第一章 不思議が不思議を呼んできた ⑩
「そう。今回の件に当てはめて、簡単に説明すると……たとえば、私を構築している情報の設計図があるとするでしょ」
「それ、簡単か?」
スタート地点からして頰が引きつってしまいそうだ。
「その情報を、量子もつれを利用して、離れた位置に一瞬で移動させたとする」
「たとえば、双葉はうちの風呂にいるのに、その情報を学校に飛ばしたと考えればいいのか?」
「それでいいよ。学校にある私を構築する情報は、誰かに観測されることで、確率的存在から、梓川の認識している双葉理央の姿に確定される」
「観測理論だな」
「よく覚えてたね」
「その辺は何度も話を聞いたからな」
量子の世界では、物質の位置は観測されることで確定する。それまでは、確率の状態でしか存在していない……だったはずだ。
ただ、わかっているのはあくまで表面上のことだけ。ちゃんと理解している気はまったくしない。その上、今回は瞬間移動なんて話にまで発展しているのだ。ここまで来ると、「魔法は実在する」と言われているのと気分的には変わらなかった。
「けどさ、今の双葉の話だと、同時にふたりが存在するのは無理なんじゃないのか?」
量子テレポーテーションというくらいだ。コピーとは違うはず。
「そうだけど……説明してないのに、よくわかったね」
「観測したあとは確率じゃないんだから、どっちにもいるってわけにはいかないんだろ? うちの風呂にいるときは、学校にはいない。そういう話だよな?」
「驚いた。ほんとにわかってるんだ」
「いい先生がいるんでね」
「でも、その通りだよ。実は、私はもうひとりを見たわけじゃないんだ」
「え?」
「だから、同時に存在しているのかと聞かれると、そうだとは言い切れない。ただ、私とは違う場所で、違う行動をしている私がなんらかの形で存在していることだけは間違いないと思う。部屋の様子やスマホの操作履歴を確認した限りでは、私の認識にない変化や足跡があったから」
「なら、僕が双葉を観測し続ければ、もうひとりは存在できないってことか?」
「私を形作る観測者が梓川であればそうかもしれない。正しくは……『片方を観測している限り、もうひとりのことをその観測者は観測できない』という表現になるのかもしれないけど……」
「ん? よくわからん」
「視点を複数にして考えた場合の話だよ。今、この状態で……さっき家に帰った桜島先輩が、外で『偽者』の私と出会ったとするでしょ」
「ああ」
「その桜島先輩が『偽者』と一緒にここへ帰ってきた場合、私と梓川が見ている世界には、桜島先輩がつれてきた『偽者』はいないかもしれないということ。逆に、桜島先輩が見ている世界には、私がいないかもしれないって話」
「……とんでもないな」
とんでもなく奇妙な話だ。
「そうだね。その状態では、梓川と桜島先輩の間では、見ている世界が一致していないというパラドックスが発生していることになる」
「けど、ネットカフェで会ったとき、僕はスマホでもうひとりと電話をしていた。目の前にはここにいる双葉がいただろ」
「電話の相手は本当に私だった?」
何か意味を含んだ聞き方だ。
「双葉だったよ」
「絶対に?」
「そう言われると見たわけじゃないからな」
「それは、『極めて私に等しい存在だけど確証はない状態』と言い換えることができるね。つまり、電話口の『私』に関しては、不確定な要素を含んでいる」
「だから、同時に存在できたと?」
「あくまで憶測であり、可能性のひとつだけど。私が『偽者』と遭遇していないのは、ただの偶然ってこともあり得るとは思う。他人にはふたりが同時に見えるって可能性も捨てきれない」
「そうなると、やっぱり迂闊には出歩けないわな」
峰ヶ原高校の生徒に、理央がふたりいるところを見られるのは何かと都合が悪い。説明が必要になる場合もあるだろう。双子だと言ってごまかせるかは怪しいものだ。
「あ、でも、その量子テレポーテーション? 双葉を構築する情報っていうのが同じなら、どっちで観測されて実体化したとしても、双葉の意識や記憶は一緒なんじゃないのか?」
観測されることで位置が特定されただけで、元になる情報の部分が『双葉理央』であることは変わらないはずだ。それが別々の意識と記憶を持って動いているとするなら、その場合は『双葉理央』を名乗る存在がふたりいることにならないだろうか。
「これこそ仮定の話だけど……」
わずかに理央が言いよどむ。言葉が途切れると、洗濯機の回る音がやけに大きく聞こえた。
「双葉?」
そっと話を促す。
「今回、私……『双葉理央』を観測しているのが、私自身だったとして、私を観測する私の意識が、なんらかの理由でふたつ存在しているのだとしたら、今のような状態になるのかもしれない」
「それって、人格がふたつあるってことか?」
「そこまではっきりと区切られたものではないと思うけどね」
「仮にそうだったとして……どうしてそんなことになった?」
「その心当たりはないって言ったでしょ」
「何かショックなことがあったとか、強いストレスに耐えかねて、とか?」
「妙にすんなりその言葉が出てきたね。そうしたものが、意識や記憶に障害を引き起こすって話は私も聞いたことがあるけど」
以前、そうしたケースを咲太は体験している。二年前の出来事。かえでがいじめに遭い、その中で、強烈なストレスが人体に及ぼす嫌な影響を目の当たりにしている。
「まあ、前にちょっとね」
「……お母さんのこと?」
聞くべきかどうか迷ったような声。理央には、母親がかえでのいじめの件で参ってしまったことは話してある。病院にかかっていることも。
「そんなとこ」
「ごめん」
「いいって。そもそも、話を振ったのは僕の方だ」
「うん……それでさ、梓川」
「ん?」
「そろそろ、出たいんだけど。のぼせそう」
「わかった」
洗濯機の前に座ったまま、咲太は答えた。
「出て行けって意味だから」
うんざりした理央の声。風呂場で反響して、不機嫌さは二割増しくらいに聞こえる。咲太は大人しく立ち上がった。
「僕は出て行くけど、双葉はずっとうちにいていいからな」
「……その、ごめん」
「気にすんな」
素直に、「ありがとう」って言わないところが理央らしいと思いつつ、咲太は脱衣所から出た。ドアもぴったり閉めておく。
すると、インターフォンが鳴った。麻衣が戻ってきたようだ。
「はいはい、今、出ますよー」
理央も風呂から上がったところで、今度は誰がどこで寝るかの相談になった。
咲太がかえでと暮らしているこの家の間取りは2LDK。ベッドは咲太の部屋とかえでの部屋にしかない。一応、来客用の寝具は一組あるので、三名にはまともな環境が与えられる。
「では、麻衣さんと双葉さんにはお兄ちゃんの部屋を使ってもらって、お兄ちゃんはかえでの部屋で一緒に寝ればいいと思います」
「却下」
かえでの提案はさらっと跳ね除けた。結果的には、かえではかえでの部屋で、麻衣と理央は咲太の部屋で来客用の布団を追加して寝てもらい、咲太はリビングでゴロ寝となった。順当な結論……というか、最初からそれ以外の選択肢はない。
「おやすみなさい」
ふたつの部屋のドアが閉まったあとで、咲太はリビングの電気を消して、TVの前のスペースに寝転がる。
天井に張り付いたLEDライトのドームがぼんやりと白い光を残している。静けさの中に冷蔵庫のブーンという音がやけに響いた。
目を閉じても、すぐには寝付けない。
しばらくじっとしていると、ドアの開く音がした。音の方向からして恐らく咲太の部屋だ。



