第一章 ブタ野郎には明日がない ⑧
少しは落ち着け、と続けるつもりだったが、最後まで言うことはできなかった。言っている途中で、人影が視界に映ったのだ。
ドア口に立つ男子生徒と視線がぶつかる。先ほども見かけた三年生。バスケ部に所属しているらしい前沢先輩。
前沢先輩は、戸惑いを滲ませた曖昧な表情をしていた。無理もない。その視界には、空き教室の床で抱き合う咲太と朋絵が映っているはずだ。
「用事ってこれかよ。男の趣味悪っ」
なにやら、盛大な勘違いをしていらっしゃるご様子。その上、失礼なことを言われた。
「いや、違い……」
事実を告げようとした咲太だったが、その声は後ろのドアが開く音にかき消されてしまう。
どくんと咲太の心臓が高鳴った。
焦りを伴った無意識の反応。本能が「やばい」と警笛を鳴らしている。
誰がやってきたのかは、確認するまでもなく咲太にはわかっていた。痛いほどにわかっていた。
恐る恐る、後ろのドアに目を向ける。
案の定、麻衣が立っていた。
手には紙袋を提げている。中身は咲太のために作ってきてくれた麻衣お手製のお弁当だ。献立だってわかっている。鶏の竜田揚げに、卵焼き、ヒジキと豆の煮もの、ポテトサラダにはプチトマトが載っていて……。
そのすべてを把握しているのに、今日はそれを味わうことができないと咲太は麻衣と目が合った時点で確信した。
麻衣はドア口から一歩も動かずに、冷たい眼差しで咲太を見据えていた。朋絵と抱き合ったままの咲太を……心底つまらなそうな顔をして……。
「これは、誤解です」
あえて咲太は冷静に事実を告げた。人間の本質は窮地でこそ試される。慌てず騒がずここは自分の潔白を正直に説明するしかない。
「……」
真っ直ぐな瞳で麻衣を見つめて、無実を訴える。
「……」
だが、麻衣は無言で回れ右をした。
「だ~、待って、麻衣さん!」
朋絵を押しのけて、急いで立ち上がる。床に転がった朋絵が机に頭を打って、「うわっ、いだっ!」とか言っているが今は無視。
「事情の説明をさせてください」
「話しかけないで。ロリコンがうつる」
それだけ言って、麻衣は立ち去ってしまう。
「うわ~、すげえ、怒ってたよ」
とても一緒にお弁当を食べられる雰囲気ではない。告白をして、「うん、いいよ」と言ってもらうのはもっと難しそうだ。
「はあ……」
当然のようにため息が出る。
前のドア口を確認すると、前沢先輩の姿も消えていた。
朋絵はというと、未だに床に転がっていたので、ひとまず手を貸して引っ張り起こす。
「あ、ありがと」
その頭に手を置くと、咲太は腹いせにくしゃくしゃにしてやった。
「わっ! ちょっと!」
朋絵は慌てて咲太から逃げ出す。ぼさぼさになった髪をいそいそと両手で直していたかと思うと、恨みがましい目で咲太を睨んできた。
「毎日、六時に起きてセットしてるのに」
おしゃれ女子高生の朝は早いらしい。
その朋絵のことは無視して、
「ふう……」
と、まずは深呼吸。
慌てても仕方がない。起きたことを悔やんでも意味はない。
この状況をありのままに受け入れれば、おのずと解決策は見つかるはずだ。
「ま、いっか。どうせ、明日も今日をやり直すんだろうしな」
朋絵がラプラスの悪魔なのは間違いなさそうだが、事態の把握はまだまったくと言っていいほどできていない。当然、解決の手段だって何も見出せていない。だから、麻衣に関して言えば、明日……というか、四度目の六月二十七日に上手くやればいい。うっかり朋絵と抱き合ったりしないよう気を付ければいいのだ。
これ以上はない、すばらしい解決策。
けれども、ここでのこの判断を、咲太は翌日の朝に深く後悔することになる……。



