第一章 ブタ野郎には明日がない ⑤
「具体的には、この世界に存在するすべての原子の位置と運動量……質量と速度ベクトルをかけたものだけど、このふたつさえわかれば、あとは古典物理学の数式に当てはめて計算するだけで未来の状況は導き出せる。高校で勉強するような範囲の話だよ」
非常に残念なことではあるが、同じ高校生の咲太には、理央が何を言っているのかさっぱりわからない。色々と質問をして確認したいところだ。
「すべての原子ってすごい数だよな」
それこそ無限と言っていいような数なのではないだろうか。
「そうだね」
「そんなものの位置と運動量を全部調べるなんて可能なのか?」
おにぎりひとつを構成している米粒の数を数えるのだって大変なのに。
「少なくとも、その当時……十九世紀の物理学者たちにそんな真似はできなかった。たとえ、位置と運動量をすべて把握できたとしても、膨大なデータを数式で計算するとなれば、それ相応の時間が必要となる。だから、一秒後の未来を計算するのに、一秒以上かかってしまって、近い未来の先回りはできなかっただろうね」
「だよな」
たぶん、今の時代のコンピューターにだって不可能なのではないだろうか。
「だから、そんな途方もない真似ができる空想上の存在を、物理学者のラプラスさんは考え出した」
「それが、ラプラスの悪魔か」
ゆっくりと理央が頷く。
「その悪魔には、一瞬でこの世界に存在するすべての原子の位置と運動量を把握する力があって、その数字を使って瞬時に未来を計算できるらしい。つまり、ラプラスの悪魔には未来のすべてがお見通しってわけ」
「ふ~ん」
「納得できないって顔だね」
「いや、未来を計算できるのはいいとしても、その場合、僕たちの意思みたいなものは反映されてないんだよな? それで未来予知って言えるのか?」
「あー、そういうこと」
「感情まで予測するなんて無理だろ?」
「できるよ」
はっきりと理央が断言する。
「は?」
間抜けな声が咲太の口からもれた。
「人の体を構成するのも原子。その位置と運動量を把握すれば、脳がどう判断するか、どう感じるかも計算で導き出せる」
「なるほど……聞かなきゃよかった」
「最後まで聞けば、そうでもなくなるよ」
「ほんとか? だって、今の話ってさ……感情部分も織り込み済みってことなら、ある瞬間の原子の位置と運動量がわかれば、どんな先の未来も計算できるって話になるよな?」
「そうだね」
「だったら、未来はひとつに決まってることにならないか?」
一度、ある瞬間の原子の位置と運動量がわかれば、あとは経過時間を変化させるだけの話で、他の数値をいじる必要はないはずだ。すなわち、時間以外は変わらない。数学とか物理とかでいう、定数として運命が定められていることになる。
「そこに気づくなんて、梓川は結構賢いね」
子供を褒めるような理央の言葉。
「梓川の言う通り、ここまでの話はそういう話」
「じゃあ、あれか? 試験前に僕が勉強をしても、しなくても、来週の期末試験の結果は、もう決まってるってことだよな?」
「それは少し違うね。確かに点数は決まっている。だけど、梓川が勉強するか、しないかについては解釈を間違えてるよ。正しくは、梓川が試験勉強をするか、しないかも決まっていることになる」
「ん、あ、そうか」
未来の全部が決まっているとはそういうことだ。
「今日、私の話を聞いた梓川が、『未来なんて決まってるんだから、がんばってもしょうがない』と思ったとしよう」
「その場合も、今日、ここで双葉の話を僕が聞いて開き直ることを、ラプラスの悪魔は知ってるって話だよな?」
「その通り」
ややこしいけど、わかるにはわかった。
でも、つまり、
「運命は決まってるのか」
ということだ。
「私が最初に言った言葉を忘れた?」
「今朝、国見に声をかけられて、超うれしかった」
「死ね」
「え~っと……『量子力学が登場する以前』だっけ?」
「覚えてるなら余計なこと言うな」
少し拗ねたような顔で、理央が睨んでくる。普段のさばさばした態度からは想像できない女の子の顔だ。
「以前、シュレーディンガーの猫について説明したよね」
「箱を開けるまで、猫の生死は決まってないってやつな」
あれは、約一ヵ月前のこと。麻衣の身に起きた思春期症候群をどうにかするため、理央に相談したときに聞かされた話だ。
「ま、それだけ覚えていれば上出来かな」
「もっと褒めてくれ」
それを無視して、理央は続ける。
「量子力学の世界では、粒子の位置は確率的にしか存在できないことになってるって説明もしたけど、覚えてる?」
「今、思い出した。位置を確定するためには、観測するしかない……だったよな?」
「そう。で、その観測がキーなんだけど、見るためには光を当てるしかないわけ」
引き出しから取り出した懐中電灯のライトを、理央が机の上に置いた野球のボールに当てる。
「これで、粒子の位置はわかったんだよな?」
「そ、でも、粒子はとても小さなものだから、同じくらいの大きさの光をぶつけると、速度や向きが変わってしまう」
ライトの当たったボールを理央がコロコロと転がした。机から落ちてツーバウンド。椅子の脚にぶつかって止まった。
「つまり、粒子の位置を調べると速度が変化してしまうし、速度を含む運動量を正しく知ろうとすると、位置が確率的になってしまうわけ。両方を同時に知るすべはないってこと」
「そりゃ、もどかしいな」
「晴れて、ラプラスの悪魔は量子力学に退治されて、未来は決まってないってこの件に関しては証明されたの。安心した?」
正直、あまり安心はできない。その量子力学が咲太にはよくわかっていないのだ。そんなよくわかっていないものを自信にできるはずがない。
「でもさ、量子力学ってのは、人間視点の話だろ?」
「当然、そうだね」
「なら……」
言いかけた咲太の先回りをして、理央が口を開いた。
「梓川の言いたいことはわかるよ。元々、ラプラスの悪魔は、人間を超越した存在なんだから、位置と運動量を同時に正確に測れるかもしれない」
確認の視線を理央が投げかけてくる。
「ああ、まさにそれを言いたかった」
「どこまで悪魔が優秀かは、梓川が決めればいいんじゃない」
理央はそのためにこの話をしたのだと言いたげだ。
そして、それは同時に、咲太がラプラスの悪魔だと理央は言っている。
「悪いが僕はそんな怪しげな悪魔じゃないぞ」
「せいぜい、解剖されないように気を付けるんだね」
「謎の研究機関に双葉が密告しなければ大丈夫だろ」
「だとするともう会えないかも」
ちらりと理央が机の上に置かれたスマホを見ている。
「どうしても違うって言うなら、本物のラプラスの悪魔を探すんだね」
「どこにいると思う?」
少なくとも学校の授業で悪魔の探し方は教わっていない。
「悪魔だけは、梓川と同じで、繰り返されているっていう『六月二十七日』の記憶があるんじゃない? その記憶があるなら、前回の『六月二十七日』とは違う行動を取っている可能性が高いと、私は推測するけどね」
「あ~、なるほど……」
理央の言う通りだ。この事態に気づいていれば、なんらかの対処なり、行動なりを起こしている可能性が高い。もしくは、この状況に困惑しているか。
とは言え、目星は何もない。どこから探せばいいのだろうか。
その疑問を口にする前に、朝のHRの開始五分前を告げるチャイムが鳴ってしまった。わざわざ早く来たのに、遅刻するのもバカらしい。
鞄を肩にかけて立ち上がる。理央の片付けを手伝おうとしたが、「いい、先行って」と言われてしまった。



