第一章 ブタ野郎には明日がない ⑦

 夢を見ているんだと自分に言い聞かせて現実逃避するには限度がある。こうして同じ境遇に置かれた朋絵と遭遇して、ますます現実味が増してしまった。理央は未来予知を見ているのかもしれないようなことを言っていたが、どう考えても体の感覚は現実なのだ。


「てか、話してる最中はやめろ」


 ひょいっと朋絵の手からスマホを取り上げる。


「あ、返してよぉ」


 小柄な朋絵では届かないように、手を上に伸ばす。朋絵はぴょんぴょんと飛び跳ねて、スマホを取り返そうとしてくるが、少し高さが足りていない。


「話しながらはしないから」


 反省の弁が出たので、咲太は朋絵にスマホを返した。


「ほれ」


 野生動物のような俊敏さで、朋絵はスマホを掻っ攫っていった。すぐさま、無言で画面の操作に戻る。


「……」

「……」

「話す方をやめんのか」

「気が散る。話しかけないで」

「すげえな女子高生」


 そんなわけで、約二十秒間、咲太は待たされることになった。


「で、なに?」


 ようやく画面から朋絵が顔を上げる。


「最近、嫌なこととか、悩んでることはないか? 六月二十七日を抜け出すヒントがそこにあるかもしれない」

「……う~ん」


 眉根を寄せて、朋絵が真剣に考え込む。

 たっぷり十秒ほど悩んだあとで、


「少し太った」


 と、わずかに頬を赤らめながら、真剣なトーンでそう白状した。


「……」


 見たところ、小柄な朋絵は非常に細い。色々なところがとてもスレンダーだ。


「な、なに、その目?」

「大丈夫だ。古賀はむしろ痩せてる。問題ない。少し太って、そのぺったんこな胸に肉をつけた方がいいくらいだ」

「全部、お尻とお腹に行くから困ってるの」


 言われてみると、腰回りからお尻にかけては確かに安定感がある。


「揉めば大きくなるらしいぞ」

「そんなのもう試したよー」


 咲太の視線があるにもかかわらず、朋絵は無防備に両手を胸に当てている。


「じゃあ、諦めろ。男は胸の大きさで女子を好きになるわけじゃないし。てか、他に悩みはないのか? そんなしょうもないやつじゃなくて」

「水泳の授業はじまるから深刻なの! 胸もないのに、くびれもないとか、夏って地獄……」


 まだ何か言いかけていた朋絵だったが、急に目を見開いて言葉を詰まらせた。


「あっ」


 朋絵の目は咲太の後ろ……廊下の方を見ている。


「か、隠れて!」


 腕を引っ張られた咲太は、そのまま教卓の下に押し込められる。


「何の真似だ」

「いいから!」


 咲太に続いて、狭い教卓の下に朋絵まで入ってくる。殆ど寝転がった咲太の上に、朋絵が跨っているような状態。

 最近、一年生の間で流行っている遊びだろうか。若者の考えることはわからない。

 疑問に思いながら外の様子を窺うと、開いたドアの隙間から男子生徒の姿がちらりと見えた。前回の六月二十七日に、朋絵に告白をしていた三年生……確か、朋絵は『前沢先輩』と呼んでいた。


「顔、引っ込めて!」


 朋絵が咲太の頬を両手で挟んで、教卓の下に引き戻す。


「古賀を捜してるんじゃないのか?」

「そうだと思うけど……昼休みは用事がある的なメッセージ送っちゃったし……」

「用事ね~? あるようには見えないけど」

「だから、ある的なって言ったじゃん」


 要するに、前沢先輩には嘘をついているということらしい。


「わけのわからんこと言ってないで、さっさと告白されてこい」

「なんで告白のことを知ってるの!?」

「前回見たんだよ」


 すぐ目の前にある朋絵の小さな顔。艶々したピンクの唇。吐息が頬にかかって少々くすぐったい。うっかり変なところを触らないように、少し体勢を正すと、


「きゃっ」


 と、朋絵が体をびくつかせた。どこか敏感な部分を刺激したのかと思ったが、実際は違っていた。朋絵の手の中で、スマホが震動したのだ。バックライトに照らされながら、再び何やらメッセージを打っている。


「これ、なんてプレイ?」

「……」


 スマホに集中している朋絵は取り合ってくれない。

 終わるのを待つ間、何気なく視線を下げたら、スカートの裾がめくれているのに気づいた。右足の付け根部分から、白い布が顔を覗かせている。


「おい、古賀」

「あとにして」

「パンツ見えてる」

「今、それどころじゃないの」


 咲太の忠告は、きっぱりと切り捨てられた。


「僕には、もう女子高生がわからん」


 自分の貞操観念より、誰かにメッセージを送ることの方が大事らしい。仕方がないので、めくれたスカートは、咲太が直してあげた。これで見えているのは太ももだけ。

 その間に、朋絵の方も無事返事を送れたようだ。


「なんで隠れるんだ?」


 だいたい、咲太も一緒に隠れる必要はなかったはずだ。


「だって……前沢先輩は、玲奈ちゃんの憧れの人だから」


 小声の朋絵は、「わかるでしょ」とでも言いたげな視線を向けてきた。さっぱり理解できない咲太は、


「はあ?」


 と、当然の反応を見せた。


「はあ?」


 まさかの「はあ?」返しだ。


「なんでわからないの?」

「殆ど説明を受けてないからだろうな」

「じゃあ、えっと……よく玲奈ちゃんと一緒にバスケ部の練習を見に行ってるの」

「その玲奈ちゃんはどちら様だっけ?」


 国民的知名度を誇る芸能人か誰かだろうか。


「クラスの友達……香芝玲奈ちゃん。その玲奈ちゃんが、前沢先輩かっこいいって言ってて……あたしは付き添ってただけなんだけど……」


 そこまで言って、朋絵がもごもごと口籠る。


「古賀の方が前沢先輩とやらに、気に入られたと?」

「……う、うん」


 ゆっくりと朋絵が頷く。


「お前も、あの人のこと好きなわけ?」

「ううん……モテそうな人はいっちょん好かん」

「だったら、さっさと告白されて振ればいいだろ」


 何も隠れる必要はない。正々堂々と振ってやればいい。文化祭が近付くと、突然バンドをはじめそうなイケメンが振られるのはいい気味だ。


「そんなことしたら、絶対にクラスでハブられる! 玲奈ちゃんの……友達の好きな人なんだよ?」

「はあ? なんだそれ。付き合うわけでもないのに」

「告白されたらダメに決まってるじゃん」

「意味わからん」

「応援するって玲奈ちゃんに約束しちゃったし……なのに、あたしが告白されるとか、空気読めてなさすぎ」


 朋絵の声音は深刻に落ちていく。


「ほんと、どうしよ……」


 表情はどこか青ざめてすらいた。朋絵にとっては危機的な状況のようだ。少なくとも、朋絵自身は心の底からそう思っている。


「色目使って誘惑したとか?」

「するわけないじゃん!」

「大声出すとばれる」


 はっとなった朋絵が今さら両手で口を覆う。


「と、とにかく、そういうこと。わかった?」


 言ってることはわかるが、価値観はやはりどうにも理解できない。


「いっちょんわからん」

「も~、話通じないな!」


 感情に任せて朋絵が起き上がろうとする。だが、当然、教卓の下なので、頭上には注意が必要だった。


「あ、待て……」


 とっさに咲太が声をかけたが遅かった。がんっと、朋絵がしたたかに頭を打つ。あまりの衝撃に、教卓の脚が半分浮いて、黒板の反対側へと倒れていく。

 気づいた朋絵が手を伸ばしたが遅かった。朋絵の手は空を切り、教卓はばんっと大きな音を立てて倒れてしまう。

 朋絵は朋絵で、床に寝ていた咲太に足を引っ掛けてバランスを崩した。


「きゃっ!」


 悲鳴を上げて倒れかかってきた朋絵の体を、咲太は反射的に抱き留めた。めちゃくちゃ軽い。やはり、体重のことなどまったく気にする必要はなさそうだ。


「お前な……」

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