第一章 不思議が不思議を呼んできた ③
子猫は翔子の方を見て、怪訝そうに首を傾げていた。自分の話をしているのだということは、なんとなくわかっているのかもしれない。
「白くてしゅっとしているので、『はやて』って感じだと思いました」
「いいね。なすのと東北仲間だ」
「東北仲間?」
新幹線の名前繫がりなのは、伝わらなかったようだ。わざわざ説明するほどのことでもないので、「なんでもない」と言って咲太は軽く流した。
それから、しばらくは猫とじゃれ合っていた翔子だったが、何かに気づいて顔を上げた。
「あの」
上目遣いで咲太を見ながら、声をわずかに潜めている。
ちらりと横に流れた視線は、咲太の後ろ……部屋のドアの隙間から咲太と翔子の様子を窺っているかえでに向けられていた。
「わたし、かえでさんに嫌われているんでしょうか?」
「あれが全人類に対するかえでの標準的な反応だから気にしなくていいよ」
「いえ、気になります」
ごもっともな意見が返ってきた。言われてみれば確かに気になる。
「かえで、今日の分の勉強は終わったのか?」
「わからないところがあるので、お兄ちゃんに教えてほしいです」
「なら、こっちに来なさい」
数学の教科書を胸に抱えたかえでが恐る恐る部屋から出てくる。すぐに咲太の背中に張り付いてきた。
「この状態で、どう教えればいい?」
「ここです」
後ろから、顔の前に教科書が差し出される。因数分解の問題。計算式はきちんと書き込まれていて、分解する問題も、式をまとめる問題もちゃんとできている。
「どこがわからないのか、僕にはわからないんだが」
「因数分解が、人生のどの段階で活躍するのかわからないんです」
「たとえば、入りたい高校の入学試験で活躍するな」
咲太の人生の中で、因数分解が役に立った唯一の場所だ。
「わかりました」
納得した様子で、かえでは教科書に「試験で活躍!」とメモを取っている。本当にわかったのだろうか。今の答えでよかったのだろうか。もっと根本的なことをかえでは聞いてきたのだと思うが、そんな難題に咲太が答えられるわけがない。咲太としても、微分積分が何の役に立つのか知りたいくらいだ。あと、三角関数。一体、誰が考え出したのだろうか。サイン、コサイン、タンジェント……。
そんなことを考えていると、翔子から視線を感じた。
「どうかした?」
咲太の方から先にそう問いかける。
「わたしも、ここで宿題をしてもいいですか?」
「夏休みの宿題?」
「はい」
「いいよ。こっちのテーブル使って」
TVの前のテーブルを勧める。
「ありがとうございます」
翔子は丁寧にお辞儀をしてから、ぺたんと床に座り込んだ。トートバッグの中から宿題のプリントを取り出す。翔子も数学の宿題のようだ。簡単な一次方程式の解を求める計算問題。それが全部で二十問ほど並んでいる。集中してやれば、十五分くらいで終わりそうな感じ。
けれども、プリントの問題を前にして、シャーペンを握った翔子は硬直していた。最初の問題は『3<外字>=9』だ。両辺を『3』で割って、『<外字>=3』にするだけのはずだが、翔子の手はぴくりとも動かない。
そのまま一分が経過。
やっと動いたかと思ったら、翔子の手はトートバッグの中に伸びた。数学の教科書を引っ張り出す。開いたページはもちろん一次方程式について書かれたところ。読み進めるにつれて、表情は困惑に歪んでいった。
「教えようか?」
「……」
声をかけると、少し驚いた様子で翔子が顔を上げた。
「苦戦してるようだし」
「だ、大丈夫です。できると思います」
再び、翔子は教科書とにらめっこをはじめる。
五分ほど粘ったあとで、プリントの一問目に着手。両辺を『3』で割って、『<外字>=3』を導き出した。
確認するように翔子が上目遣いで咲太を見てきたので、
「正解、よくできました」
と言ってあげた。
その後は、すらすらと問題を解いていく。一次方程式がどういうものか理解したらしい。迷いが殆どない。でも、だからこそ、咲太は不思議に思った。翔子の様子は、授業で学んだ内容を思い出したという風には見えなかったからだ。どちらかと言うと、はじめて見る問題を、今、理解したという印象。
そのまま最後まですらすらと問題を解き終えてしまった。
「あのさ」
プリントをトートバッグにしまった翔子が真っ直ぐに見上げてくる。『人の話を聞くときは相手の目を見ましょう』という小学校での教えを忠実に守っている。
「変なこと聞いてもいい?」
「えっと……」
わずかに翔子が警戒を見せる。というか、なぜだか頰を赤く染めた。
「えっちな質問ですか?」
「いや、違うな」
「そ、そうですか」
どうしてそう思ったのかは気になったが、脱線すると本題を聞きそびれそうだったので、咲太はさっさと切り出すことにした。
「牧之原さんって、お姉さんいる?」
「いえ」
「親戚によく似た人は?」
「いえ、いないと思います……」
濁した語尾からは、どうしてそんなことを尋ねてくるのかという疑問が窺い知れた。
「前にさ、牧之原さんによく似た人に会ったことがあってね。ま、その人は牧之原さんより年上なんだけど……もしかしたら、お姉さんとか、親戚なのかと思ったわけ」
「わたしは一人っ子なので」
「そか」
「年上ってどれくらいですか?」
「ん?」
「その、わたしによく似ていたという人です」
「二年前に会ったときに高校二年生だったから、進学してたら大学一年生……今年十九歳ってことかな」
「十九歳……」
ぽつりと翔子がそうもらした。何か意味がある数字には思えなかったが、何か意味があるように呟いたようにも思えた。気のせいだろうか。
「どうかした?」
「あ、いえ……大学生の自分が全然想像できなかったので、どんな風になるのかと思ったんです」
まだ中学に上がったばかりではそれが自然だろう。
「大丈夫。高校二年の僕にも、大学生の自分は想像できない」
「咲太さんは、そろそろ想像できた方がいいと思います」
遠慮がちに翔子は正しい指摘をしてきた。
「確かにその通りだなあ」
それからしばらくは他愛のない話をして、十二時前に翔子は席を立った。いつも通りの時間。マンションの下まで見送り、別れ際には、
「明日はなすのがお風呂の日だから、なすのでお風呂の練習をしよう」
と約束をした。まだ小さいはやては、体温調節が苦手なためお風呂はお預けだ。
「それでは、はやてのことお願いします」
ぺこりと頭を下げてから、翔子は小さく手を振って歩き出す。遠ざかっていく背中を見ながら、
「本日も、二年前の件については進展なしか」
と、咲太は呟いた。
「双葉に、相談しとくかな」
エレベーターに乗り込むと、そんな独り言を口にしていた。
2
翔子と別れたあと、シフトの時間より少し早めに家を出た咲太は、真っ直ぐバイト先のファミレスには向かわずに、駅前の家電量販店の建物に足を踏み入れた。
最新のスマホがずらりと並んだフロアを通り抜けてエスカレーターで上を目指す。オーディオフロア、白物家電フロアには見向きもせずに、ひたすら上へ。
七階に到着すると雰囲気は一変した。この階と上の八階は品揃えの豊富な書店になっているのだ。
広いフロアには整然と本棚が並び、隙間なく本で埋められている。専門書を扱う七階は客の年齢層が高く、落ち着いた雰囲気がある。どこかの図書館のようですらあった。
その中を、咲太は本棚と本棚の間を確認しながら歩いた。
別に探している本があるわけではない。



