第一章 不思議が不思議を呼んできた ⑧
全部飲み干すと、空の紙コップを捨てて、コーヒーカップを返却口に戻した。それから、麻衣に借りたスマホに理央のケータイ番号を打ち込む。
二回目のコールの途中で電話は繫がった。
「はい?」
警戒心を含んだ理央の声。見慣れない番号からの電話だからだろう。
「僕だ」
「なんで梓川がケータイの番号からかけてくるわけ?」
「麻衣さんに借りてる」
「のろけならよそでやって」
ため息交じりの声。咲太のよく知るいつもの理央の反応だ。あまりに自然すぎて、この近くにいる気配は感じなかった。
「で、なに? まさかまた厄介ごと?」
「双葉の中で、僕イコール厄介ごとなのか」
「そうだよ。存在が厄介」
「あのな……」
反論を試みようとしたところで、背後の個室でドアが開く気配がした。
「……咲太、あれ」
麻衣が肩をちょんちょんと指で突いてくる。
何の気なしに振り返ると、丁度個室から出てきた客と目が合った。その瞬間、体が違和感で満たされていく。
出てきたのは理央だった。咲太が捜している人物であり、電話をしている相手。
なのに、今、個室から出てきた理央は手ぶらだ。スマホを持っていない。もちろん、マイク付きのイヤホンをしているわけでもない。
耳の奥がざわざわと騒ぎ出す。
「梓川、どうかした?」
受話器からは理央の声が今も聞こえていた。
だけど、目の前にいる理央は、少し驚いた顔で咲太を見ているだけで口元はぴくりとも動いていない。
「あ、悪い、双葉。なんか充電切れっぽいから、また明日にでも連絡する」
「あ、そ。急ぎじゃないなら、別に私はいいけど」
「じゃあな」
耳から離したスマホの画面に触れて通話を終える。スマホから顔を上げると、再び理央と視線が絡んだ。
その直後、理央は個室に引き返す。
「あ、ちょっと待て!」
制止の声は届かず、ドアが勢いよく閉まる。
理央が逃げ込んだ個室の前に移動して、軽くノックをした。
「双葉?」
「……」
返事はない。
「この状況で居留守は無理があるだろ」
そう告げると、かたんと鍵の外れる音がした。ゆっくりドアが開く。
出てきたのは理央だ。正真正銘、咲太のよく知る双葉理央。サイドに大きなポケットが付いたゆったりズボン。これまたゆったりしたTシャツ。下に縞模様のタンクトップを一枚着込んでいる。
「電話の相手は私?」
真っ先におかしな質問が理央から飛んできた。だが、その質問はこの場合においては正しい。そのことについて咲太も聞きたいのだ。
「ああ」
「なら、ごまかしは利かないだろうね」
強張っていた理央の表情が、諦めたようにふっと緩んだ。
理央に、「外で話そう」と言われて、咲太は自分と麻衣の分の伝票をカウンターの女性店員に渡してネットカフェをあとにした。
エレベーターを下りた理央は、JRの駅舎と江ノ電藤沢駅を繫ぐ連絡通路の一角で立ち止まった。それから、淡々とした口調で、
「私がふたりいるんだ」
と、とんでもないことを言ってきた。
連絡通路の手すりに両手を置いた理央の目は、向かいの通路を行き交う人々の流れをぼんやりと映している。
「それ、どういうことだよ」
「言った通り。三日前からこの世界に双葉理央がふたりいる」
「……」
無茶苦茶なことを言われているのはわかる。わかるのだが、咲太の頭は理解を拒否するようには働かなかった。先ほど、電話でやり取りした相手は間違いなく理央だった。咲太のよく知る双葉理央だったのだ。
そして、それとは別に、目の前にもうひとり理央がいる。双葉理央がいる。
「思春期症候群ってこと?」
その言葉は、麻衣の口からこぼれた。
「……」
振り向いた理央の目は、「認めたくはないけど」と語っていた。
「心当たりは?」
「あればとっくに対処してる」
「ま、そりゃそうだな」
話を聞いているうちに、咲太の頭にふとひとつの疑問が浮かんだ。無造作に下ろした髪。見慣れた眼鏡。昼間は別の格好をしている理央と会っている。
「僕が昼に会ったのはもうひとりの方か?」
「私は梓川に会ってないから、そういうことだろうね」
「そうか……」
「あの『偽者』には迷惑してる。家に居座って生活をしてくれているおかげで、私は帰るに帰れない。両親に知られるのは色々とまずいんでね」
「だな」
恐らく、娘がふたりに増えたことを理解などできないだろう。
「おまけに、『偽者』は部活動にも熱心で、学校にも行っているらしい」
「昼間に会ったとき、双葉は制服だったし、これから部活だって言ってたな」
「それを聞いたら、ますます外は危険だね。私を知ってる誰かに目撃されるのは何かと都合が悪い。しばらくは隠れているしかなさそう」
「それでネットカフェかよ。もうちょい場所をだな……」
「ホテルに泊まれるほど金銭的余裕はないよ」
いつまで続くかわからないし、と理央は付け足した。
「アホか」
「梓川からアホ呼ばわりされるのは屈辱的だね」
「さっさと僕に連絡よこせって」
「……」
咲太が真剣に怒っていると気づいたのか、理央の表情から苦笑いが消えた。
「よく考えろ。お前、女子高生だろ? ネットカフェに連泊するとか正気か?」
個室には鍵がかかるとは言え、安全を保障された環境ではない。男ならどうなろうと知ったことではないが、女子の場合は何かあったら取り返しがつかなくなることもある。
家出同然の少女を狙って、近づいてくる男どもだっているのだ。厄介な理由があるとは言え、理央のやっていたことは無謀にもほどがある。
それに、いずれ店側も、理央が高校生であることに気づくだろう。ずっと続けられるわけはないと思う。警察に相談されでもしたら、親に連絡されて一発でアウトだ。
「……」
反省したのか、理央は俯いたまま何も言わない。
「あのな、双葉……あだっ!」
さらに続けようとした咲太の頭を、横から麻衣が小突いてきた。
「麻衣さん、構ってあげられなくて退屈だったのはわかりますけど、大事な話の最中で……って、いたたた!」
今度は耳を強く引っ張られた。
「そんな簡単に咲太に連絡できるわけないでしょ」
その目は、「何にもわかってない」と言っている。
「何にもわかってないんだから」
口でも言ってきた。
「えっと、何が?」
「仮に、咲太は双葉さんから連絡もらって事情を聞いたらどうしたのよ?」
「そりゃあ、うちに泊めます」
「咲太も男じゃない」
「ま、そうだけど……」
「咲太の性格くらい、双葉さんはわかってるんだろうし、家に泊めてもらう前提で男子に連絡なんてできると思うの?」
「正直、思わなくもないです」
素直に答えると、麻衣には大きなため息を吐かれてしまった。
「男はこれだから」
「すいません」
「咲太はこれだから」
「いや、でも、双葉は友達ですよ? 変な気なんて絶対に起こしませんって」
「へ~、咲太はお風呂上がりの女子高生が部屋にいてもエロい気持ちにはならないんだ?」
「なります」
「ダメな方を即答するな」
おでこをつんっと小突かれた。
「そりゃあ、バスタオル一枚の絵を想像したらエロい気持ちになりますって」
「想像しろとは言ってないでしょ」
微笑んではいるけど、麻衣の目は笑っていない。
「……」
理央は理央で、嫌悪感を含んだ視線を咲太に注いでいた。
「もちろん、想像したモデルは麻衣さんだよ?」
「なら、いいけど」
「いいんだ」
それは無視して、麻衣は理央に向き直っている。
「事情はばれちゃったんだし、素直に咲太を頼ったら?」



