第一章 不思議が不思議を呼んできた ⑨
押し付けるわけでも、やさしくするわけでもない。フラットな大人な麻衣の態度。一学年しか違わないのに、こういうときの麻衣には年長者としての落ち着きがある。
「ここで意地を張っても、咲太に子供っぽいって思われるだけよ?」
それが嫌だったのかはわからないが、理央は小さく息を吐くと、咲太の方を向いた。
「梓川」
「いいぞ」
「まだ何も言ってない」
緊張が解けたのか、理央がふっと微笑んだ。
「そういうわけなんで麻衣さん」
「なに?」
「今日から双葉を泊めますけど、いいですよね?」
念のための確認のつもりで、麻衣にそう尋ねた。だけど、麻衣からの返答は、
「ダメよ」
だった。
「は?」
さっぱり意味がわからない。先ほどは自分から理央が咲太の家に泊まれるように仕向けてはいなかっただろうか。やんわりと理央の逃げ道を潰してはいなかっただろうか。
「なんで驚くわけ?」
「麻衣さんこそなんで?」
ほんとに意味がわからない。
「本気で言ってるの?」
バカを見るような目。いや、ようなは不要だ。バカを見る目。
「だったら聞くけど……私が家に男友達を泊めるって言ったら、咲太はオッケーする?」
「想像するのも嫌なんだけど。すげえ嫌です」
「でしょ?」
「はい、すいませんでした」
けれど、こうなると理央はどうすればいいのだろうか。腕を組み考える。そんな咲太を嘲笑うかのように、
「だから、私も一緒に泊まるから」
と、麻衣がさらっと告げてきた。
「は?」
「ほら、双葉さんの荷物取りに行くわよ」
咲太の返事も待たずに、麻衣はネットカフェの方へと引き返していく。一度、顔を見合わせてから、咲太は理央と並んで麻衣の背中を追いかけた。
「意外と上手くやってるんだ」
ちらりと横目を向けて、理央がそんなこと言ってくる。
「尻に敷かれている男を見るような目で僕を見るな」
「さすが梓川、よくわかってるね」
「男が尻に敷かれるくらいの方が、カップルは上手くいくんだよ」
「それが負け惜しみじゃないところが、ブタ野郎たる所以だね」
「そりゃ、麻衣さんの尻にならずっと敷かれていたいからな」
「……」
理央から注がれる侮蔑の眼差しを感じながら、咲太は麻衣の背中を追いかけたのだった。
4
家に帰った咲太は、眠たそうな顔で出迎えてくれたかえでにまずは事情を話した。思春期症候群のことは適当にごまかしつつ、麻衣と理央がお泊まりすることに納得してもらう。
「お兄ちゃんがまた新しい女の人をつれてきました……」
「人聞きが悪いな」
「で、でも、かえでは妹なので、そんなお兄ちゃんも受け入れる覚悟です」
最初は緊張していたかえでだったが、意外と早く理央に対する警戒心は薄れていった。低めに落ち着いた理央のテンションに、安心感があったのだと思う。それと、何度か家に来ている麻衣には、徐々に慣れてきているので、その辺も理由として大きそうだった。
かえでを説得したあと、今度はお風呂の順番を決める話し合いが持たれた。かえではすでに入浴済みだったので、咲太、麻衣、理央の順番だ。
「僕は最後で」
純粋な親切心から譲ったのだが、麻衣と理央からは嫌そうな反応が返ってきた。
「妊娠しそう」
「麻衣さん、それどういう原理?」
「私、荷物を置きに一旦家に戻るから、お風呂も済ませてくる。着替えも取ってきたいし」
一方的にそう告げて、麻衣は出て行ってしまった。
「というわけで、梓川が先」
「なるほど、僕は女子高生が浸かったお風呂で興奮する変態だと双葉に思われているわけか」
わざわざ抵抗する場面でもないと思い、咲太が先に入浴を済ませた。
十分ほどで上がると、リビングで借りてきた猫のように大人しく座っていた理央と交代した。
しばらくして、理央のタオルを用意するのを忘れていたことに気づく。洗濯して綺麗に畳んでおいたタオルを持って脱衣所に入る。
すでに理央は浴室で、扉一枚隔てた向こうからは、湯気の熱気が伝わってきた。
「双葉」
呼びかけると、ばしゃっと大きな水音がした。
「な、なに?」
珍しく慌てた声。明らかに裏返っている。驚いて湯船に逃げ込んだようだ。咲太がドアを開けるとでも思ったのだろうか。まったく信用されていない。
「タオル、置いておくな」
「うん」
「着替えはあるんだっけ?」
ネットカフェから回収してきた理央の荷物は大きいトートバッグがひとつ。
「あるよ」
「なければ、バニーガールの衣装か、パンダのパジャマを貸すぞ」
「今、あるって言った」
さすがにバニーガールは着てくれないだろうが、かえでの予備のパジャマは何枚もあるので、ぜひ着せてみたかった。
「さっきまで着てた服は、洗ってもいいよな?」
洗濯機の中には、咲太とかえでの洗濯物が入れてある。そこに、理央が着ていたTシャツも放り込んでスイッチをオン。
水が流れ出して、洗濯機は熱心に仕事をはじめた。
「洗濯なら自分で……この音、もう回したの?」
「注水中だな」
「し、下着は?」
「ん? 双葉ってお父さんのパンツと一緒に洗濯してほしくない派だったのか」
残念ながら咲太のパンツも洗濯機の中だ。
「わ、私の下着の話!」
「ちゃんと手洗いすればいいんだろ? わかってる」
かごの中には、先ほどまで理央が身に付けていた上下揃いのブラとパンツがある。やわらかそうな雰囲気のライトイエローの薄い布地に手を伸ばす。
「わかってない! 梓川は見るな! 触るな! 出て行け!」
「ここ、僕の家」
「脱衣所からって意味」
「それはそうと、大丈夫か?」
「梓川がそこからいなくなればね」
「よっこいしょ」
パンツとブラの洗濯は諦めて、咲太は洗濯機を背に座り込んだ。
「どうして、風呂の外で落ち着く」
「今の『大丈夫か?』は、思春期症候群についてな」
恐らく、理央はわかっていたはずだ。
「……」
返ってきた沈黙がそれを証明している。
「……よくわからない」
しばらくして聞こえてきたのは、自信のなさそうな声。どこか遠慮がある。
「それだけか?」
「なんて言わせたいの?」
「別に、双葉の率直な感想を聞きたいだけ」
当事者ではない咲太ですら、胸の辺りがざわざわするのだ。この状況に理央が何も感じないわけがない。
「……少し、こわい」
風呂場の中から理央が体勢を変える音がする。
「少しだけか」
「ネットカフェにひとりのときは、すごくこわかった」
その感情を思い出したのか、理央の声は震えていた。
自分がもうひとりいる。
誰も経験したことのない恐怖の中に理央はいるのだ。こわくて当たり前だった。
「けどさ、こんなことってあり得るのか? ひとりの人間がふたり存在するなんてさ」
小学生の頃に、一時期流行った都市伝説の中には、そんな話があったのを咲太は覚えている。自分と同じ姿をしたドッペルゲンガーの話。出会うと死ぬという、絵に描いたような都市伝説らしい都市伝説だ。
それを、今の状況では笑い飛ばす気にはなれなかった。
「マクロの世界で量子テレポーテーションが成立するなら、可能性はあるかもね」
「量子って聞くと、顔の筋肉が強張るな」
「テレポーテーションは?」
「SF映画の話だろ、それ」
「そうでもないよ。現実の話」
「まじか」
テレポーテーションなど、咲太にとっては完全に物語世界の用語だ。
「前に、量子もつれの話はしたよね」
「ああ、離れてる量子同士が同期する的なやつだっけ?」
確か、その状態になったふたつの量子は、瞬間的に情報を共有できるとか、そんな話だったと記憶している。



