第一章 ブタ野郎には明日がない ⑥

「んじゃ、サンキュ」


 物理実験室を出ようとした咲太だったが、ふと思い出したことがあってドア口で立ち止まった。


「あ、そだ、双葉」

「なに?」

「また今日を繰り返すことになったら、朝、国見に会わないようにしてやろうか?」


 そうすれば、あんな憂鬱そうな顔を朝からしなくていいはずだ。


「……」


 理央は一瞬考えたあとで、


「余計なお世話」


 と、軽く笑って言ってきた。


「今のところ、自分でなんとかするつもりだから」

「どうにもならなくなったら言えよ」

「そうだね。梓川にはたくさん貸しがあるし、そのうち返してもらわないと」

「ちゃんと利子をつけて返すよ」


 皮肉っぽい笑みの理央に見送られ、咲太は物理実験室をあとにした。


    3


 ──本物のラプラスの悪魔を探すんだね

 理央にはそう言われたが、一体どこから手を付けたらいいのだろうか。

 誰が悪魔なのか皆目見当もついていない上、身近な人間だという保証だってない。下手したら、地球の裏側に住んでいる人物だという可能性もある。


「そうだったら、終わりだな……」


 一介の高校生には、地球の裏側まで行く経済的な余裕はない。パスポートすらない。これは、前途多難。いや、この場合、お先真っ暗と言った方が正しい。

 気分は絶望的。

 それでも、お昼休みになると、咲太はさっさと教室を出て三階へ向かった。空き教室で麻衣と昼食を共にする約束があるのだ。

 目下、咲太にとっての一番の関心事は麻衣とのお付き合い。それに関しても、再び白紙に戻された状態なのだ。今日もこのあとは、麻衣お手製のお弁当をいただきながらの告白タイムとなる。それはそれで楽しい時間なのがせめてもの救いだ。

 少し浮かれた気分で空き教室のドアをスライドさせる。

 すると、てっきり無人だと思っていた教室の中で物音がした。見れば、教卓の陰からスカートに包まれたお尻が飛び出している。本人的には隠れているつもりのようだ。


「……」


 強烈な違和感が咲太の体を駆け抜けていく。

 一回目、二回目の『六月二十七日』に、こんなことはなかった。昼休みの開始直後にここへやってきた咲太は、少し遅れてやってきた麻衣と、ふたりきりの幸せな時間を満喫しただけだった。誰の邪魔も入らなかったし、咲太はこの空き教室で、麻衣以外の人物に遭遇してはいない。

 となれば、目の前に広がる光景は、一回目、二回目とは違う展開。違う行動を取っている人物との邂逅ということになる。

 脳裏を過るのは、今朝、物理実験室で聞いた理央の言葉。

 ──悪魔だけは、梓川と同じで、繰り返されているっていう『六月二十七日』の記憶があるんじゃない? その記憶があるなら、前回の『六月二十七日』とは違う行動を取っている可能性が高いと思うけどね

 そして、目の前にあるのは、その言葉がぴたりと当てはまる状況。


「いたよ、ラプラスの悪魔」


 咲太がそう口にすると、教卓の陰に隠れていた人物が恐る恐る顔を覗かせた。巣穴から危険がないか外の様子を見ている小動物のようだ。

 その顔に、咲太は見覚えがあった。

 イマドキな感じのショートボブの髪型。くりっとした大きな瞳。やわらかい印象のかわいいメイク。全身からイケてるオーラがひしひしと伝わってくる女子高生らしい女子高生。ザ・女子高生だ。

 明太子色のカバーを付けたスマホを片手に、「あ」の口を開けていたのは、一年生の古賀朋絵だった。

 女子の中でも小柄。全体的に小さくまとまったその容姿は、悪魔と呼ぶには少々か弱すぎる。せいぜい、小悪魔。プチデビルだ。

 開いた窓から吹き込む海風が、朋絵の髪とスカートの裾をやさしく揺らす。先に言葉を口にしたのは、朋絵の方だった。


「佐藤一郎」

「それは世を忍ぶ仮の名前」


 最初に名乗った適当な偽名をまだ覚えているとは驚きだ。咲太とは違って、一度挨拶を交わした相手の名前はきちんと覚えるタイプのようだ。


「……梓川先輩、だよね?」


 少し自信のない上目遣い。


「梓川咲太。二年生」

「古賀朋絵。一年生……です」


 とってつけたように敬語にすり替わる。わずかに雰囲気もしおらしくなった。


「タメ口でいい。公道で尻を蹴り合った仲なんだし」

「それ、忘れて!」


 ぷうっと頬を膨らませた朋絵は、咲太の印象通りの朋絵だった。

 あのときの痛みを思い出したのか、朋絵は両手でお尻を押さえている。少しだけ下級生にいけないことをしている気分になるポーズだ。


「古賀、つかぬことを聞くが」

「なに?」

「今日は何度目だ?」

「っ!」


 咲太の問いかけに、朋絵が目を見開く。驚きと、少し不安が入り混じった瞳が左右に揺れていた。


「僕は三度目だ」


 咲太がそう告げると、朋絵は一度、こくんと頷いた。そのあとで、


「あたしも三度目」


 と、指を三本立てる。かと思えば、朋絵の表情は見る見る泣き顔に変わっていく。咲太が驚く間もなく、


「あたしだけじゃ……なかったんだぁ」


 と、不安が涙の滴となって、ぼたぼたと落ちていく。安心したのか、へなへなとその場に座り込んでしまった。


「一体、なんなのこれ~!」

「さあ」

「なんで、同じ日が何度も来るの!?」

「知らん」

「どうして知らない!?」

「知らないものは知らない」


 先ほどまでの安堵の表情は、すぐに不安に塗り替えられてしまう。


「これで助かると思ったのに、あたしの涙を返して!」

「水道水でも飲んで補充してこい」

「この先、どうなるの?」


 それは咲太が聞きたいことだ。


「どげんなると?」


 聞き慣れないイントネーションで、再度同じ質問を朋絵は繰り返してくる。この様子だと、自分がこの状況の原因であるという自覚はなさそうだ。皆無と言っていい。


「先輩はなんで平然としてるの!?」


 襟首を掴んで朋絵がゆさゆさと前後に揺らしてくる。


「慌てたら解決するのか?」

「しないけど、普通慌てるよ」

「そうか?」

「そうだよ、先輩、神経いかれてる。やっぱり、全校生徒の前で告白する変人は違うんだ」

「面と向かって、他人に『いかれてる』って言える神経も、十分にいかれてると思うぞ」

「うるさいなぁ」

「一応聞くけど、古賀に心当たりはないのか?」

「いっちょんわからん」

「なんだって?」

「ぜ、全然わかんない」

「つかえねー」

「それ、先輩じゃん!」

「なんか、最近、嫌なこととか、悩んでることないか?」

「なんでそんなこと先輩に言わないといけないの? あ、メッセージ」


 と、朋絵がスマホの画面を見る。


「この状況……思春期症候群だと思うからな。古賀の思春期特有の不安定な精神が引き起こしている現象だとするなら、不安定の原因を究明して解消するしかない」

「思春期症候群って……先輩、正気?」


 バカにしたような口調。視線はスマホに向かったままだ。返事を書いているらしく、画面に指で触れたり、なぞったりと忙しそうにしている。


「そんなのネットの噂じゃん。信じてるとか、信じられない」


 咲太が存在を信じているのは、その信じられない現象を、過去に経験しているから。

 妹のかえでが巻き込まれたときが最初だ。クラスメイトたちの心ない書き込みやメッセージを見るだけで、肌に殴られたような痣や、刃物で切ったような傷ができるのをこの目で見ている。

 一ヵ月前には、麻衣が周囲から視認されなくなり、さらには記憶から消えていくという出来事があった。

 そして、今まさにこの状況が当てはまる。


「気持ちはわかるが、同じ日が三日も続けば、思春期症候群がただの都市伝説じゃないって思うしかないだろ」

「う、確かに……」

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