第一章 不思議が不思議を呼んできた ①
──ねえ、キスしよっか
そう言って僕をからかってきた当時高校生だったはずの彼女は、二年後に再会すると中学生になっていた。
つまるところ、一体全体これはどういうことなのだろうか。
1
その日、梓川咲太は夢を見た。
昔の夢……とは言っても、二年ほど前のこと。
咲太が中学三年生だった頃の出来事。
謎の三本傷が胸に刻まれ、血まみれで病院に運ばれてから十日が経過していたあの日……担当医の困った顔も見飽きていた咲太は、病院を抜け出して近くの駅から電車に乗った。
行き先は別にどこでもよかった。なんとなく海に行こうと思ったのは、昨日ヒマ潰しに見ていたTVドラマの登場人物が、海でたそがれていたのを思い出したからだ。
気分が沈んでいるときは、そうすればいいんだと思えた。
そうしてやってきたのが七里ヶ浜の海岸。砂浜に下りると、意外と力強い波の音が聞こえてきた。波打ち際までゆっくりと歩く。
潮の香りを含んだ海辺特有の風。昼下がりの日差しは心地よい。海面には太陽へと続く光の道が生まれている。そのはるか彼方……空気が透き通っているのか、水平線がはっきりと見えた。
海と空の境目をしばらく見ていると、隣に人の気配がした。
「知ってますか? 人の目の高さから見える水平線までの距離は、約四キロメートルなんですよ」
透明感のある声。音色はか弱いのに、はっきりと意思のこもった凜とした声だった。
「……」
ちらりと横を確認する。風に揺れる髪を手で押さえた制服姿の女子高生が立っていた。ベージュのブレザーに、紺色のスカート。砂の上に裸足で立っている。
面識のない女子高生。名前を知らない女子高生。
咲太の視線に気がつくと、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
一応、周囲を確認したが、咲太以外の人影はない。犬の散歩をしている老夫婦が遠くに見えたくらい。咲太が話しかけられたという解釈で間違いはなさそうだった。
「この辺の人って、みんなそうなんですか?」
「ん?」
質問の意図が伝わらなかったのか彼女は首を傾げている。
「見ず知らずの人に、突然話しかけたりするんですか?」
この一帯は海辺の観光地だ。西に江の島、東には鎌倉がある。だから、外から訪れた人に対して、もてなそうというやさしい文化を築いているのかもしれない。
「あ、もしかして、わたしのこと、変な人だと思ってます?」
「いえ」
「よかった」
ほっと、彼女が胸を撫で下ろした。
「ウザい人だと思ってるだけです」
「それ、女子高生に禁句です。ウザい、ダサい、空気が読めないは三大禁句」
両手を腰に当てたポーズで、彼女が頰を膨らませる。お冠のようだ。
「なら、イタイ人で」
「それは四番目」
恨めしそうに彼女は不機嫌な顔を向けてくる。
「少年は、随分とやさぐれているようですけど、何か嫌なことでもあったんですか?」
「さっきの話」
彼女からの質問は無視して、咲太はそう切り出した。こうした態度のせいで、出会ったばかりの女子高生に、やさぐれているなどと言われたのだろう。
「はい」
それでも、彼女は嫌な顔ひとつしない。にっこりと微笑んでいる。先ほどからその表情はコロコロと変わっていた。
「水平線までの距離の話です」
そんな彼女の前で、咲太は憮然としたままだった。
「約四キロメートルって本当ですか?」
「意外と近くてびっくりですよね」
彼女は砂浜に落ちていた細い木の枝を拾うと、湿った砂の表面に円を描いた。その円の上に、今度は丸と棒で構成された人の絵を追加する。最後に、丸と棒の人間から円の縁に接するように一本の直線を引いた。
「高校の数学で教わる直線と円の式を使えば、水平線までの距離は簡単に導き出せます」
砂の黒板に、彼女は数式を書いてくれたが、それは長く伸びてきた波にさらわれて消えてしまった。慌てて、彼女も波打ち際から一歩下がる。
「……」
咲太はもう一度水平線を見据えた。先ほどははるか遠くに思えていたそれが、不思議と今は近くに見える。
「次はわたしの質問に答えてもらう番ですね」
言われた瞬間は、やはり無視をしようかと思った。だが、結論から言えば、咲太はこのあと海にやってきた理由を彼女に話していた。
「僕は──」
はじめは妹がいることを伝えた。次に、その妹が中学でいじめに遭ったことを話した。
一度口を開くと、言葉は次から次へと出てくる。
いじめを切っ掛けに、妹の体に謎の痣や切り傷ができたこと。酷く傷付いた妹に対して、自分は何もしてあげられなかったこと。挙句、わけのわからない傷が自分の胸にもできたこと。何もかもが上手くいかなくて……全身に伸し掛かる無力感から逃げ出すように、今日はここへ来たこと。それらを全部話した。
同情が欲しかったわけでもなければ、慰めの言葉を期待したわけでもない。話を聞けば、突然現れたお節介な女子高生もドン引きしていなくなると思っていた。そういう意地悪な気持ちが咲太の口を割らせた。それくらい、このときの咲太は突然話しかけてきた彼女が言った通りで、とにかくやさぐれていたのだ。
「そんなことがあったんですね」
驚いたことに、すべてを聞き終えたあとでも、彼女は困惑の表情を見せなかった。同情もなければ、慰めもない。胸の傷に関しての言及もしてこなかったし、話を噓だと疑うようなこともなかった。ただ、右手を差し出して、
「わたしは、牧之原翔子です。牧之原サービスエリアの牧之原に、大空を翔る子の翔子。少年の名前は?」
と言ってきた。
「僕は……」
咲太は反射的に口を開いていた。躊躇いながらも、握手に応じようと手が伸びる。だが、翔子の手を摑む寸前で、夢は終わりを迎えた。
夢の中では空振りに終わった咲太の手が何かに触れる。手のひらに収まる丸くてやわらかい感触……。
続けて、咲太は体に覆い被さる人肌のぬくもりを感じた。少し汗ばんだ柔肌が、右半身にぴったり張り付いている。
ふにっとした感触と、重さから考えるに女の子。
ぼんやりと思考していると、今度は唇を舌でなめられた。
ゆっくりと目を開ける。
白くてふわふわした愛くるしい生き物が、咲太の目の前にいた。ちょっとざらついた舌でなおも咲太の顔をなめてくるのは、白い毛並みの子猫。
わけがあって、二週間ほど前……一学期の最終日から咲太の家で預かっている子猫だ。
とりあえず、顔の上から白い子猫を下ろした。
ただ、これではまだ起き上がれない。もう一匹……いや、もうひとり咲太に覆い被さっている大きな生き物がいる。
パンダ。もとい、パンダ柄のパジャマを着た妹のかえでだ。今年で十五歳のお年頃なのだが、時々こうして咲太のベッドに潜り込んでくる。
そのかえでの胸元には、梓川家の飼い猫であるなすのがいた。メスの三毛猫。先ほどから咲太の右手が感じていたやわらかい感触の正体は、どうやらなすのの丸いお尻だったようだ。うっかり、妹の胸を触ったりしなくてよかった。
なすのから手を離すと、咲太はすぴ~っと寝息を立てるかえでの鼻を指で摘んだ。
「むっ」
一瞬、苦しそうな顔をするかえで。だけど、すぐに口を開けて酸素を確保する。口も塞いでやろうかと考えたが、お年頃の妹にする行為ではないと思いやめておいた。
「かえで、起きろ」
「ん? あ、お兄ちゃん、おはようございます」
目元をこすって、かえでがあくびを嚙み殺す。
「何度も言っているが、僕のベッドに潜り込むのはやめなさい」
「お兄ちゃんが、禁断の愛に目覚めてしまうからですか?」
「違うな」
「大丈夫です。お兄ちゃんが望むなら、かえではどこまでも堕ちていきます!」



