナルティエリアの少し外で得た、日本のフリーキックのチャンス。
今朝のニュース番組で見たダイジェスト映像と同じシーン。けれど、画面の右上には『LIVE』の文字が出ている。つまり、画面に映っているのは衛星中継だ。試合は今この瞬間に、地球の裏側で行われていることになる。
「……面白い冗談だな」
急いで部屋に戻って時計を見る。午前二時十分という表示と共に、『六月二十七日』の日付が示されていた。
「……」
もう次の日になったと思って油断していた。いつの間にか、昨日に戻っている。
リビングに戻ると、試合の中継を咲太は見守った。審判のホイッスルを合図に、助走を取った背番号4番がボールを蹴る。
そのボールはゴールに吸い込まれていく……かと思いきや、強烈なシュートはクロスバーを直撃。弾かれたこぼれ球を、相手国の長身のディフェンダーがクリアして、日本の得点にはならなかった。
「は? なんで?」
思っていたのとは違う展開。そのとき、咲太の脳裏に、友人の双葉理央と交わした言葉が蘇った。
──それは、つまりだ……サッカー日本代表の試合があったときに、結果だけをスポーツニュースで見たときは勝ってるのに、僕が試合を見るときに限って負けるって話でいいのか?
──今後、日本代表のために、梓川はサッカーの観戦はしない方がいい。二度と見るな
あれは、観測が結果に影響を与えるとかなんとか……そういう話の中で出てきた会話だったかと思う。
「いや、まさか嘘だよな……」
自分が試合を見たことで日本代表が負けるなどあっていいはずがない。
祈るような気持ちで、咲太は試合終了まで日本代表を応援した。だが、前半からの1点のビハインドに追いつくことはできず、そのまま0—1で負けとなった。
実況のアナウンサーと解説者が、惜しい場面はいくつもあったと試合を振り返っている。決定的な部分で決めきれない悪い癖が出たのだと……聞き慣れた日本の弱点を改めて指摘する。
これで、グループリーグを突破するためには、次の強豪国との一戦になにがなんでも勝たなければならなくなった。厳しい状況に追い込まれたと、実況のアナウンサーが咲太に教えてくれた。
「これは明日……っていうか、今日っていうか、昨日でもあるんだが……双葉に相談だな」
深夜。リビングでひとり咲太は頭を抱えるしかなかった。
2
結局、徹夜は無意味だとわかり、その後ぐっすり眠って迎えたその翌朝……咲太は諦め切れない気持ちで、TVの電源を入れた。流れてきたのは、日本代表が惜しくも敗れたというニュース。
「ほんと、僕のせいじゃないよな?」
妙な後ろめたさから逃げ出すように、咲太はいつもより三十分早く家を出た。
三十分早いだけで、周囲の景色は不思議と違って見える。わずかに空気は白く感じたし、藤沢駅を行き交う人々の流れも微妙に異なる。サラリーマンが多い気がした。普段の時間帯ならば、もっと制服姿の中高生が多くいるはずだ。
使い慣れた江ノ電の車内は特にその傾向が顕著で、そもそも乗客が少なかった。
当然のように、七里ヶ浜駅から学校までの道は空いていた。駅で降りた利用客も、咲太以外には数えるほどしかいない。通学時間であれば、峰ヶ原高校の生徒が、ぞろぞろ列を作って行進しているというのに。
別の場所にいるような気分だった。
無人の昇降口で上履きに履き替える。人がいないと空気が違う。しんと静まり返っている。静謐というやつだろうか。
普段と違う空気を感じながら、咲太は階段の前を素通りして、物理実験室を目指した。
「双葉、いるか?」
声をかけながらドアを開ける。
お目当ての人物は、黒板の前にいた。制服の上から白衣を羽織った小柄な女子生徒。咲太のふたりしかいない友人のもうひとり……双葉理央だ。
理央は咲太を見ようともせずに、
「はあ」
と、憂鬱そうなため息をもらした。
気にせずに、咲太は机を挟んで理央の正面に座った。
ふたりの間には、ビーカーに載せられたトーストと、湯気を立てるコーヒーカップ。トーストはこんがりと焼き目がついている。今から朝食を取るようだ。
部員が理央だけの科学部の活動は少々自由すぎる。
理央が両手で持ったトーストにかぶりつく。さくっと香ばしい音がした。
「あのさ」
「嫌だね」
「まだ何も言ってないだろ」
「こんな時間に、わざわざ来たってことは、どうせ厄介事でしょ」
さすがに鋭い。いや、この状況なら誰でも何かあったと思うはずだ。
「興味深い現象の報告に来たんだよ」
「それを厄介事って言うの」
理央は手で咲太を追い払おうとする。
取りつく島もない。
「さっさと帰って」
不機嫌そうにトーストの耳を理央がかじる。
普段から淡々とした理央だが、今日はそこにちくりとしたトゲを感じる。虫の居所が悪いのだろうか。
「双葉の方こそ、何かあったのか?」
気になった咲太は、先にそう尋ねた。
「なんで?」
ようやく理央と目が合った。眼鏡のレンズ越しに、理央が瞳に警戒を覗かせる。
「機嫌悪いから」
「別に……」
そう言いながらも、ごまかす気はないらしく、
「はあ……」
と諦めたように、理央は大きく息を吐き出した。
「ま、ひとりで悶々としてるよりは、梓川に話して笑ってもらった方がいいか」
外の景色を視界に映しながら、理央は独り言のようにそう呟く。
「なんだそりゃ」
前向きなのか、後ろ向きなのか……判断に困る態度だ。
「今朝、朝練に行く国見と電車で一緒になった」
「セクハラでもされたか?」
視線は自然と理央の立派な胸元に注がれる。
「国見がそんな真似するわけないでしょ」
「まるで僕とは違うと言いたげな目で見るのはやめてくれ」
「なら、見ないで」
理央が胸を隠すように横を向いた。明らかに嫌がっているので、ここはなるべく胸を見ないよう努力をしよう。
「それで? 国見と一緒になってどうかした?」
「別に、どうも……彼女持ちの男子に声をかけられて、うれしいとか思った自分に嫌気が差してるだけ」



