第一章 不思議が不思議を呼んできた ②

「ただただ暑いからやめてほしいんだ」


 季節は夏。人肌のぬくもりなどちっとも恋しくない時期。むしろ、なるべく人と触れ合いたくないシーズンだ。

 もちろん、お付き合いをしているひとつ年上の彼女……桜島麻衣だけは例外。むしろ、オールシーズン触れ合っていたい。

 だが、世の中とは思い通りにはいかないもので、麻衣とはスキンシップのない日々が続いている。それ以前に、夏休みがはじまってから数えるほどしか会っていない。

 芸能活動を再開した麻衣は、ドラマ撮影、CM撮影、さらに、ファッション雑誌の表紙モデルや、そのインタビュー、番組の宣伝イベントなどに引っ張りだこで、芸能人として充実した日々を送っているのだ。

 夏休みがはじまる前は、「半分くらい仕事」と言っていたのに、スケジュールは瞬く間に埋まってしまっていた。殆どオフのない状態だ。


「はあ……」


 だから、落胆のため息のひとつやふたつは零れる。


「どうしたんですか、お兄ちゃん」

「かえで、今日が何月何日か知ってるか?」


 デジタルの目覚まし時計で日付を確認したかえでは、


「八月二日です」


 と、律儀に教えてくれた。


「つまり、夏休みは二週間ほど経過したわけだ」

「そうですね」

「なのに、麻衣さんと全然イチャイチャしていない」

「なら、かえでとイチャイチャしますか?」


 ここぞとばかりに、かえでが顔を寄せてくる。


「いや、しないな」


 未だに離れる気配のないかえでごと、咲太は無理やり起き上がった。


「かえでの何が不満なんですか!?」


 ぐいっとかえでが身を乗り出してくる。危うく押し倒されそうだったので、咲太はさっさとベッドから立ち上がった。


「今日はやけに必死だな」

「今、かえではかえで史上最大のピンチなんです」

「なんだそりゃ」

「一日も早く妹道を極めないといけないんです!」


 力強くかえでが自分の言葉に頷いている。

 妹道とはなんだろうか。剣道や柔道の親戚だろうか。いや、同列に並べたらそれぞれの団体から苦情の電話が来そうだ。

 そんなどうでもいいことを考えていると、インターフォンが鳴った。時計を見ると午前十時を示している。だから、誰が来たのか、咲太は出る前にわかった。

 この時間にやってくるのは彼女しかいない。


「はいはい、今、行きますよ」


 大きなあくびをしながら、咲太は来客を出迎えるために玄関へと向かった。


 訪ねて来たのは、清楚な佇まいのひとりの少女。白のワンピースは、彼女の清らかさをより引き立てている。

 年齢は十二歳。中学一年生。顔立ちには年相応の幼さが残っているが、「こんにちは。お邪魔します」と言って頭を下げる仕草は妙に落ち着きがあって大人びている。物腰が丁寧で礼儀正しい。

 靴を脱いで玄関を上がった少女……牧之原翔子の足元に、咲太の部屋から出てきた白い子猫が駆け寄っていく。背中をすりすりとこすり付けていた。


「今日はご飯がまだなんだ」

「あ、でしたら、わたしがあげてもいいですか?」

「なすのの分も一緒にお願い」

「はい」


 うれしそうに翔子が微笑む。

 その翔子をリビングへ案内する。足元には、子猫がじゃれついていた。


「お兄ちゃん、ちょっと来てください」


 自室の前を通り過ぎたところで、かえでから手招きをされた。先に翔子をリビングに通してから、咲太はかえでのもとへ戻った。


「なんだ?」

「お兄ちゃんは、妹は若い子の方がいい人ですか?」


 若干、泣きそうな顔。


「なんだ、その質問は」

「清楚で礼儀正しい妹がいいんですか?」


 かえではちらちらとリビングの方を気にしている。どうやら、これがかえでにとって、かえで史上最大のピンチということのようだ。


「妹はかえでひとりいればいい人だな、僕は」

「ほ、本当ですか」

「むしろ、なんだと思われてるんだ、僕は……」

「で、では、翔子さんは、お兄ちゃんにとってなんなんですか?」

「……なんなんだろうな」


 予想外の出会いから約二週間。色々な推測はしたが、『牧之原翔子』という存在に対する疑問の答えは何ひとつ出ていない。

 ただの同姓同名。そう考えるには顔立ちが似すぎているし、姉妹や親戚という筋は、名前が一緒の時点で成り立たないはず。少なくとも、翔子の方は咲太を知らなかったので、二年前に出会った牧之原翔子ではないのだろうと咲太は思っている。それでも、やはり、今も猫の世話をしている中学一年生の翔子は、二年前に咲太が出会った高校二年生の牧之原翔子と外見の上ではよく似ていた。別人とは思えないほどに……。

 そうなると、見えてくる可能性はひとつ。

 なんらかの思春期症候群による影響。ネットの掲示板で話題になっている普通では考えられないような眉唾物の超常現象。『突然、目の前から人が消えた』とか、『他人の心の声が聞こえた』とか、都市伝説のようなもの。ただ、それが単なるネット上の噂話でないことを咲太は知っている。今年になってからすでに二件も咲太は経験していた。ひとつは麻衣の件で、もうひとつは後輩の古賀朋絵の件だ。

 それと似た現象が、翔子にも起きている可能性がある。今起きていることなのか、二年前に起きていたことなのかはわからないが……。


「あの、咲太さん」


 考え事をしながら、翔子の後ろ姿を見ていた咲太は、振り向いた彼女とばっちり目が合った。


「ん?」

「その、ごめんなさい」

「なんのこと?」

「この子のことです」


 キャットフードを食べる子猫の背中を翔子がやさしく撫でる。


「引き取りたいと言っておきながら、なかなか両親に言い出せなくて……」


 子猫の隣になすのがやってくる。


「必ずお父さんとお母さんには話しますので、もう少し待ってください」


 それが今なお公園で拾った子猫が咲太の家にいる理由だ。



「ご両親は厳しい人?」

「わたしにはとてもやさしいです」

「動物が苦手とか?」

「好きだと思います。動物園に行ったときには、わたしと一緒になってはしゃいでいました」

「さては、猫アレルギー?」

「いえ」


 と、翔子は首を横に振る。


「実は家が飲食店を営んでいるとか?」


 衛生面の問題や、それこそ猫アレルギーの客への配慮という可能性もある。


「父は会社員で、母は専業主婦の一般的な家です」

「なるほど」


 これ以上は、尋問のようになりそうだったので、咲太はやめておいた。

 けれど、翔子の方から、


「わたしが『猫を飼いたい』と言ったら、お父さんもお母さんも絶対に反対はしないと思います」


 と、わずかに表情を曇らせて言ってきた。

 なんだか妙な言い回しだ。だから、当然その理由は気になったが、咲太はあえて追及はしなかった。はっきり言えることなら、翔子は最初から今のような言い方を選ばなかったはずだ。


「でも、だから、言い出せなくて……」


 またよくわからないことを言ってくる。


「そっか」

「ごめんなさい。よくわからないですよね」

「ああ、さっぱり」


 咲太が思った通りに答えると、翔子は何がおかしかったのか、くすくすと笑い出した。


「ま、しばらくはこのままでもいいよ。なすのも喜んでるし」


 子猫の顔をなすのがなめてあげている。


「牧之原さんもここで猫の世話の練習をしておけばいいし」

「はい」

「そういや、名前は決めた?」

「はい、決めました」


 ぱっと笑顔になって翔子が頷く。


「……」

「……」


 けれど、続きの言葉は出てこない。


「教えてはくれないんだ」

「え? あ、そうですよね。……あの、笑わないでくださいね」

「そんな面白い名前なのか」

「い、いえ、普通だと思いますけど……『はやて』です」

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