第一章 不思議が不思議を呼んできた ⑪
トイレにでも行くのかと思った足音は、リビングの方に近づいてくる。やがて、咲太のすぐ側まで来て立ち止まった。
しかも、その場でごろんと寝転がる気配。
絶対に理央ならこんな真似はしない。だから、麻衣だろうと思いながら目を開いた。
体を横に向けた咲太の顔の前に、案の定、麻衣の綺麗な顔があった。わずかな光の中でも、その輪郭ははっきりとわかったし、どこか楽しげなのも判別できる。
「麻衣さん」
「ん?」
声もなんだか弾んでいる。
「なにしてんの?」
「咲太の顔を見てる」
「いや、そうだけど」
「彼氏の顔を見てる」
「……」
今のはちょっと反則だ。心臓がばくんっと高鳴った。余計に眠れなくなりそうだ。
「ドキッとしたでしょ?」
からかうような瞳。
「麻衣さん、浮かれてる?」
「久しぶりにに彼氏とゆっくり会えて、お泊まりしてるんだから当たり前でしょ」
わざとらしい上に、悪ふざけを含んだ下手な演技。その瞳にはなにやら不満を溜め込んでいる。それに咲太が気づいた途端、麻衣の手が伸びてきて鼻を摘まれた。
「双葉は?」
鼻の詰まった声でそう質問する。
「ぐっすり眠ってる。この何日か、安心して眠れてなかったんじゃない?」
「そうですか」
女子がネットカフェで連泊となれば、何かと神経を削るのだろう。特に、理央はその辺に関して神経質な方な気がした。
「咲太は目の前にいる私より、双葉さんが気になるんだ」
「実は麻衣さんの機嫌が悪そうだったから、真面目な話題にしておいた方が安全かなあと思ったんだけど……」
どうやら、これも地雷だったようだ。
「あーあ、明日、丸一日オフになったから、デートしてあげようと思ってたのに」
そっぽを向いて麻衣がそんなことを言う。指も離れて咲太の鼻を解放してくれた。
「そのために、一日早く帰ってきてくれたんだ」
「……」
麻衣は肯定も否定もしない。ただ、なんとなく不満そうな目で咲太を見ている。だから、正解で間違いないと思った。
「でも、どうして、もうダメになった風なんですか?」
「咲太は双葉さんのこと調べるでしょ」
何の躊躇いもなく麻衣が図星を突いてくる。
「『偽者』は科学部の活動で明日も学校だと思うので、まー、様子を見に行こうとは思ってました」
ごまかしても仕方がないので素直に白状する。まずは、本当に双葉理央がふたり存在しているのかを改めて確認するつもりだ。
「ほら、やっぱり」
「そこで、麻衣さんにひとつお願いがあるんですが」
「嫌」
咲太が言い終えるよりも早く、麻衣が否定の意思を被せてくる。
「どうせ、咲太が『偽者の双葉さん』のところに行っている間、『本物の双葉さん』がどうしているか私に見ておけって言うんでしょ?」
「さすが麻衣さん、僕のことよくわかってる」
学校に本物の理央をつれていき、『偽者』と横に並べるのが一番手っ取り早い方法ではあるのだが、それにはリスクを伴う。誰かにその場面を目撃されるのは何かとまずい。パニックになる。
ふたりを同時に確認するのは、無理なのかもしれないという理央の仮説もある。
あと、若干気になっていたのは、ドッペルゲンガーの都市伝説。もう少し状況がはっきりするまではふたりを会わせない方がいいような気がしていた。
「喜ぶな」
麻衣の指が頰をつねってくる。
「痛い痛い」
「悦ぶな」
「というわけなんで、お願いします」
「……」
無言になった麻衣の指が咲太の頰から離れる。
「じゃあ、お詫びはチャラでいいわね」
「それって、麻衣さんが僕をしばらく放置してた分の?」
「そうよ」
「えー」
「当然でしょ」
「この件のお礼に、僕も麻衣さんのお願いを何でも聞くから、お詫びはお詫びでほしいなあ」
「今、添い寝してあげてる」
「もっとこう、ネズミの鳴き声的な行為でお願いします」
「……」
麻衣は心底呆れた顔をしていた。
「あれ、わかりませんでした?」
もちろん、そんなわけはない。麻衣はわかったからこそ、呆れているのだ。ネズミの鳴き声はチュー。すなわち、キス。
「別にお詫びを理由にしなくても、時と場所と雰囲気をちゃんと選んでくれれば、咲太の方からしてくれてもいいのよ」
途中までは悪戯っぽく笑っていた麻衣の目が、言い終えると同時に気恥ずかしそうに逸らされた。
「麻衣さん?」
「な、なによ」
強がった上目遣いで咲太を見ている。
これはオッケーと捉えていいのだろうか。たぶん、いいのだろう。仮にダメだったとしても、麻衣に叱られるだけだ。それはそれで咲太にとってはご褒美なので、躊躇う理由はひとつもなかった。
「……」
「……」
視線が絡む。
一秒、二秒……三秒して麻衣がまつ毛を震わせながら静かに目を閉じた。
キスをするために、咲太は身を乗り出した。それと同じタイミングで、麻衣が恥ずかしそうにあごを引く。おかげで唇よりも先におでことおでこがぶつかってしまった。ごつっと音までした。
「痛いわね」
むすっとした不機嫌な顔で麻衣が睨んでくる。
「麻衣さんが恥ずかしがって俯くから」
「さ、咲太ががっつくからよ」
文句を言いながら、麻衣がむくりと起き上がる。
「麻衣さん?」
「今日はもうおしまい」
そう告げてきた横顔は、暗がりでよくわからなかったけど、ほんのりと朱に染まっている気がした。
「えー」
ここまで来ておあずけは辛い。
「咲太が下手くそだからじゃない」
「うわー、それ傷付くなあ。男として自信をなくして、女性恐怖症になりそう」
「そんなことにはならないわよ」
やけにきっぱりと麻衣が否定してくる。
「その心は?」
「上手にできるようになるまで、私が練習させてあげるから」
「……麻衣さん」
「なによ、嫌なの?」
「すげえ、好きです」
「知ってる」
口調は面倒くさそうだったけど、振り向いた麻衣の口元には笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、おやすみ」
そう言って、麻衣は立ち上がった。
「はい、おやすみなさい」
小さく手を振って、麻衣は咲太の部屋に戻っていった。ぱたりとドアの閉まる音を聞き届けてから目を閉じる。
とは言え、すぐには寝付けない気がした。麻衣にあんなことをされて、あんなことを言われて、高ぶるなというのは無理がある。
そして、それとは別に、咲太の気分をざわつかせているものがあった。
頭を過るのは理央のこと。昼間相談に乗ってくれた理央。咲太の部屋で寝ている理央。ふたりいるらしい理央。
今、咲太の部屋で寝ている理央は、もうひとりのことを『偽者』と呼んでいた。それに納得していれば、気持ちはざわつかなかったかもしれない。
その点について、咲太は別の感想を持っていた。
──どちらも双葉理央としか思えない
片方が偽者なら退治すればいい。けれど、そう単純な話ではないような気がしていたのだ。それがざわつきの正体。
けれど、どちらも本物なら、ふたりいては困ることになる。家も、学校も、そして恐らくは社会も、双葉理央をふたり受け入れられるようにはできていない。そうした現実を咲太の体は肌で感じていたのだと思う。
だから、咲太の胸はざわつき続ける。
「あ~、くそ。こういうときは、麻衣さんのバニー姿を思い出すのが一番だな」



